第5話 陽太の言葉

次の日の朝、颯はいつものように少し早めに教室に着いた。窓から差し込む朝の光が教室を優しく照らしている。彼は自分の席に着き、これから始まる一日を考えていたが、心の中には昨日の真奈美との会話がまだ残っていた。


しかし、その静かな時間は長く続かなかった。教室の扉が開き、ひとりの男子生徒が颯の方へ向かって歩いてきた。中谷陽太だ。


陽太は颯の前に立ち、彼を見下ろすようにして冷静な声で話しかけた。「一ノ瀬颯、久しぶりだな。」


颯は顔を上げ、陽太の表情を見た。陽太の顔には無感情とも取れる冷たい眼差しが浮かんでいた。彼は淡々とした声で続けた。


「お前、俺のこと覚えてないかもしれないけど、俺はお前のことよく覚えてるよ。中学の時、お前が全国大会で大挫折したあの試合を、俺は会場で見てたんだ。」


その言葉に、颯の心は一瞬凍りついた。過去のトラウマが鮮明に蘇り、あの苦い思い出が胸を締め付ける。試合の途中で何もかもが崩れ去り、全てを失ったかのような絶望感。颯はその時の自分を思い出し、言葉が出なかった。


陽太はその反応を見逃さず、さらに追い打ちをかけるように続けた。「みんな、そういうことはあるんだ。挫折を味わうことも、失敗することも。でも、お前はそこから逃げた。それが問題だ。」


その言葉はまるで鋭い刃のように颯の胸に突き刺さった。彼の中で抑えていた感情が揺れ動く。


「お前、そんな言い方ないだろ!」突然、教室の後ろから翔が声を上げた。彼は颯を庇うように陽太の前に立ちふさがった。


「そうだ、陽太」と拓海も加わり、「誰にだって苦しい時期はあるし、立ち直るのには時間がかかることもあるだろ。そんな風に責めるのはフェアじゃない。」


だが、陽太はその言葉に動じることなく、颯をじっと見つめたまま言い放った。「逃げ続けるだけじゃ、何も変わらない。お前がここで何をしているのか知らないけど、俺にはただ現実から逃げているようにしか見えない。」


颯は拳を握りしめ、必死に自分を保とうとした。陽太の言葉は厳しかったが、それ以上に自分の中にある恐れや逃げたい気持ちを突きつけられているようだった。


「じゃあ、どうしろって言うんだ?」颯は低い声で言った。


陽太は一瞬、言葉を選ぶようにしてから冷静に答えた。「簡単なことだ。俺と試合しろ。お前が本当にテニスをやめたいなら、それで終わりにすればいい。でも、まだ何か心に引っかかっているなら、俺とコートで勝負しろ。」


その挑戦的な言葉に、教室内の空気が一気に緊張した。颯はその提案に驚きと困惑を隠せなかった。テニスをやめたはずの自分が、再びコートに立つなんて考えてもみなかった。


「俺はもうテニスをやめたって言っただろ」と颯は絞り出すように言った。


「それでも逃げ続けるのか?」陽太は厳しい表情で睨みつけた。「お前の心がそれで納得するなら、俺はそれでいい。でも、本当にそれでいいのか?」


その問いに、颯は答えることができなかった。心の中で渦巻く葛藤と、再びテニスに向き合う恐怖が交錯していた。しかし、その一方で、陽太の言葉に何かが揺さぶられているのを感じていた。


翔が再び口を開き、少し怒りを含んだ声で言った。「陽太、お前も少しは考えろよ。颯には彼なりの理由があるんだ。無理に試合させるなんて…」


拓海も同調して、「そうだよ。颯が納得していないなら、無理強いはやめるべきだ。」


だが、陽太は首を横に振り、冷静な口調で言い放った。「無理強いなんてしてない。俺はただ、お前にもう一度自分の気持ちを確かめさせたいだけだ。試合を通して、テニスに対する自分の本当の気持ちを知るために。」


颯はその言葉に一瞬考え込んだ。逃げ続けることが本当に自分の選ぶべき道なのか?再びコートに立つことで、何かを取り戻せるのだろうか?


「分かった…」颯はついに口を開いた。「俺とお前で試合をしよう。でも、これで最後だ。これで俺が納得できなければ、もうテニスはしない。」


陽太はその答えに満足そうに頷いた。「いいだろう。それでお前が本当に何を望んでいるのかがわかるはずだ。」


翔と拓海は困惑した表情を浮かべたが、颯の決意を感じ取り、それ以上は口を出さなかった。


「じゃあ、放課後にコートで待ってる」と陽太は言い残し、教室を出て行った。


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