第17話

「ビンタ事件、あったあった!」アキコさんが打たれた鐘のように答えた。


 なんだ、そのビンタ事件って。文系と理系の話から、いきなり話題が飛んだ上に、物騒な事件の名前に、母が誰かに暴力を振るったかと、私は再度身構えた。


「ショウコちゃん、色々と熱かったよね。」アキコさんが尊いものでも見上げるような目つきで言った。取り敢えず、主人公は母ではなさそうである。胸を撫で下ろした後に、私がキョトンとしていると、アキコさんが説明してくれた。「ビンタ事件と言えばショウコちゃん。高校は文系クラスで、文系科目が得意で文学部志望だったんだけど、秋になって建築やりたいって物理と数学を猛勉強して、工学部建築学科受験して、現役で見事合格したという伝説の女傑。教室の机の下に、マイ本棚作って参考書入れて、休み時間も勉強してたなあ。追い上げ凄かったよね〜。カッコよかった〜。」遠い目をしてアキコさんが言った。

 そんなことできるんだ。よく分からないけど、履修科目とか足りたんだろうか。私が目をぱちくりしていると、アキコさんが続けた。

「集中力も一流なんだけど、熱血漢でね。高校の時、トワちゃん、好きな人がいて、告白したのよ。その人、トワちゃんと同じクラスで、仲良さそうに見えたんだけど。」

「そうそう。」タマキさんが相槌を打った。伝説の女傑の話をもっと聞きたかったけれど、またここで母が出てくるのか。おまけにまた好きな人か。私は周りに聞かれないように注意して小さくため息をついた。


「だけどさ、その相手が、全然、トワちゃんにお返事しない訳よ。」

「結構、トワちゃん待ってたよね。」タマキさんはすでに声が上擦って頬が緩んでいた。

「ね〜。でさ〜、高3の年末も押し迫ろうという時よ。」アキコさんが息を整え、メゾソプラノの麗しい声で続けた。

「終業式ってあるでしょ?体育館に集まって列に並んでる時に、トワちゃんのお友達の、そのショウコちゃんっていう子がね、トイレに行くって途中で体育館から出たのよ。」そうか、伝説の女傑のショウコさん、お友達ならば、これまた祖父の家の机のタイムカプセルみたいな引き出しに、母宛の手紙が入っていた「のぎしょうこ」さんに違いない。母によると、私は赤ちゃんの頃に母に抱かれて、例のショウコさんに何回か会ったことがあるらしいが、こちらは小さすぎて記憶がない。勿論、伝説の人だなんて知る由もない。

「ショウコちゃんさ、トイレ行った後、体育館の中に戻らずに出入り口で待ってみたいなのよ。ま、そもそも、トイレに行ったかも怪しいんだけど。でさ、終業式終わったらクラス毎に並んで出てくるじゃない?で、相手の男子が出てくるの見計らって、ショウコちゃん、その男子に、”ねえ、トワコにいい加減返事したら?”って詰め寄ったらしいのよ。」

「自分の受験も大変なのに、よく気が回るよね〜。」タマキさんが合いの手を打つ。

「だよね〜。でさ〜、その相手がさ、何も言わないで立ち去ろうとしたのよ。ショウコちゃんが”待ちなさいよ!”って引き留めて、そこで思いっきりビンタしたのよ。」うわ〜、ショウコ氏、やるなあ。私の脳内では、頭に「必勝」と書いた手拭いを巻いて、鉛筆を頭上に捩じ込んだ女子高校生が、蛇に睨まれた蛙にようにオドオドしている男子高校生の頬を、目一杯はたく勇姿が勝手に再生されていた。

「見た見た!彼の眼鏡が吹き飛んで、一時、騒然としてたよね。」タマキさんは思い出して大笑いしていた。「先生が気がついて、騒ぎを止めようとしたんだけど、ショウコちゃんは”私は何も悪いことしてません!”って言い放って教室に戻ってたよね。ビンタされた方も、決まり悪いでしょ、”大丈夫です”ってそそくさと体育館から逃げ出してたよね。」


 熱い。伝説の女傑が友人だというだけで凄いことなのに、その友人が母のために身体を張ってくれるなんて、いい話じゃないか。私はそう思った。

「ま、そのショウコさまのビンタも、義憤説と、激怒説の二つがあるんだけど。」タマキさんがしたり顔で補足した。なんだそりゃ。「そうなんですか?」私は尋ねた。

「そうそう。トワちゃんの告白に返事をしない男子に、ショウコさまが腹を立てた、というのが義憤説。激怒説は、その彼が、ショウコさまに”ババア、どけ!”と言って、ショウコさまが激怒したっていう話。」

 アキコさんも声を揃えた。「結果論だけど、自分の友人に向かってババア呼ばわりするような奴と、付き合わなくてよかった、って話。だってピカピカの高校生だよ〜、ババアなんて何十年も早いって。ショウコちゃんも、トワコはあいつに勿体ない、ビンタしてトワコの悩みの種を断ち切った、って豪語してたもん。」

 母の告白に返事らしい返事もしなかった男子が、いきなり呼び止められて暴言を吐けるのだろうか。何か辻褄が合わない。その疑問に答えるように、タマキさんが言葉を続けた。「その”ババア”ってのも、その彼じゃなくて、周りの男子が言ったのを、ショウコさまが人違いでビンタしちゃった、って話もあるんだけどね。」

 そうか。その人がどう思っていたか分からないけれど、告白された挙句、返事をしないからと、公衆の面前でビンタされるのも、何やら気の毒な気がしてきた。激怒説かつ人違いなら濡れ衣である。大体、母のことだ、ビンタ事件に至るまでに、迷惑この上ない言動があったのかもしれない。なんたって母は、元大魔神、待ち伏せ大王である。良く言えば追っかけだけれど、ストーカーとも言う。


「その後、その彼とトワちゃんと一言も口を聞かなかったんじゃない?周りも気を遣って腫れ物を扱うみたいになってたみたいだけど。まあ、トワちゃんが告白した後から、気まずくなってたらしいんだけどね〜。」アキコさんが涼しい口ぶりで補足した。「告白する側にしたら、断ってくれていいから、返事くらいして欲しいよね〜。」

「そうですね。」私は相槌を打ったけれど、人間いつでも上手く断れる訳でもなかろう、と父の顔を思い浮かべた。もちろん、仕事を断るのと、好いた腫れたを断るのは全く違うけれど、父は仕事をなんでも断れずに引き受けてしまう。ましてや、父のようなノーと言えない人間が、高校生で、好きと言われた日には、断ろうにも断るのに一苦労しそうである。大体、「はい」とも「いいえ」とも答えられない場面は、そこいら中に溢れている。「どちらでもない」、「答えようがない」などなど。

 矛盾するような気もするけれど、母は、その「答えてもらえない」という沼の中でアップアップと苦しくなって、ショウコさんが友人として、母を沼から引っ張り出そうと返答を迫ったともいえる。

 そして、私はここで大発見をした気になった。過去と、今現在と繋がったのだ。父と母がどう知り合って、別居婚とか言いながらも家族の体裁をとっているのか。曖昧模糊とはしているけれど、案外、「惚れっぽいけれど全然実ることなく」、告白しても「答えてもらえない女」である母が、「断れない」父を、上手く虫取り網で絡めとるように捕獲して、今に至る、というのが両親の本質ではないか、と。 


 ぼんやりとそんなことを考えていると、タマキさんがしんみりした口調で言った。

「トワちゃん、アシノさんと結婚できて、ほんと良かったよね〜。」


 

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