第6話

 英語のレッスンに行っている場合ではなかった。資金調達のためには、今から父に連絡し、資金を獲得しなければならない。母のスマホは、予想通り、弟が傍に置いていた。スマホでゲーム実況を聞きながらゲームをしているのだ。私は弟に近寄り、上から手を伸ばして、「使うから、貸して」と母のスマホを取り上げた。弟は渋い顔をしたけれど、ゲームが佳境だったようで、特に抵抗はしなかった。

 母のスマホのアプリから、私は英語の先生の連絡先を探し出した。そして履歴に残る母の文面をコピーし、送信した。こんな具合に。「いつもお世話になっています。キワの母です。今日のレッスンですが、体調不良のためお休みさせて下さい。直前の時間でご迷惑おかけし、すみません。どうぞよろしくお願いします」

 その次に、自分のスマホから父に電話をかけてみた。すぐに出てくれると助かる。


 有難いことに、父は即座に電話に出てきた。「はい。どうした?」少し緊張感を孕むものの、声は柔らかく、機嫌は悪くはなさそうだった。私は単刀直入に言った。「お金が要るんだけど。今すぐ。生活費。」父は素っ頓狂な声を出した。「え??今すぐ?ママは?」父がますます混乱しそうだ、と思いながら私は続けた。「ママはいなくなった。昨日から」

 「え、どう言うこと?」と予想通り父は甲高い声を出していたが、大変有難いことに、深く経緯を聞いては来なかった。「今、手元に現金がないから、コンビニで下ろすわ。近くの角の所で待ち合わせよう」と言ってくれた。「わかった」と私は電話を切った。さっきも買い物をしたコンビニだ。短時間に2回も出入りしたくはないけれど、文字通り背に腹は変えられない。

 幸い、母のスマホの画面を見ると、英語の先生に送ったメッセージは既読になっていて、「お大事になさってください!」という返信まで来ていた。よし、こちらは問題なく休めそうだ。母になり代わり、「ありがとうございます」と返信してから、寝転んだままゲームをしている弟に、「もう一回外に出てくる」と声をかけた。弟は相変わらず、のんびりとした、どことなく嬉しそうな声で「行ってらっしゃ〜い」と答えた。


 外に出ようとした時、ふとキッチンカウンターの上に置いてある紙が目に入った。赤枠の上に、「払込取扱票」と印字してあった。母が手書きで口座番号を書き込んでいた。振込先の口座番号を流し見して、口座名義が目に入った。

「紫水高校甲子園出場後援会 副会長 青山 みどり」

 あ??紫水高校。先日の夏の甲子園、正式名称「全国高校野球選手権大会」に約30年ぶりに出場し、旋風を巻き起こした高校だ。世間の関心に負けず劣らず、母も熱心に応援していた。最初は、友人の母校だとか話していたが、そんなに興味を持っているようには見えなかった。外出から帰宅して、報道で初戦で優勝候補の一角を破ったのを知ったくらいだ。友人に「初戦突破おめでとう」とメールした後に、ニュースで試合の評判を知った母は、その日、深夜にかけて見逃し配信で試合を観戦していた。そして突如、「野球の一点は一点にして一点にあらず、人生の他事に通ず」と格言のように言い始め、以降、準々決勝で敗れるまで、何やら人が変わったように「捕れ〜行け〜」「行け〜〜打て〜」と叫び、選手が好プレーすると一人で目一杯拍手をして、母は熱心に画面越しに応援していた。余りに母が大声で騒いでいるので、弟と私は「行け〜打て〜」と母の真似をしていたくらいだ。

  おまけに、母が聴く曲も変わり、それまで推してたアーティストの曲はさっぱり流れなくなった。代わりに、毎日大音量で応援ソングを流しては一緒に歌っているものだから、私の好きな曲が幾つか混じっているとはいえ、聞き飽きてうんざりした。大体、母がヘビーローテーションしている曲のうち一つは、ちょっと前まで母は、私が聞いていると「それ誰の何て曲?ふーん」って言ってたじゃないか。そして、母の応援ソング独唱大会は、夏の甲子園が閉幕した後も、続いていた。

 それまで野球の「や」の字にも興味なんかなかったはずの母。クラスの野球部の男子連中が調子に乗っててうるさい、と文句を言うと、いつも同調してくれてた母。近所の小学校や中学校で、炎天下に練習している姿を見て、「この暑いのに、何してるんだろうねえ」と批判めいた口調で述べ、私が「それが野球なんだって」と返しても「いや、でも暑いし」と、理解の一ミリのなさそうだった母。そんな無関心層を惹きつけるだけの好試合だったのか。多分そうだろう、ネットの報道も今大会は好プレーが多かったとの総評だったから。


 学校のチームが勝ち進むにつれて、滞在費用などがかさみ、寄付金を広く募るのは珍しくない。父も、去年、一昨年あたりは、馴染みのある高校から夏の甲子園や春の選抜大会出場にあたって、寄付のお願いが今年も来たよ、とぼやいていた。紫水高校も例外ではなく、大会が終わった後も寄付を引き続き募っていた。

 寄付はともかく、口座番号の横の、金額に私の目は釘付けになった。8桁の金額記入欄に、全て数字が書き込まれていた。一千円とか、一万円とか、そんな額ではなかった。私は瞬きして、深呼吸してから、震える指で、数字を数えた。「1、0、0、0、、0が七つ。。ええと、、0が三つで一千円、四つで一万円、五つで十万円、、ひゃーーー、一千万円!!!!」

 ぶっ倒れそうになった。一千万円。へそくりか?一千万円、ぽんと寄付する?母校でもないのに。窓口で送金できなかったというのはこれ?この額を、母は、まさか、直接持って行った、或いは、持って行こうとしているのか??普段、スーパーで値引き品を喜んで買い漁っている母が、一千万円を溜め込んで持ち運ぶ姿を想像するだけで目眩がした。そして、夏物バーゲンで半額3980円になっていたワンピースを、私が欲しいと母に見せた時、「何これ。布がペラペラじゃない」と即座に却下した母の声もありありと思い出した。あれは、紫水高校の2回戦の日だったぞ。帰ってから一緒にテレビで見たもん。娘の3980円、半額ワンピースは買わないけど、甲子園球児には、一千万円寄付しちゃうんだ。もちろんチームで数十人、応援団や吹奏楽部もついていく。仮に百人として3980円をかけてみると、39万8000円である。二百人としても79万6000円である。娘のお買い物は、甲子園球児に完敗だ。。。いや、安売りになった服の1枚と、おそらく小学校の頃から重ねてきた野球の腕の総決算として全国に熱い試合を披露している選手と、日頃から鍛錬した応援、これまた体力作りから始める吹奏楽の演奏を一緒にしてはいけない。それでも、何これ。不平等なのか、娘への無関心なのか。

 私が変な声を出して叫んだので、弟はゲームの手を止めて不審そうな目でこちらをみた。「え、キワ、どうしたの?」私はもう一度、深呼吸をした。「なんでもない」そうだ、まだ、母が一千万円持って出かけた証拠もないし、寄付した証拠もない。ただ、行き先の手掛かりにはなると、母がたまたま残していった振込取扱票を、こっそり私の鞄に入れて、父との待ち合わせ場所に出かけた。


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