① イオ

 イオは、今日も市場の片隅で果物の箱を運んでいた。

 神話都市「アストリア」に華やかな夢を抱いてやってきたのは、たった一年前。

 力とお金、そして名声を手に入れるために、神話に名を刻む英雄になることを夢見ていた。しかし、現実は甘くなかった。


「イオ! またサボってんのか? さっさと手を動かせ!」


 市場の雇い主、クロノスの怒声が響いた。クロノスは短気で気難しいが、神話都市の裏事情に精通していることもあり、情報屋としても知られている。

 イオは小さく謝罪しながら、果物の箱を再び担ぎ上げた。


「すみません……」


 イオの腕は痛みで震え、足元もおぼつかない。毎日のように日雇いで働き、怒鳴られながらの生活。これが、自分が夢見ていた生活とは程遠いことをイオは痛感していた。


「今度の神話、でけえのがくるぞ! 大神話、数年に一度の大捕物だ!」

 クロノスが隣の市場仲間に声をかけた。イオは耳を傾けながら、手を止めずに仕事を続ける。


「おう、あの陸獣の神話か? あれは一大事だって話だぜ。大金が動くんだろうよ」

「そうそう、今回ばかりは俺も一枚噛みたいもんだ」


 イオはその会話を聞きながら、心の中でため息をついた。神話の解決に貢献することで力を得られるのは、ほんの一握りの人間だけ。一般人が神話に関わることは、奇跡に等しい。夢見ていた栄光は、もはや手の届かない遠いものになっていた。


(1年も神話都市にいれば、誰だってわかること……)


 イオは無意識に空を見上げた。茜色に染まった夕焼けが広がり、高い建物の影が長く伸びている。その美しさに一瞬心を奪われ、また自分の置かれた現実の厳しさを再確認する。


「おい、イオ! お前も神話に挑戦してみりゃいいじゃねぇか。いつまでもこんな日雇いしてるよりは、少しは夢があるだろう?」


 クロノスは半ばからかい気味に言った。イオは苦笑いを浮かべながら首を振る。


「もう、そんな夢は見てないよ。一般人が神話に関わるなんて、ただの偶然でしかないって、わかってるから」


 クロノスは肩をすくめて笑った。


「まあ、そりゃそうだ。だがな、たまには奇跡ってやつもあるんじゃねぇか? お前も、しぶとく生きてりゃ何か変わるかもな」


 イオは何も言わずに果物の箱を運び続けた。

 クロノスの言うことはわかるが、イオの心の中には、すでに神話への憧れは消えかけていた。現実はあまりにも厳しく、夢を追うことすら疲れる毎日だった。


「イオ! お前、これ持っていつもの丘の一軒家まで届けてこい!」


 イオはため息をつき、重たい箱を受け取った。その箱は不恰好で運びづらく、これを持って丘まで行くのは骨が折れそうだった。


「わかった、行ってくるよ」


 重い荷物を抱え、イオは市場を後にする。道中、クロノスの話していた神話の噂が頭をよぎる。彼や市場の人々が、次に訪れる神話に期待を寄せているのを見て、イオは胸が痛んだ。自分もかつては同じように夢を抱いていたが、それはすでに遠い過去の話だった。


「神話なんて、結局は選ばれた者だけのもの……」


 イオは歯を食いしばりながら歩き続けた。

 華やかな夢を追い求めてこの都市に来たが、現実はその夢を粉々に砕いた。一般人が神話に関わり、力を得られることはほとんどなく、貧しい生活を強いられるばかりだった。


 イオは、神話都市に来てすぐに現実を突きつけられた。夢破れても、日々の生活を支えるために働き続けるしかないのだ。


 丘へと続く道は石畳が不揃いで、荷物の重みが肩に食い込む。

 少し疲れて足を止めたイオは、荷物を地面に置いて、ふと空を見上げた。


 茜色に染まった夕焼けが広がり、空を舞う鳥たちが影絵のように飛んでいる。

 その美しさに一瞬心が奪われる。だが、その時、イオの目に奇妙なものが映り込んだ。空の高いところに、小さな黒い点が見えたのだ。


「……あれ、何?」


 イオは目を見張り、見慣れない光景に釘付けになった。

 空から人の形をした影が落ちてくる。その姿は、まるで夢から覚める瞬間のように、突如として現実に迫ってきた。

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