第3話

 結局、翌朝まで母は帰ってこなかった。お風呂が沸くと、弟から先にお風呂に入った。私がお風呂から上がって髪を乾かしながらリビングに入ると、弟は漫画を読んだまま床で眠っていた。寝ている時の弟の顔は、赤ちゃんの頃から変わらず可愛い。起きていると喧嘩ばかりだけど。私も、寝る前には母のことを忘れかけていて、スマホで小説を読みながら寝落ちしていた。

 結局、翌朝まで母は帰ってこなかった。母のスマホは、タチバナさんから電話がかかってきた後、電話がかかってくることはなかった。メッセージの新着やアプリの更新を知らせる音はしていたけれど。アラームで起きると、弟はもう起き出してゲームをしていた。菓子パンとヨーグルトを冷蔵庫から出して、二人で食べて、給食のお箸は洗っていなかったので、それぞれの給食袋から昨日の使用済みの箸を取り出して、新しい割り箸を入れた。ランチョンマットはさして汚れてなさそうだったし、1日くらい使い回しでいいや。

 弟を追い立てるように登校させて、私も学校に慌てて出かけた。学校までのダラダラと続く坂道を歩きながら、いつもの道なのに、そして両側の建物はいつもと変わらず陽に照らされ、いつもと同じように慌ただしく人々が行き交うのに、自分だけぽっかり違う世界にいるような気分になった。いなくなったんだよね、母親が。昨日の朝、私が学校に行く時には家にいたんだけど。昨日と今日の間に、深い深い谷があるような気分になった。事故に遭ったのか。事件か。単にどこかに自分の意思で出かけたなら良いけど。

 そんな感傷な心配に浸りながら歩いているうちに、坂道の途中で学校の予鈴が聞こえた。現実に絡め取られるように、私は少しずつ早歩きになって、校門を通り抜けた。「あと二分切ってるから!」と先生の声を背中に、校舎の中に入り、スニーカーを上履きに履き替えて階段を駆け上がった。チャイムが鳴る中を、教室に入る。今朝も間に合った、完璧だ。満足感に包まれ、席に着く。いつものように、大声で他人に絡んでいく男子や、トイレの鏡の前のうざったい女子の群れといった喧騒にまみれて、下校するまで、母のことは少し頭の中から遠のいていた。


 帰宅する道すがら、下り坂の向こうには盛りを過ぎた青空が広がり、積乱雲が遠くに少しだけ浮かんでいるのが見えた。キラキラと明るい午後の空気に、もしかして母が家に戻っているかもしれない、と淡く期待しながら、家の鍵を開けた。「ただいま」と言いながら中に入ったけれど、誰もいなかった。母のスマホは朝置いた場所と同じところにあり、新しい着信の記録はなかった。今日も母は帰ってこないのだろうか。わからない。とりあえず、お腹が空いた。食料だけ調達してこよう。財布を手に取る。お小遣いの残りが三千円ほど入っていた。新しいカラーペンを買いに行きたかったけれど、背に腹は変えられぬ。

 出かけようとすると、丁度弟も帰ってきた。弟は「ただいま〜」と言いながらリビングに滑り込む。私は「ちょっとコンビニ行ってくる」と弟に声をかけた。弟は「うん」と言いながら、ランドセルを無造作に床に置いた後、そそくさと手を洗うと、こちらを見ることもなく、自分で棚からおやつを引っ張り出して食べ始めていた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る