第9話
いつもなら土曜日は、予定さえなければ昼頃まで惰眠を貪る私だけど、今朝は学校に行く日よりも早く、シャキッと目が覚めた。出かけるための準備はもう済ませてある。あと、母のスマホを持って行かないと。
母の職場のタチバナさんから電話がかかって来てから、母のスマホに電話はかかって来ていない。ただ、電話をかけて来そうな人物が一人いた。それは、母の父、私の母方の祖父である。
覗くのは良くないよなと思いながら、昨晩、弟が母のスマホを手放した隙を狙って、私はメッセージをざっとチェックした。案の定、母宛に、祖父からメッセージが来ていた。
「蒸し暑い日が続きますが、お変わりありませんか?先ほど、キワちゃんから明日泊まりに来たいと電話がありました。一人で来るようですが、大丈夫?」
直接電話がかかってくる前に、返信しないとまずい、と反射的に私は返事を母の代わりに打ち込んでいた。母が失踪したことを、たとえプチ別居していようと、この家族間で、つまり父と、弟の中で留めておこう、と無意識に思っていた。ただでさえ母の職場に嘘をついた形になっている。勿論、母が本当に新型コロナに罹患して、どこかで行き倒れている可能性は皆無ではないけれど、話を広げると収拾がつかなくなりそうだ。過去のメッセージを参考に、なるべく、母っぽい文体で、祖父に返信するための作文を認(したた)める。
「毎日まだまだ暑いですね。突然キワがお邪魔したいと言い出して、すみません。直前のお願いになりましたが、泊めて頂けるとのこと、ありがとうございます。一人で大丈夫です。ご迷惑おかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします。」
送信した後、弟に母のスマホを取られないように傍に置いて歯を磨いている間に、祖父から返信が来た。「了解しました」
ヒャッホー、とりあえず、アリバイ工作バッチリだね!と自分にいいねボタンを心の中で連打しながら、私はお風呂に入り、髪を乾かし、布団に入ったのだ。
私が起きた後、すぐに弟が起きてきた。弟はいつもと変わらないペースで起き出すとすぐにリビングでゲームを始めた。昨日買ってきたパンを皿に並べ、冷蔵庫に入っていたオレンジを切って「ご飯だよ」と弟に声をかけた。「ママ、なんか言ってきた?」と弟は聞いてきたけど、「何も言ってないよ」と返すと、弟はそれ以上何も言わなかった。「今日は何かあったらパパに言ってよ」と、私は弟に見守り携帯を渡した。「はい」と弟は上っ面のような返事をした。実際、動画機能がないためか、ほとんどこの携帯電話は使われていなかった。
さて、紫水高校野球部後援会に母が推定一千万円を寄付しようとした件について、改めて私は考えていた。八月後半、夏休みの宿題を終わらせるのに汲々したり、実力テストだの、部活の作品作りだので、何となく忙(せわ)しく、母の動向をカーテン越しに見ている感じだったけれど、それでも今思えば、母の失踪につながる萌芽はあった。
一度、見逃し配信で試合を見てから、母は紫水高校を熱心に応援し始めた。そして、応援ソングを朝から大音量で聴き、野球のイロハを理解すべく、まずは高校野球の解説動画を、試合と試合の間に見るようになった。母がスポーツなるものに興味を持つこと自体が、私が物心ついて以来、初めてだった。なんせ、母は中学校の5段階評価で、出席しているにも関わらず、体育が「2」、ごく稀によくて「3」、高校の10段階評価では、同じく体育は「3」、一度だけ「4」だった強者である。小学校1年生の時、校庭の雲梯(うんてい)の一番端で一時間泣き叫んで終わったとか、高校の時は跳び箱もハードルも、項垂れてゆるゆる走っては見るけれど、直前で引き返し、飛ぼうとしたことは一度もないとか、誇らしそうに話している人間である。いや、ここまで来ると、開き直るしかないのだろう。学校で、特に低学年で身体能力は残酷にその人の立ち位置を決める。
そんな訳で、母は体育の授業は勿論、スポーツそのものが大嫌いだった。自分の妹が中学で運動部に入ろうとするのを、母が全力で潰して文化部に入らせたのは、行き過ぎた暴君としても。今もニュース番組を見ている際に、スポーツコーナーになった瞬間、迷いなくテレビを消していた。
それなのに。「知らない人とSNSでやり取りしない」と私たちは学校で言われ、母も私たちにそう言っていた。紫水高校のインタビュー番組を見逃し、何度も見逃し配信をつけたり消したりして、紫水高校の部分だけ配信していないと母が知った時。SNSで「見ました!」と投稿している知らない人たちに内容を教えてください、と、突然、直接連絡していた。これは、私の眼前でメッセージを送っていたから、間違いない。別に、個人情報のやり取りをしているわけではないし、犯罪行為でも何でもない。大人だから直接知らない人と繋がるためにSNSを使ったっていいのだろう。だけど、今まで、SNSは見るだけだったよね?この時、私は「送るの?」と一瞬ひいた。母はニカっと笑って、怯んだ私を尻目に、「うん!内容、教えて欲しいもん」とあっけらかんと送信ボタンを押していた。母って、こんな人だっけ?
極め付けは、ショート動画を見始めたことだ。アプリをスマホにダウンロードして、何やら見ていると思うと、甲子園関連の映像を熱心に見ている。コメント欄まで全て見て、一喜一憂している。夏の甲子園が閉幕しても、まだ見ている。一週間経っても、二週間経っても、1ヶ月経っても、見続けている。今までの母と違いすぎて、「ねえ、ショート動画とかは、長い動画を見る集中力がない、10代、20代が見るものだから。コメントもクソだから」と暗に止めさせようとした。でも、母は「ここにしかない動画がある」と、止めない。確かに、私も、話題の動画でトップに出てきた分は見た。甲子園特番チャンネルが開設しているアカウントの動画で、チーム同士の交流を映したいい映像だった。特番チャンネルを踏み台に、母は更に触手を伸ばし、ファンが選手達の映像を編集して投稿している動画を連日端から見ていた。見応えがあるらしい。一昨日、母がいなくなる前の日の晩も、ショート動画を見ながら寝落ちしていた。BGMが大音量でなり続けていて、私は醒めた目で見ていた。
こうして振り返ると、この夏、母をめぐる異変が幾つかあった。でも、だからと言って、一千万円寄付する?いなくなる?
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