第2話

 源頼光の屋敷は左京一条に存在していた。元は父である満仲が所有していた屋敷であり、寝殿造しんでんづくりのかなり立派な屋敷だった。

 腰に髭切の太刀をいた綱は、頼光の屋敷を出て羅城門を目指した。羅城門まで朱雀大路に出てしまえば、あとは真っ直ぐに進むだけだ。

 今宵は満月であった。青く輝く月は妙に明るく感じられ、綱の行く先を照らしてくれた。

「もし――――」

 声が聞こえたのは、綱が戻橋もどりばしと呼ばれる一条通りに架かる石橋に差し掛かったところだった。

 女の声である。月明かりがあるとはいえ、このような時刻に女がひとりでいるというのは考え難い。綱は不審に思いながらも、手綱を引いて馬の脚を止めると、ゆっくりと振り返った。

 すると少し先の柳の木の下に、小柄な女が立っていた。被衣かずきを頭から被っているため、顔ははっきりとは見ることができなかったが、なぜか顔立ちの整った若く美しい女であるということはわかった。

「どうかされましたかな」

「少々道に迷ってしまいました」

 女は困った声を出して、綱にいう。

 馬から降りた綱は、被衣の下の女の顔を見ようとしたが、不思議なことに、どうしても女の顔は見ることができなかった。

「どちらまで行かれるのでしょうか」

「五条にございます」

「であれば、ちょうど私も五条を通る。送って差し上げましょう」

「よろしいのですか」

「なに、構いませぬ」

 時間は十分にあった。それに急いで羅城門へと向かう必要は無いのだ。

 綱は女を馬に乗せると、自分は手綱を取って歩いた。

「お武家さま、お名前は何と申されるのでしょうか」

「渡辺綱と申します」

「ワ……渡辺……ノ……ツナ」

 急に女が震えたような声を出す。

 何事かと思い、綱が馬上の女の顔を見上げると、女の顔は真っ青になっていた。

「どうかなされたか」

「ツ、綱サマ……ハ……オオエヤマ……ヘ……イッタこと……あるカ」

「ん? それは、丹波と丹後にかかる大江山のことですかな」

 この女はどうして大江山のことなどを聞いてくるのだろうか。そんなことを思いながら、綱は馬の手綱を引きながら答えた。

「ツナ……サマ……ハ……シュテンドウジ……サマ……ヲ……」

 女はその後も言葉を続けたが、少し先に何か青白い光のようなものが見えたため綱はそちらに気を取られていた。

 その青白い光はゆらゆらと揺れていて、炎のようにも見える。

 あれは何なのだろうか。そう思いながら、綱たちが近づいていくと、その明かりの姿は見えなくなっていた。

 不思議なことがあるものだ。綱はそう思いながら、手綱を引いて歩いた。

 しばらく歩き、五条近くまで来たため、綱は馬上の女の声をかけた。

「そろそろ、五条に着きますが、お屋敷はどの辺りでしょうか」

「ラ、ラク……ガイ」

「ああ、五条ではなく、洛外でしたか。それは失礼いたしました。ちょうど私も羅城門まで用があるので洛外へお送りしましょう」

 綱はそう言って、馬上の女に話しかける。多少の違和感があったものの、女は黙って綱の言葉に頷いてみせた。それにしても、女の顔色はよくない。馬に酔ったのだろうか。そう思えるくらいに青くなっていた。

 洛外というのは、平安京の外を指す言葉だった。当時は、唐の都にならい平安京内を洛中と呼び、平安京の外を洛外や外界と呼んだりしていた。

「洛外と申されましたが、どの辺りでしょうか。まさか、化野あだしのではないでしょうな」

 冗談を言ったつもりだった。しかし、女は笑うどころか泣いているかのように肩を震わせている。

 化野とは洛外にある風葬地帯であった。この時代、庶民は風葬されるのが一般的であり、風葬というのは特定の場所に死体を放置して風化させて葬るというもので、平安時代の疫病の原因のひとつであったとされている。

「どうかされたか」

 あまりに反応が無いため、不安になった綱は馬上の女を見上げるようにして声をかけた。

 すると辺りが少し明るくなった。

 何事かと思い、綱は周りを見回す。

 闇の中に青い光が浮かんでいた。その光の正体、それは青い炎だった。燐火りんか、または鬼火おにびと呼ばれる炎である。それがひとつ、ふたつと宙に浮いている。

 燐火や鬼火は、鬼や物怪が出没する際に現れるとされている炎だった。

 鼻腔に妙な臭いが漂ってくる。

『鬼の臭いというのは、狩ってきた獣の臓物を屋外に放置したような臭いらしいぞ』

 綱の脳裏に先ほど季武がいっていた言葉が蘇る。

 まさにいま綱が嗅いでいるのは、その臓物のようなえた臭い臭いであった。

 馬の手綱から手を離した綱の動きは速かった。腰に佩いた太刀へと手を伸ばし、柄を握る。

「ツナ……ワレハ……オマエ……ヲ……ユルサナイ」

 女の言葉に綱は驚いて、女のことを見上げた。

 すると女の口からは青い炎がこぼれ出てきており、美しかった顔は皺だらけの鬼の形相となっていた。

 まさか羅城門に行く前に鬼と遭遇するなど、思いもよらぬことだった。

 綱は咄嗟に馬の尻を平手で叩いた。すると馬が反応して、棹立ちになる。

 馬が立ち上がれば、鬼となった女を地面に振り落とすだろう。そう綱は考えていた。

 しかし、鬼女は綱の思い通りには動かなかった。

 馬は棹立ちになったものの、鬼女はその腕を伸ばして綱の頭へと掴みかかってきたのだ。

 鬼女は綱のもとどりの辺りを掴み、ものすごい力で引っ張る。

 このままでは、首がねじ切られてしまう。綱は慌てて逃げようとしたが、その力は半端なく強く、逃げることはできなかった。

「ツナ……ワレノコトヲ……ワスレタカ」

 鬼などに知り合いはいなかった。綱は地面を蹴りつけるようにして飛び上がると、腰に佩いていた太刀を抜き放った。

「あなやっ!」

 鬼女が叫び声を上げる。

 確かな手応えがあった。綱の握った太刀は月明かりに反射して、青く輝いていた。

 地響きに似た音がし、鬼女が地面の上を転がりまわった。その鬼女の右手は消失している。

 綱の握った太刀は、女の右腕を骨ごときれいに斬り落としたのだ。

 とどめを刺すべく、綱は太刀を上段に構えた。

「覚悟いたせ」

 のたうち回っている鬼女に声をかけた綱は、鬼女の首めがけて太刀を振り下ろした。

 しかし、すんでのところで鬼女は後方に転がるようにして太刀を避けた。

 そして、そのまま闇の中に飛び込むようにして姿を消してしまった。

 綱は完全にその気配が消えるまで闇の中を睨みつけていたが、その気配が無くなったことでため息をついて太刀を収めた。

 全身からは汗が吹き出していた。鬼など信じていなかった。季武の戯言だと思っていた。しかし、いま目の前で、現実に鬼と遭遇したのだ。

 辺りを見回すと、地面に何かが落ちていることに気づいた。その物体は、近づいていくと腕だということがわかった。松の枝のような腕は青黒く、手は節が大きく、爪が長く鋭い。そして、切り口から流れ出ている血は青かった。明らかに人間のものとは違った。鬼の腕。それがいま目の前に転がっている。

 綱はそれを拾い上げると、馬に乗り、頼光の屋敷へと引き返した。

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