第3話

 研究室に戻ると、自席で会議の準備をする。研究室と言っても、一般企業の事務所と変わらない風景だ。着席して頭が隠れる程度の、机一個分のボックス席が15席配列されている。人によっては、机上に家族や恋人の写真、ぬいぐるみやフィギュアなどを飾っている。黒島は机にはノートPCが置いてあるだけ。


 十分後にMBRCの宇宙物理学研究室との定期交信がある。引き出しからマイク付きヘッドホンを机上に置く。

 交信相手はマーシャ・グリーン博士である。黒島にとっては謎の美人研究員だった。博士は物理学者であるが、研究所の人員リストを調べても詳細はわからない。セキュリティのため、個人情報が閲覧できないようになっていた。わかっていることは、声、顔と頭脳明晰ということだけで、それとなく趣味を聞き出そうとすると、上手くはぐらかされた。プライベートの詮索はタブーだということぐらいわかっているが、一年以上も交信している。少しぐらいはお互いのことを知っても良いのではと思っている。


〝ハロー〟とヘッドホンから女性の声がした。


「ハロー、調子はどうだい?」


「絶好調よ」モニターに映るショートボブの女性は目を細くして親指を立てる。「秀はどう?」


「まあまあってところかな」


「めずらしいわね。いつも、笑顔で絶好調というのに。何かあったの?」クリッとした目が大きくなる。


「実はね、募集のあったMBRC勤務に立候補した。その審査中なんだ。今、面接を受けてきたばかりだよ」


「そうだったの。選ばれると良いわね。いえ、秀だったら必ず選ばれるわ。こっちで会える日を楽しみにしている」


「前途多難のようだけど、ベストを尽くすよ」


「その調子よ」マーシャは白い歯を見せた。「ところで、調べて欲しいことがあるの」


 宇宙科学研究所では自分たちの研究だけでなく、MBRCの依頼事項を受ける。地球から月にデータベースにアクセス制限が掛けられているが、逆も同様だった。過去にハッカーが不正アクセスして大混乱に陥ったことがあった。研究所外は大気のない世界。研究所内で大事故が起これば安全な避難場所はない。一歩誤ると全滅する可能性がある。


「……この案件は、一週間は欲しい」


 黒島は頭をかきながら、ボックスの白い壁に映したリストを目で追う。論文や試験データが数十件と並んでいる。顔に似合わずリクエストが容赦ない。こういうときは、世間話は勿論、冗談も通じない。わかったと受け入れるしかないのだ。


「問題ないわ。よろしくね」


 定期交信を終えると、どっと疲れが襲ってきて、大きな溜め息をついた。今回は一方的に押し込まれてしまった。マーシャは〝ジキルとハイド〟だ。鬼のような仕事の依頼をするときもあったり、天使のように優しく接してくれるときもあったりする。今日は機嫌の悪い日だったようだ。


 早速、研究所内のデータベースで論文を探した。八割は見付かったが、残りは明日以降に世界中をアクセスして探さなければならない。試験データは千田にも手伝ってもらわなければならない。


 日誌を纏めて、定時に退勤した。


 研究所内に宿舎がある。徒歩で移動できる距離にあった。所外に出るのは月に一回程度で、ドライブついでに、近くの湖に釣りに出掛ける。


 少し欠けた月がクリーム色に輝いている。こっちに来いと誘われているかのようだ。あそこにマーシャがいる。手を伸ばせば届きそうにみえるが、月への距離は384400キロメートルある。ロケットで出発しても月面着陸まで約四日はかかる。通信は中継衛星によってタイムラグがほとんどないのに。


 自室に戻ると、スマホにメールが一通届いた。

 二年後にムーンベース研究所への仮配属の通知だった。


 結果発表は一ヶ月後だったはず。


 あまりに早い決定に、悪戯ではなかろうかとヘッダー等を調べた。


 どうやら、本物らしい。


 喜びよりも何故とスマホを眺め続けた。

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