第5話
家に戻ると、靴を脱ぎながらため息が出た。「おにぎり買ってきたよ」とリビングに寝転がっている弟に声をかけ、次、何をしたらいいか、考えた。冷静な自分と、呑気に寛いでゲームをしている弟に猛烈な怒りが同居し始めていたけれど、今は冷静に戦略を練る時だ。
まずは食糧。コンビニで買い物をして、手元には700円ちょっとしか残っていなかった。母がいつ帰ってくるか判らない。弟は口が変に奢っていて、やたら菓子や肉類が好きなやつだ。白ごはんや食パンだけでは乗り切れないだろう。これでは明日には明らかに資金不足から兵糧不足に陥る。食糧調達資金が要る。ここで頼るべきは、やはり父だった。
父は、自宅近くに古いマンションの一室を借りて事務所にして、そこに籠って仕事をしていた。顕微鏡を除いて、標本を一枚いくらで観察するのだ。幾ら働いても賃金は父の右から左に流れるばかりで、収入は幾らでも必要だった。私たちが住んでいるマンションのローンや、祖母の有料老人ホーム入居費用。不釣り合いに立派なお墓の維持費用。父の同胞は何かと理由をつけて支払いの火の粉が自分に飛んでこないようにしていたが、小心者でお人好しの父は支払いから逃げられなかった。いや、そこには多少の義務感や自負もあるのかもしれない。
お金が必要だとはいえ、父はお人好しで仕事の依頼を断れず、昼夜を問わずに働き詰めだった。そのせいか否か、我が家のあり方はどこか歪だ。不在の父、いつも自転車操業の母、野生動物よろしく放置された挙句、ゲームと動画の世界に住んでいて堪え性のない弟。私が一番、世間的には普通っぽく過ごしている気はするが、今のクラスに心を開いている友達がいるわけでもなし、表向き普通を装っているだけのような気もする。
そんな歪な家に、父は時に不意に帰ってきては食卓に滑り込んで食事を摂り始めるのだが、帰宅するのかしないのか、帰宅するのが何時なのか、ほぼ連絡がない上に、たまに帰宅すると手を洗って数秒も経たないうちに食事を始める。食卓のお皿の上の料理が、誰の分かすら確認しないものだから、私も何度も目の前で、まるでトンビが油揚げを攫われるみたいに、私の分として置いてある夕食を、父に捕食されている。
「帰ってくるって言ってよ」とたまに母が父に言うのが聞こえるが、連絡する習慣は身につかず、曖昧なまま何年も過ぎている。大体、「今から帰る」と連絡があっても、実際に自宅に帰ってくるまで、最低一時間はかかる。父の事務所と、この自宅は、通りを挟んで歩いて五分なのに。「あれは骨の髄まで昭和で、専業のお母様に育てられ、何時でも家に帰ったら、ご飯かお風呂か選べると思ってる」とぼやきながらも「仕事が急に増えたりもあるでしょうよ」と、母は諦めているようだった。そう言いながらも、時には父と楽しそうに談笑する母を見て、二人の仲がいいのか悪いのか、私には判断がつかなかった。
不意打ちのように帰宅する父に食物を横取りされる私や弟だが、振り返れば、私も弟も何か手伝ってと母に言われても、たまにベランダの洗濯物と布団を取り込む他は、生返事で「後でする」と返すばかりだった。それでも、取り込むと母は「助かる〜」と喜んでいた。アリバイ作りよろしく、弟が洗濯物を取り込むシーンだけ母が写真撮影して、弟の冬休みの宿題、「おうちの人のお手伝い」に仕立てていたこともある。大体、母が「運動になるから手伝ってよ」と言っても、全く説得力がないのだ。母が少し動いたとしても、運動になっているように全く見えなかった。年々肉付きが増していって、少々家事をしたところで運動効果が得られていないのは明白だった。それなら、私だって楽な方がいい。
母の勤務は、元々は育児を名目にした短時間勤務の筈だけれど、年々仕事量が増え、残業が常態化していた。そして、私と弟がほぼ家事というものをしてこなかったという手痛い事実の結果、裏を返せば、父や母が私と弟に家事を行うように的確な指示と指導をしてこなかった生産者責任により、父の不在のもと、母は帰宅すると座る間もなく夕食の準備に取り掛かるのが、ほぼいつもの景色になっていた。当然、母の調理中に予告なく父が、突如帰って来ることもある。一応、父の名誉のために言っておくと、父が母より先に帰宅し、弟と私のお腹が空いている場合、私と弟の希望で、カップ麺の用意をしてくれることはある。ただそれも、私と弟が電気ポットでお湯を自在に沸かすようになり、父に頼まなくても良くなったけれど。
ある日、父が例の如く、突然帰ってきて、リビングに座り込んだ。母はキッチンに立って、野菜を切っていた。そして、母は疲れた声で「私もさっき帰ってきて、今、料理してるから」と続けた。
後で聞くと、母は「料理中なので、出来上がるのを待っていてほしい」とのつもりで言葉を発したらしい。一応、私も、その場で、そのように理解したのだが、虫のいどころが悪かったのか、にこやかだった父は突然声を荒げた。「作ってくれなんて言ってない!食べるために帰って来てるんじゃない!」いやいや、帰って来たら毎回数秒後に何か食べてるじゃん、と私は思ったけれど、父は啖呵を切って、「帰る!」と出ていった。なるほど、父は、事務所が「家」なんだ。お金がないと言いながら、ここのローンも払ってるのに!
時々、他のメンツの料理まで食べてしまっている父は、「食い意地が張っている」と思われることを、気にしていないようで気にしている。機嫌がいい時、余裕がある時は、「あ、ごめん」と言うけれど、多分、お腹が空いていて、目の前に何か食べ物があると制御できない自分の性(さが)を自覚しているからこそ、腹が立つのだろう。それなら、自分で食べ物を用意しろよ、と思うけど。
その日から、父は家に寄り付かなくなった。数ヶ月は会っていない。ただ、母や弟、私がいない間に、時々こっそり郵便物や衣類だけ、他のものには触れないようにして、こちらの家に取りに来ている気配はあった。
弟は、ゲームやインターネットの設定のために「パパは?」と父を探すことはあったが、さほど関心を持っていないようだった。私も、一緒に本屋や雑貨屋に買い物に行きたい気がすることもあったけれど、別に父と一緒に行かないといけない理由もなかったので、なんとなく日々は過ぎていた。肝心の母に至っては、全く気にしている様子はなく、「なんか言ってきた?」とこちらに聞いてくることはあったけれど、こちらがふざけて「死んだよ」と言うと、その都度「ああ、そう」と流すだけだった。一度だけ、「ねえ、パパいつ帰ってくるの?」と母に聞いたことがある。母は「さあ、うちは平安時代でいいんじゃない?」と返してきた。え、あの、妻の家に夫が通うと言うやつ、、と私が少し言葉に詰まると、母はサクッと言った。「つまどいコン、妻問婚。住まいは別々ってことで」
そんな事情で、数ヶ月会っていないとはいえ、手持ちのお金が底を着きかけている以上、父に頼るのが最善と思われた。
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