2 異世界へ
「神話の本を枕にして眠る不届きもの、捨て置けないわ」
理由は、枕替わりにしていた本にあるらしい。
「あーこれは……」
高校生になって、休み時間の図書館が唯一の憩いの場になった。昔の俺を知る奴らだったら、俺が図書館に逃げ込んでいるなんて知れば笑いをこらえ切れないだろう。
2か月もの間、図書館に籠るようになって最初は今時の小説を読んでいたけれど、あんなものは本屋に行けばどこでも買える。
どうせなら、学校の図書館にしかないような本を読んでみようと思って――俺が選んだ本が古の神々に纏わるものだった。気の小さそうな図書委員は、俺と、俺が借りる本のイメージが合わなくて目をパチクリしていたっけ。
「ヘルメス――翼の生えたサンダルが有名な自由の象徴。異なる異界の橋渡しとしても知られて、自己表現が大苦手な神様。とっても陰鬱な神様ね」
だけど俺だって、この本を借りた深い意味はない。
何となく気になったから借りただけだ。それをあえて口にされると、恥ずかしい。
「うふふ、似た者同士ってこと? ヘルメスって、孤独な神様じゃない」
「知るかよ……」
何だ、こいつ。神話オタクか?
やっぱりエリートが集まる高校。高偏差値の考えることはよくわからない。
「本当はもっと野心に溢れた人を求めていたけど、結局誰もピンとこなかった……これはこれで正解かもしれないし」
彼女の声には、まるで教室にいるというよりは、どこか別の場所からやってきたかのような不思議な感覚を覚えた。
あれだ、あれ。俗にいえば、浮世離れしているというか。
「独り言ならよそでやってくれ。俺は帰る」
戸惑いながらも、立ち上がる。机に下げたカバンを取って、肩にかける。
「……」
立ち上がると、意外とこの女生徒が小柄なことに気付く。
少し勿体ないような気もした。
学年でも三本の指に入る人気の女生徒だと。
だけど、学年の人気者様は成績も優秀と聞いている。そんな才女と俺の毎日が交わることはないだろう。
「愛想が悪くて、怖い目つき。だから君、友達できないんだよ? 学年で喋る相手が一人もいない変人って君ぐらいのものだし、見てて思うのよね。血統書付きのブリーダー犬の中に一匹だけ野良犬が紛れ込んだら、こんな感じ」
里佳子は微笑を浮かべたまま、俺に鋭い言葉を投げかけた。
「は?」
心臓に火が灯ったように熱が走る。思わず、昔のように手が出そうになる。けれど、寸での所で自分の気持ちを押し殺した。
女生徒に手を出すなんて、あり得ない。けど、喧嘩売ってんのかこいつ。
――もういい。
俺だって逃げられるなら、どこへだって行きたいさ。
特にこんな狭い教室から、今すぐにでも。それにもうアルバイトの時間だ。学校を抜けて、急がなければ。
「この世界は君の思う通りに動かないけど、君が動けば世界は変わる。まずは、私の役に立ってもらう」
「おい……」
まるで血が通っていないかのような冷たい両手。
「うふふふふふ」
彼女の表情には、変な威厳と……不思議な期待感が漂っている。
ああ、こいつは予想以上の変人だ。
神話オタクのエリート女子、関わっちゃいけない。
「今日が期限だったの。とりあえず、最初の力を取りに行きましょう」
今度は別の意味で戸惑った。
手の先に当たる冷たくて柔らかい感触が、一瞬で俺の心を掴んだ。
「報酬の前払い。あとは君の学園生活の改善でも何でも協力する。だから、最初は私に協力して」
その瞬間、教室の景色がまるで水面に映る風景が揺らぐようにぼやけていく。
平行感覚を失って、倒れそうな俺の身体。
「おい、これは何だ」
だけど、俺の体を強く引っ張り上げるような
「短い時間だったけど、全校生徒の観察は終了してるの。一匹オオカミの神崎悠人君、カバンにつけている銀翼のキーホルダーは
教室の景色が再び歪み、まるで夢の中のようにぼやけていく。
「最初の力だけは特別なの。相性の良い力が自動的に付与される、だけど、ただ相性が良いだけなら役に立たない下等の力。私はそんな低級の力なんて望まない――最初から、最強の力を取りに行くわよ。神崎君……君って多分、ヘルメスと最高に相性が良いから」
何を言っているのか理解できなかった。
だけど彼女の言葉には確固たる意思が感じられた。
「自由を冠する
教室の景色がぐにゃりと歪んで、足元が急に不安定になる。目の前の
「――
そして次の瞬間、俺は広大な空の中に放り出されていた。
足元に何もない虚空――。
「なんだこれえええええええ」
耳に聞こえる絶叫は、まぎれもなく俺の口から流れていた。
まるで重力が失われたかのように、俺の体はふわりと浮き上がり、次の瞬間には全く別の場所へ投げ出されていた。
「おあああああああ」
教室にいたはずの俺は、いきなり広大な空間の中に放り出されていた。
頭の中が混乱し、視界がぐるぐると回る。足元には何もない。大地どころか、支えも存在しない空間。
見上げれば、茜色に染まった空が広がっている。どこまでも続く無限の空。風が激しく吹き抜け、俺の体は無重力の中で無防備に落下していく。
「なんだよこれえええええええ!」
耳元に響く絶叫は、紛れもなく俺自身のものだった。
冷たい風が容赦なく顔を叩き、目を開けているのも辛い。身体は恐怖で硬直し、手足は宙をかくばかり。
心臓は激しく脈打ち、恐怖が全身を駆け巡る。何が起こっているのか理解できないまま、ただただ落ちていく。
「止まれ! 止まってくれ!」
叫んでも空には何もなく、応える声などどこにもない。
風の音だけが耳を圧倒し、意識が遠のきそうになる。視界の端に、まるで蜃気楼のように揺らめく都市の輪郭が見えるが、遠すぎてとても届きそうにない。
恐怖がどんどん膨れ上がり、頭の中がパニックに陥った。
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