ポケットのジャガイモ(中)
ティトンの極度なまでのジャガイモ愛は、クランメンバーや関係者には周知の事実だ。だが、それが彼の幼少期の壮絶な経験に起因していることを知っている者は少ない。
旅の学者の一家に生まれ、幼い頃から平気で遺跡に潜っていたティトンは、ある日、落盤により入り口が塞がれてしまったことで、地下遺跡の中に一人で取り残されてしまった。
落盤による負傷が無かったこと、遺跡の換気機能は生きていたこと、危険な魔獣がいなかったこと等の幸運が重なり、すぐにでもティトンに命の危機が迫ることは無かったものの、落盤の規模が大きく、地盤が弱かったために救助作業は難航した。
ようやくティトンが助け出されたのは、落盤発生から実に六日後のこと。
その間、彼は遺跡内で出現する「踊りジャガイモ」という植物系魔獣をひらすら狩って食料とし、命からがら食いつないだのである。
この魔獣は、惚けた顔と棒状の小さな手足がついており、常に小気味よく踊っている点を除けば、味や中身はありふれたジャガイモと全く同じだ。またティトンのハロは、飲料水の確保や食品の加熱加工という点でも大いに力を発揮するため、生のジャガイモを囓っていたわけではない。
とは言え、当時僅か十歳の少年にとって、いつ来るとも知れない助けを待ちながらジャガイモを喰らい続ける六日間は、途方もなく長く感じられたに違いなかった。
反動でジャガイモが一切食べられなくなってもおかしくないトラウマ級の経験だが、辛くも生き延びた幼いティトンが抱いた感想は、若干ズレていた。
「ジャガイモがあれば大丈夫」。
以来ティトンは、ジャガイモに絶対的信頼を捧げ、常日頃から肌身離さずジャガイモを携帯するようになったのだった。
本人はこの過去を「トラウマ」などとは微塵も思っておらず、故に、あえて誰かに語ることもない。盟主と献立の話をする中で、ぽろりと漏らしたことがある程度だ。
だが、ティトン自身も無自覚なまま、ポケットにジャガイモを忍ばせる習慣は未だ消えない。
そんな彼がジャガイモを忘れるということは、故に、ちょっとした異常事態なのである。
荷物を全て詰め終え、ティトンはその場に立ち上がった。だが、バックパックを背負おうとしたタイミングで、数歩離れた場所に置いてあるカンテラの灯が急に明るさを減じたかと思うと、見る見るうちに光を失ってしまう。
視界を闇に塗り潰され、ティトンは無意味に目を瞬かせたものの、理由はすぐに思い当たった。
「あー、もうそんなに経ったかぁ」
このカンテラは、底に炎の刻印を押して発火させることで明かりに代える、ティトン専用の品だ。攻撃魔法として使う場合の印の保持時間はせいぜい一分かそこらだが、威力を最小限に留めた「弱」設定であれば、最長で小一時間ほど保たせることもできる。ティトンは第四層に降りた直後に刻印を施し直していたのだが、考え事をしている間にハロが尽きてしまったのだろう。
今日はどうも抜けが多い、と、自分自身に苦笑しながら、ティトンは床に膝をつき、手探りで引き寄せたカンテラの側面の蓋を開いて底を拳で軽く叩いた。ポン、と赤い印が灯ったのを確認し、蓋を閉じる。
トリガー、と唱えると同時、カンテラの内側で小さな炎が噴き上がった。周囲が赤く照らし出され、視界が回復する。よし、と頷き、カンテラを持って立ち上がったところで。
背後にぞわりと感じた巨大な気配に、ティトンは本能的に身を強張らせた。
「っ!」
振り返ろうとした瞬間、ティトンの両肩に激痛が走る。思わず漏れる苦痛の声。取り落としたカンテラが石の床で割れて、辺りは再び闇に包まれる。
だがその直前、ティトンは見た。己の肩に鋭い爪を食い込ませる、彼より二回りも大きな魔獣が、牙の並ぶ口の隙間から涎を滴らせるおぞましい姿を。
ティトンの首筋に吐き出される獣臭い息の匂い。淀んだ空気をかき混ぜる大きな羽音が響いたかと思うと、ティトンの足が宙を掻き、小柄な体が上空へと浮かび上がった。
――ハンニャコウモリ?
暗闇の中で両手足を振り回して藻掻きながら、ティトンは己を拘束する魔獣の名称を頭に思い浮かべる。
主に暗いダンジョンに生息する巨大なコウモリで、名前は厳めしい鬼のような顔立ちに由来している。獰猛で、人の血肉を好んで喰らうが、ドーリッシュ遺跡に棲みついている個体は危険度としてはさほど高くない。だが、それはこのダンジョンでのコウモリの出現場所が、この魔獣の特性とミスマッチを起こしているためだ。
ハンニャコウモリは、主にこの一つ上、第三層で出現が認められている。天井が低く窮屈な第三層ではコウモリの飛翔能力が活かしきれない上、大きな体躯が邪魔になって動きが制限される。膂力は強いものの地上移動の素早さに欠け、魔法攻撃能力も持たないために、ある程度腕が立つ者であれば容易に討伐できる魔獣なのである。
ただしそれは、第三層でエンカウントした場合の話。
コウモリはぐんぐん上昇を続ける。ティトンの目には見えないが、すでに天井付近まで舞い上がったことは空気の流れで分かった。
「このっ、放せっ!」
己の鎖骨付近に食い込む爪の痛みに耐えつつ、ティトンは暴れ、怒声を浴びせて抵抗するが、ぎちりと肩を掴む爪がどうしても振りほどけない。戦槌は遙か眼下の床の上。腕を振り回したところで、この体勢ではコウモリに触れることすら難しい。
地上戦においてはマルチな戦闘能力を発揮するティトンが、逆に極端に不得手としているのが、水中戦および空中戦である。彼のスキルの発動には、刻印するための「面」となるものが近くにあることが必須条件だからだ。さらに単純な物理戦闘においても、踏ん張りが効かない場所では、筋力に劣るティトンの攻撃力は激減する。今の状況は、ティトンにとって圧倒的に不利であると認めざるをえなかった。
コウモリの下腹部に肘打ちで刻印することならばできるかもしれないが、彼のスキルは外への一方向出力であり、発動させればティトン自身がまともに魔法攻撃を喰らう羽目になってしまう。その上、下手に攻撃してティトンを取り落とされてしまうと、これだけの高度から硬い石の床に真っ逆さまだ。
ティトンは青ざめたが、一方で、頭は冷静に回り続けている。
自由に飛び回れる広い空間を味方につけたハンニャコウモリは、一気に危険度を増す。地べたを這うときと、宙を舞うときの速度は比べものにならない。もしも、この魔獣が天井の高い第四層に出没するのであれば、この階層自体の危険度レベルが跳ね上がることは間違いないだろう。
では、本来第三層でしかエンカウントしないはずのコウモリが、なぜ第四層にいるのか?
十中八九、三日前にティトンが破壊した天井の穴から降りてきてしまったからである。
ティトンは「やらかしたぁ」と胸中で嘆いたが、そうと気付いたところで、今更どうしようもない。
このまま巣穴へ連れ去られるものと思ったが、天井はすでにPIYOが修復しており、コウモリが第三層へ戻る手段は無い。となれば、飢えた魔獣が次に取る行動はひとつである。
暴れる獲物の息の根を止め、その場で喰らうこと。
ティトンのうなじに悪臭を発する生暖かい液体がボトボトとまき散らされた。ギャシャア、と一鳴きしたコウモリが、ティトンを掴んだまま軽く身を仰け反らせる。ティトンの頭上で、牙だらけの口が大きく開かれるのが、気配と音と匂いで分かった。
――やられる!
反射的に身を固くし、ティトンが目を閉じた、その刹那。
「ティトン、動くな!」
鋭い命令が木霊した。同時に闇を切り裂く風切り音。ティトンの頬の横を何かが掠め、続けてドスッという重い音が背後で生じる。
驚いたティトンが目を開くと同時、コウモリが耳をつんざくような声で絶叫した。肩に食い込んでいた爪がぽろりと外れ、ティトンの体が宙へと投げ出される。
「う、うわわわわ!」
為す術もなく落下したティトンが、石の床に叩きつけられる寸前、真下に滑り込む人の気配。
……と、どこかのんびりした明るい声。
「チェチェチェチェンージ」
ぼふん、という衝撃とともに、ティトンの体を柔らかく受け止めたのは、床ではなく、微細な砂が堪った砂溜まりである。
舞い込む砂塵にむせ込み、目を白黒させながらティトンが身を起こすと、いつの間にか少しだけ明るくなった視界の中、彼へと差し出される誰かの手。
「だいじょうぶー?」
暗がりの中でそう言って首を傾げるアロの顔を、ティトンは瞬きも忘れてぽかんと眺めた。
その周りに、次々と集まってきたのは慌ただしい足音。
「無事か、ティトン?」
「け、怪我は、無いでしょう、ね?」
「なんであのデカブツコウモリが四層にいるんだ?」
駆けつけたのは弓を手にしたイロハと、大きなカンテラを提げたコトワリ、そしてクエルクスである。
弓弦をぎりりと引き絞ったイロハと二刀を抜き放ったクエルクスが、砂に埋もれるティトンの前に立ちはだかって、天井にぶら下がるコウモリを睨み上げる。コトワリは乱れた息を整えながら、床にカンテラを置いてその場に膝をつき、アロと位置を入れ替わってティトンを助け起こした。
ティトンの服の肩口に空いた穴と、滲み出す赤いものを見たコトワリは、「うわ」と露骨に顔をしかめると、腰の鞄から小さなガラス瓶を取り出して手早く治療に取りかかる。
「みんな、どうしてここに」
両肩に回復薬をぶっかけられながら、ティトンは呆然と呟いた。
コウモリの大きな耳に刺さったままの矢と、砂場に換わった床を見れば、暗闇の中で何が起きたのかは明白だ。イロハのスキルを持ってすれば、ダンジョンに潜ったティトンの居場所を突き止めることも容易である。
よってティトンの疑問は、「どうやって助けられた」ではなく、仲間たちが「どうしてここに来たのか」なのだった。
しかし、その問いに対する答えは返されない。
「話はあとだ。まずはアレをどうにかするぞ」
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