あの空に戻れ

正印 藍子

第1話 

 部活を終えて家に帰ると、弟がリビングで寝転んでゲームをしていた。周りには例の如く、お菓子の包み紙が散らかっている。母はまだ帰宅していないようだ。「ママは?」と一応弟に尋ねると、弟はいつものそっけない調子で、ゲームの画面を見たまま、こちらに視線を向けることなく、「え、いないよ」と答える。今日も母は残業か。そろそろ「今から帰る、何か要るものある?」と電話がかかってくる頃か。

 一旦、自分の喉を潤そうと、グラスに水を汲んで飲み干し、もう1杯グラスに水を入れて、テーブルの上に置いてある駄菓子に手を伸ばす。学校と部活の疲れが癒される。小腹も空いてきたし、カップ麺を食べようか、どうしようか。もうすぐ母が帰ってくるなら別だけど。

 自分の腹具合と相談しながら、カップ麺のお湯を沸かそうかどうか、スマートフォンの画面で好きな動画を眺めながら暫し逡巡していると、思わぬところから携帯電話の呼び出し音がジリジリと聞こえた。私のスマホは手元だ。母がスマホを家に忘れて行ったか。

 弟は寝転がってゲーム画面を見たまま、「さっきからずっと鳴ってるよ」と言った。母が忘れたことに気がついて、どこかから自分の電話を鳴らしているのだろうか。そんな推測をするが、弟はゲームをしたまま、自分のすぐ傍から母のスマホを持ち上げる。「マジでうざい。さっきから鳴りすぎ」。弟は何故か‥いや、私も知っているのだが‥母のスマホのパスワードを知っていて、慣れた手つきでパスワードを入力する。動画を見る気だ。もしかして、母が何か連絡をしようと、自宅に忘れたスマホを鳴らし続けているのかもしれない。そう思って、私は「見せてよ」と、弟から素早くスマホを取り上げた。

 そこに発信元として表示されていたのは、母の勤務先だった。やはり、と私は電話に出ることとした。母が掛けているのだろうと思って。「はい」。

 「あ、せんせ?」聞こえてきたのは、母の声ではなかった。誰か知らない女の人の声だ。「いえ、違います‥」と答え、母はいません、と言いかけた時、声の主は畳み掛けるように言葉を重ねた。「あ、私、市立病院の相談員のタチバナです。お嬢さん?」え、母の勤務先の職員さんだ。。電話に出るんじゃなかった、との思いがジワジワと私のお腹の辺りから湧き上がってきた。事務的なこととか聞かれる?どうしよう。。そんなこちらの焦りにはお構いなしに、タチバナさんは続けた。「あの、お母さんね、今朝からこっちに出勤してないんやけど、何かご存知?」

 なんと。私は頭を氷のバットで打ち砕かれたような衝撃を受けた。母が出勤していない?有給休暇とかじゃなくて?

 思考停止しながら、私は無意識のうちに、声を絞り出していた。「あ、コロナです。コロナで休んでいます」

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