第4話正直な気持ち

新学期が始まり、一か月が過ぎようとしていた。春から初夏に移り変わるこの季節、聖月学園は活気に満ちていた。特に男子テニス部は、新設されたばかりということもあり、その活動が注目を集めていた。颯はこれまで避けていたテニスのことを考えないようにしてきたが、それでも心の奥底ではその世界から完全に逃れることができないことを自覚していた。


ある日、颯は放課後の時間を使って、ふと男子テニス部の練習を遠くから眺めていた。フェンス越しに見えるのは、汗を流しながらラケットを振る仲間たちの姿。藤堂拓海や城山翔がペアを組んでダブルスの練習をしているのが見えた。颯は少し目を細めながら、その光景を見つめていた。


「俺も、あそこに立っていたはずなんだよな…」


彼の心には、過去の自分が呼び起こされていた。コートの中で輝いていた自分と、今の自分の間には埋められない距離があるように感じた。だが、それでも彼は完全にテニスを捨てきることができず、ここでこうして眺めることしかできなかった。


その時、ふと背後からの気配に気づき、颯は振り返った。そこに立っていたのは、女子テニス部のキャプテン、桐生真奈美だった。真奈美は少し驚いた表情で颯を見ていた。


「君、こんなところで何をしてるの?」と真奈美は優しく声をかけた。


颯は少し戸惑いながらも、「あ…、ただちょっと見ていただけです」と答えた。


真奈美は彼の答えに少し考え込むように眉をひそめた。「あの、君は新入生だよね?名前は…」


「一ノ瀬颯です」と颯は自己紹介をした。


「一ノ瀬くんか。じゃあ、もしかして…君もテニスが好きなの?」


その問いに、颯は一瞬答えを詰まらせた。どう答えるべきか迷ったが、真奈美の真っ直ぐな視線に押され、素直に答えた。


「…いや、もうやめたんです。でも、どうしても気になって、こうして見てしまって…」


真奈美は少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。「そうだったんだ。でも、君がこうしてここにいるってことは、まだテニスに未練があるんじゃない?」


その言葉に、颯ははっとした。真奈美の言葉は鋭く、まるで彼の心の中を見透かしているかのようだった。


「…そうかもしれません」と颯は認めた。「でも、もう戻れないんです。自分でもどうしていいかわからなくて…」


真奈美はその言葉を聞いて少し考え込んだ後、優しく彼に問いかけた。「テニスに戻ることが、君にとって難しいことなの?」


颯は頷いた。「そうです。昔、いろいろあって…今はただ、テニスを見ているだけでいいんです。」


真奈美はその答えに少し困ったような表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑んだ。「でも、君がここにいること自体、もう何かが動き始めている証拠かもしれないね。無理に決める必要はないけど、自分の気持ちに正直に向き合ってみるのも大切だと思う。」


颯は真奈美の言葉に少し驚きつつも、その優しいアドバイスに感謝の気持ちを抱いた。彼女の言葉は、どこか心に染み入るような温かさがあった。


「ありがとうございます。少し考えてみます」と颯は感謝の意を込めて答えた。


真奈美は微笑みながら、「何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」と言ってその場を去った。彼女の後ろ姿を見送りながら、颯は再びフェンス越しのテニスコートに目を向けた。彼の心には、真奈美の言葉が深く刻まれ、何かが少しずつ変わり始めているのを感じた。


「自分の気持ちに正直に向き合う…か。」


颯は心の中でその言葉を繰り返しながら、今後の自分に対してどのように向き合うべきかを考え始めた。彼の中で、再びテニスに向き合う勇気が少しずつ芽生えているのかもしれないと、自分でも気づき始めていた。

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