鬼の腕 -異聞、鬼切安綱伝-

大隅 スミヲ

第1話

 その噂は以前より耳にしていた。

 だが、所詮は噂話と思い、渡辺わたなべのつなは真剣に取り合おうとはしていなかった。

 宴が開かれたのは、主人であるみなもとの頼光よりみつの屋敷であった。

 左京一条にある寝殿造しんでんづくりの大邸宅。それが頼光の屋敷である。元々は頼光の父である満仲みつなかが所有していた屋敷だったが、いまは頼光のものとなっている。頼光は摂政である藤原道長みちながに仕える武家ぶけであり、渡辺綱を筆頭に多くの武士もののふたちを召し抱えていた。

 噂というのは、朱雀大路を進んだところにある羅城門らじょうもんに関するものだった。

 羅城門は巨大な門扉を構えた平安京みやこ外界がいかいの境目とされている入母屋造の建物であるが、近年では朝廷の管理が行き届いていないため、屋根瓦は落ち、壁はところどころ剥がれ、建物の周りには竹藪が生い茂っている状態となっていた。

 そんな羅城門に、鬼が出るというのだ。その鬼は青い身体をしており、夜中に羅城門を通ろうとする人間を捕って喰らうそうだ。その話には、どこぞの行商人が襲われたとか、どこぞの貴族の娘が鬼に連れ去られたとか、どこぞの誰かが鬼の姿を見たといった尾ひれがついていた。

 ただ、あの羅城門であれば、鬼が出てもおかしくはない。そう思わせるような不気味な雰囲気が羅城門にはあるのだ。

 そんな羅城門に鬼が出る。そう話し始めたのは、綱と同じ頼光の家臣である卜部うらべの季武すえたけであった。この男は噂話好きであり、酒を飲むと必ずといっていいほど、どこで聞きつけてきたのかわからないような怪しい話を普段から吹聴している。

「これはな、東市ひがしのいちで川魚を売っている女に聞いた話なんだが、鬼というやつは、ものすごくくさいらしいぞ」

「どのようなにおいなのだ、季武」

 周りにいる者たちに季武が真剣な顔をして語っていると、頼光が盃を傾けながら口を挟むように問いかけた。

「狩ってきた獣の臓物を数日、屋外に放置したようなにおいだと言うておりました」

「そんなにくさいのか。それはたまらんな」

 頼光が眉間に皺を寄せて鼻をつまんでみせると、その様子を見た季武はゲラゲラと笑ってみせた。

 主人である頼光は、家臣たちの話す様々な話を酒の肴としている節があった。季武のように噂話をする者もいれば、どこの誰が強いなどといった男臭い話、どこぞの貴族が女房に手を出したといった下世話な話などをする者もおり、頼光の屋敷で開かれる宴は非常に騒がしかった。

 そんな中、ひとり静かに盃を傾ける男がいた。綱や季武と同様に頼光の家臣の坂田さかたの公時きんときである。公時は巨大な岩を思わせるような大きな身体をしており、相撲などでは誰にも負けることのない力持ちであったが、鬼や物怪もののけ、あやかしといった類の話にはどうにも弱く、その話が聞こえてきただけでも肝を小さくしているのであった。

「なあ、綱。鬼なんてのは、本当にいないよな。あれは御伽噺だよな」

 大きな身体を小さくして、公時は綱の耳元で囁くように聞いてきた。

「どうだろうな。ただ、私に言えることがひとつだけある」

「なんだ?」

「私は見たことがない。お前はどうなんだ、公時」

「み、見たことはない」

「そうであろう。だったら、いないも同然ではないか」

「そ、そうだよな。そうだよ。見たこと無いもんな」

 綱の言葉に公時は安心したらしく、大皿に置かれていた雉の焼いた肉へと箸をのばした。

 鬼というものの存在については、本当にいるのかどうか綱もよくわかってはいなかった。ただ、時おり、言葉では説明できないような現象や出来事が起こることもあるというのは、わかっている。その何かわからない、得体のしれないものを現すために、鬼や物怪、あやかしといった言葉が存在しているのではないかと、綱は思っていた。

「おい、季武。鬼などはおらんぞ。嘘ばかりつくのはやめろ」

「なにを言うか、公時」

「おらんものは、おらんのだ」

「誰がそのようなことを言っておるのだ」

 なにやら公時と季武が言い争いをはじめている。

 周りにいる者たちは、もっとやれとふたりをけしかけ、それを肴に酒を飲んでいた。

 頼光も、よほどのことが無い限りは止めに入ったりはしない。それを証拠に、頼光はふたりの言い争いなどは聞いておらず、隣に座る碓井うすいの貞光さだみつと談笑している。

「綱が言うておったぞ。鬼などはこの世には存在しないのだ。この嘘つきめ」

「誰が嘘つきじゃ」

 ふたりの罵り合う声の中に、自分の名前が出てきたことで、いつこちらへ飛び火してくるかと、綱は気が気でなかった。

「黙れ、季武」

「黙らぬぞ、公時。お前がその噂話を知らないだけで、羅城門に青き姿をした鬼が出るという噂は本当にあるのじゃ」

「だったら、その鬼とやらを俺の前に連れてきてみせろ」

「なんだと!」

 ふたりはお互いに歩み寄り、掴み合いの喧嘩をはじめようとする。

 しかし、それと同時に頼光も立ち上がり、ふたりの間に割って入った。

「待たれよ、ふたりとも。お主たちの主張はよくわかった。その鬼とやらをここに連れてくればよいのだな」

「え……」

 頼光の発言に、ふたりともぽかんとした顔となる。まさか、頼光自身が鬼を連れてくるとでも言い出すのではないだろうかと、不安に駆られる。

「連れてくれば良いのであろう、公時」

「え……ああ……はい」

「噂話に嘘偽りは無いのであろう、季武」

「も、もちろんですとも」

「よし、わかった」

 頼光はそう言うと、ふたりの肩をぽんと平手で叩いた。

「では、綱に羅城門へ行って、その鬼とやらを連れて来てもらおう」

「わ、私がですか」

 あまりにも予想外な言葉に、綱は驚きを隠せなかった。

 どうして私が行くのだ。私は関係ないだろう。綱は心の中で叫んでいた。

「そうだな、私の刀を一本貸そう。行ってくれるな、綱」

 頼光はじっと綱の目の中を覗き込むようにして、言った。

 主人である頼光の言葉は絶対であった。しかし、それ以上に、頼光に目を覗き込まれたら、何事も断ることはできなくなってしまう。頼光もそれをわかっていて、やっているのだ。罪深い御方だ。綱はそう思いながらも、首を縦に振って頷いた。

「わかりました……」

 綱がそう言うと、頼光はにっこりと微笑んで両手をしっかりと握った。

「お前ならやってくれると思っている。そうだ、髭切を貸そう。あれならば、鬼も簡単に退治できるであろう」

 頼光は一本の刀を従者に持って越させると、それを綱に手渡した。

 その刀は、頼光の父である源満仲みつなかが天下守護のために作らせたものであり、髭切ひげきりと呼ばれる名刀だった。

 髭切に関しては、出来上がった刀の試し切りをする際に、満仲が刀を振ったところ罪人の髭と共に首がポトリと落ちたことから、髭切という名が付けられたそうだ。

「このような名刀をよろしいのですか」

「うむ。その代わり、それで鬼を斬ってまいれ。人を喰らうそうだから、気をつけよ、綱」

「承知いたしました」

 酒の席の戯言だったはずが、なぜか綱は主人の名刀を預かり、鬼を斬りに行くことになってしまったのだった。

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