第2話
「コロナです」と咄嗟に声を振り絞って答えた私に、タチバナさんは素早く答えた。「あ、ほんまですか。発症日って分かります?陽性になったのは今日ですか?」まずい、と焦りながら、口から思わず言葉が出ていた。「はい、今日です。」そして、少々声が上擦っていたかもしれないが、まるで私じゃない誰かが話すみたいに口から言葉が続いた。「熱が40度位あって、、動けないみたいで、、連絡しないで、すみません」
ありがたい事に、タチバナさんはそれ以上突っ込んで来なかった。「ええと、お母さん、コロナかかるの2回目やんね。今日が発症日なら、今日が0日目やから。。1、2、3、4、5日目は、、来週の火曜まではお休みやね。分かりました。来週水曜、症状が治ってたら出勤やね。総務に伝えておきます。お嬢さんは大丈夫?お母さんにお大事にって伝えておいてください。はいは〜〜い」
こっちは大丈夫です、と答えようとしたけれど、タチバナさんはサバサバした声で用件を伝え終えると、電話を切った。私は足の力が抜けそうになって、よろよろとその場に座り込んだ。
気がつくと、弟がゲームを中断して、こちらを見ていた。「え、ママ、コロナなの?」私は我に返っていつもの喧嘩腰の口調で答えた。「知らない!ママ、仕事行ってないって」弟は呑気な口調で尋ねた。「え、ママどこ行ったの?」それは私も聞きたいよ、と言いたいのを口先で封じ、なるべく単調に返した。「知らない、とりあえず休んだ理由をコロナにしておいた」弟は「えー」と言いながら、ゲームに戻っていた。
頭の中がぐるぐるした。母が仕事に行っていない。いわゆる無断欠勤に相当するのだろう。スマホも置いて、どこかに出かけた。そのうち帰ってくるかもしれない。何か急用、祖父に何かあったとか、そいういことかもしれない。職場に連絡する暇もなかったのかもしれない。
母についてあれこれ考えながら、確かなことは、と私はネジを締めなおした。もしかしたら、もうそろそろ、何事も無かったように母が帰宅するかもしれない、その可能性はゼロではない。でも、おそらく、その可能性は低そうだ。突発的に何か起きたなら尚更のことだ。私はカップ麺を作るためのお湯を沸かす事に決めた。そして、弟にも声をかけた。「ねえ、カップ麺食べる?」
弟は寝転んだまま両足をぐるぐる空中で動かしながら無邪気に答える。「食べる〜〜あのデカ盛りがいい」私は「わかった」とカップ麺を二つ用意した。お湯を沸かしながら、このまま明日まで母が帰ってこないパターンを考えてみた。明日は金曜日で、私も弟も学校がある。とりあえず、二人とも、水筒とお箸さえ持っていけば学校で昼の給食にはありつける。明日の朝は、何を食べよう。冷蔵庫の中に、前の日に母が買ったと思しき、菓子パンとヨーグルトがあるのが見えた。これでいいや。明日の夕までに母が帰ってくるかはわからないけど、明日の夕食は明日また考えよう。カップ麺が出来上がり、弟と並んで食べた。「ママは〜?」と弟はまた軽く尋ねてきたが、主にテレビの画面を見ているようで、さほど気にしていないようだった。
お風呂の用意をしながら、勇気を出して母のスマホの着歴を見た。「市立病院」
「市立病院総務課」「市立病院」「市立病院」「市立病院外来」‥勤務先からの着歴ばかり、二十数件あった。全て今日だ。その前の履歴は、昨日夕に、母が帰宅前に私のスマホにかけてきた電話だった。祖父に何かあったのか、と思ったが、そのような形跡は、少なくともスマホには無かった。母はどこに行ったのだろう。
そして、タチバナさんとの通話を改めて振り返った。その時は口から出まかせに「コロナです」と答えてしまったけれど、自分でもよくやったと思った。嘘も方便という。方便のおかげで、母は少なくとも今のところ、無断欠勤にもならず、そして5日間時間稼ぎができた。頭が真っ白になりながら、「コロナ」という言葉を紡ぎ出した私を、自分で褒めた。
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