第10話
通学にも使っている紺のリュックに着替えとスマホと充電器、イヤホン、ハンカチ、ティッシュペーパー、歯ブラシと化粧水と美容液、宿題の問題集とプリント、筆記用具、家にあったペットボトルのお茶と駄菓子、そして財布と電車の切符と父からの軍資金を入れた。リュックのファスナーを閉めるのがやっとだ。使い勝手が悪いな、と財布と切符、ペットボトルは小ぶりのトートバッグに入れ直した。これで良し。「行ってくるね」と弟に声をかけ、「行ってくる〜」と父にメッセージを送って、家を出た。弟はゲラゲラ笑いながら動画を見ていて、動画の方を見たまま「行ってら〜〜」と返して来た。父からは「気をつけて、区切りが付いたら、ケイを見に行くわ」と返信があった。
時間に余裕を持って駅に行く。土曜日で親子連れや老若男女の人々の待ち合わせで、改札口付近はざわついていた。改札の向こうの電子掲示板には、電車の行き先と、定刻通りの出発時間が表示されていて、列車の運行状況に乱れはないようだ。コンビニでおにぎりを買い、改札を通り抜ける。エレベーターでホームに上がり、父が取ってくれた指定席の号車番号位置に並んだ。暫くすると滑るように流線型の青い電車がホームに入ってきた。
車列は陽光を浴びて海沿いを走っていた。キラキラと光る水面と遠くの積乱雲。座席のテーブルで宿題をしようと思ったけれど、心地よい車体の揺れに、いつの間にか私は眠ってしまった。
目が覚めると、いつの間にか山脈を抜けて、また海が見えていた。紺碧の水面の上に、どこまでも伸びやかに青い空が広がっていた。進行方向の右側に漁港と瓦屋根の家々が広がり、風力発電の巨大な風車が周り、沖の遠くの方に船が小さく見える。私はこの風景が好きだった。
幾つか駅で停車するうちに、空には雲が沸き立ち、雲が棚引くようになる。この前ここを通った時、母は「仏様が乗るような雲だよねえ。お目出度い雲、瑞雲、というか。」と空を見ながら言った。「仏様が乗る雲が、元の空の雲を真似てるんじゃないの?」と私は反論した。そんなことを思い出していた。母も、今、この空と雲を見ているのだろうか。
電車は人家の側を通り抜け、町に入り、そして目的の駅に停まった。私は少しドキドキしながらホームに降り立った。もしかしたら、ホームに母がいるかもしれない。
注意深く見回したけれど、周りにいるのは知らない観光客や親子連れ、その他所用で移動する人、そして制服や校名入りのジャージを着た学生たちだけだった。そんなに簡単には見つからないのかな、と私は階段を降りて改札口に向かった。
「おお、キワちゃんかい、よく来たねえ。」駅に着くと、祖父がニコニコして改札口で待っていた。「お疲れさん。急に来ると言うから、びっくりしたわいな。」
「こんにちは、お世話になります」と私はぺこりと頭を下げた。
「お父さん、お母さん、ケイくんは元気かね。」と祖父。「はい、元気です」と私は答えた。少なくとも、父と弟は元気だ。
祖父は私が左肩にかけていたリュックを手に取ると、「こっちに車、止めてあるから」駅前駐車場の方に歩き始めた。すぐに祖父の白い自家用車が目に入った。最近、母たち姉妹の反対を押し切って、買い替えたばかりだった。
車に乗り込むと、シートベルトをしながら祖父は尋ねた。「で、今日はどうする?どこか行きたいところはあるかね?」移動することにだけ気を取られて、今日、到着後の予定を、考えていなかった。祖父の口調からは、少なくとも、母の失踪後、祖父と母は全く連絡を取ってなさそうだった。無我夢中で来てしまったけれど、これは本気で探さないと、と私は心の中でため息をついた。でも、今日は移動してきただけで疲れたのも事実だった。母だって大人だ。一日発見を先延ばししても、大きな危険はないだろう。こちらも午後3時を回って、当てもなく動く気はしなかった。祖父はエンジンをかけて車を動かし始めた。
「今日はいい。まっすぐ帰る」
「そうかいな。じゃあ、帰りに食べたいものでも買って帰るかね。ええと、明後日まで居るのかいな。明日、明後日は、どうする?」
私は勇気を出して、心臓がバクバク言い始めたのを自覚しながら、口にした。「紫水高校の方に行きたい。」
「二日とも?他は?」祖父は顎をさすりながら尋ねた。
無計画過ぎたな、との思いが、ひたひたとお腹辺りから胸の方に上がってきた。ええい、ここまで来たら毒をくらわば皿までだ。平気なふりをして、声を絞り出した。「神社巡りする。」
「そうかいな。神頼みかいな」
祖父が察しが悪いからか、興味がさほどないからか、核心を突かない反応を返して来ることに、私は救われていた。「うん」と返事をすると、祖父が思い出したかのように付け加えた。
「紫水高校か、夏に甲子園に出とったなあ。観光客が行くようになったらしいけど、キワちゃんもそれかいな。」
うわー。紫水高校という固有名詞と、甲子園という固有名詞に罪はない。ただ、その二つの言葉を同じ文章の中に並べられただけで、母の失踪と一千万円寄付疑惑が私の胸をぐいぐいと突いて苦しかった。ただでさえ心臓の鼓動が速くなっているのが、心臓が全速力で走り始めていた。辛うじて、私は消えりいそうな声で「うん」と答え、その場で咄嗟に表向きの理由をでっち上げることにした。えいや。
「ちょっと校舎のスケッチとかしたくて。」
「うわ〜、スケッチのためにわざわざ来たんかいな。」
祖父は、想像した通り、言葉尻を下げて大いに呆れた声を出し、続けた。「スケッチなら家の近くの学校でいいやないの。」慌てて私は言葉を継いだ。「空とか、雲とか、海とか、周りもスケッチしたいから。」
「そんなことかいな〜。」と呆れた口調のまま、祖父は言った。
「そういえば、お母さんが高校生の時、野球部が甲子園に行ってたこともあったな。」と、祖父は鼻の横を少し指で触りながら言った。
え、何、その新情報。全くの初耳だった。母の高校在学中に、高校の野球部が甲子園大会に出場してただと?祖父はこちらに構わず続けた。
「まあ、その時だけだわいな。スケッチなんか、お母さんの母校でいいんじゃないの?甲子園も行ってたし、おじいちゃんちから近いし。」
祖父よ、さっきはスケッチなんか、私の家の近くの学校でいいと言ったよね。提案が無茶苦茶だ。私は慌てて言った。「お母さんの高校じゃ、海が近くないし。。」
「そうかいな。海なんかまた別にスケッチしたらいいやないの。ええと甲子園に出た時の野球部の投手はええと、そのお父さんはおじいちゃんも知ってるけどねえ。ええと、役職は最後なんだったかなあ。今どうしておられるんかなあ」
いつの間にか、祖父の話は甲子園大会そのものから逸れていった。
祖父の話を巻き戻せる内に、私は確かめたかった。一旦深呼吸をして、尋ねた。
「おじいちゃん。ねえ、ママ、甲子園まで試合の応援に行ってた?」
丁度、車は信号待ちで止まっていた。祖父は記憶を手繰り寄せるように、また鼻の横を触りながら、間をおいて言った。
「ええと、行ってなかったと思うよ」
そうなんだ。とても拍子抜けした自分がいた。やっぱり、スポーツ関係は嫌いだったんだ。少し安心すると同時に、どうして母は推定一千万円寄付事件、或いは推定一千万円寄付未遂事件を起こそうとしているのか、益々わからなくなった。
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