第19話
「お前、私が出した課題の通りこの絵日記をきっかり埋められるか?」
その言葉に、私は絵日記を見つめて考えてみる。
普通に考えたら、他の講義で出たレポートに比べればかなり簡単な課題だ。
でも、『埋める』となると話が変わってくる。
あまりにも少ない行数や、絵を描くスペースの狭さ。そこに文字やイラストを当てはめる想像をして、眉間に皺がよる。
「…よくよく考えたら、結構難しい?」
「どの辺がだ?」
「まずこの行数…10行しかない所です。多分それを埋めようとして文字を書くと、足りない気がします。それからイラストを描くスペースも大人になった今見るとすごく狭く感じます。」
「考えて埋めようとするとスペースが足りない、逆に簡素な文にしようとするとスペースが開いちまう。絵もそうだ。こうやって範囲を決められると逆に難しいよな。」
「…はい。」
「なんとか1、2ページならできるかもな。しかしそれを冬休みの間毎日やるってなったら、どう思う。」
確かに1.2ページならば、必死に頭を働かせればどうにかしっかり埋められるかもしれない。例えば鉛筆で下書きをしたりして文字数を微調整しながら書くとかの工夫をすれば可能だ。
「…無理だと想います。」
ただ、それを続けるだなんて…そんなの頭がおかしくなる。
この課題、『埋める』という条件があまりにも難しい。
私が険しい顔をして咲先生を見ると、ニヤッと笑って私の頭を撫ではじめる。
「そうだよな。それが今のお前だ。」
「…?」
そして次に言われた言葉に、私は頭の上にハテナマークを浮かべる。
すると咲先生はゴホンと一度咳払いをしてから、絵日記に視線を移す。
「アタシ、しののめさきちゃん!4ちゃい!きょーはえにっきかくんだぁー!」
そして普段のダルそうな声ではなく、所謂裏声を使って唐突にそんな事を言い出した。
「その顔やめろ。」
「すみません。ついに頭がおかしくなったのかと…」
そんな咲先生にドン引きした私の顔を見て、頭突きをかまされる。いや、今回は私悪く無いと思う。
「いいか、4歳の私が今から描いてやるから見てろ。」
そんな私を置いて、あくまでその設定を続ける気らしい咲先生は、絵日記に向けてボールペンを走らせた。
…紙の下部分ににだけ。
「え、ちょっと…ずるじゃないですか」
咲先生が書いたそれに、私は思わずつっこむ。
だって、縦書きのノートなのに、咲先生は下の方にだけデカデカと『きようはたのしかつた』と横に10文字並べただけだ。
それから太めのマジックペンを筆入れから取り出した先生は、イラスト用のスペースと余った作文用のスペースを、グチャグチャと塗りつぶして見せた。
真っ黒に塗られたノートの上7割、残りの3割に『きようはたのしかつた』の文字。なんのホラーだ。
そのままの勢いで、先生は隣のページにまたボールペンを走らせる。
今度は縦書きではあるのだが、1行ではなく2行使って一文字をかくというドデカ文字スタイルだ。
先生のズルすぎる実演に、私はただただポカンと口を開けて見ているしかできない。
「…どうしてズルだと思う?」
2ページ目もあっさりと埋めてしまった咲先生は、ようやく私を見つめて問うてくる。
「いえ、だってこれ…普通に考えて…」
「普通って?」
「その、縦に書かなきゃダメとか、イラストははみ出しちゃダメとか、文字は1行に書くとか…」
「私は『埋めろ』としか言ってない。特定の手段を提示したつもりはないが」
「でも…」
私の指摘に、淡々と言い返してくる咲先生。だけどそれらは全て屁理屈だ。やっぱりズルはズルだと思う。
「大人になるとさ、『それが常識だろ』って『言われなくても分かるだろ』って。見えない何かに捉われるよな。」
納得のいかない私の頭に、また手が置かれて乱暴に掻き回される。
「それによって無意識に消される選択肢に、答えはどれだけあるんだろうな。」
そしてその言い回しに、私はハッとして咲先生を見つめる。これは咲先生が何かを伝えたい時にする表現だ。
ニヤリと笑われて、また頭を撫でられる。
「4歳の私がこれを埋められたのは、お前より選択肢を多く持っていたからだ。」
「お前が見えない何かにズルだと認識させられて消した選択肢を、私は最適解だと選び実行した。」
「余計な事を考えず、『埋める』という事にだけ集中しているから。その為ならばどんな手段だって使えるし、使う。」
やはり先生は、この絵日記を使って私に何か大切な物を伝えようとしていた。
「…でも、やっぱり世の中は常識やルールに縛られてるじゃ無いですか。大人になればそれに従うしか無いですよね。」
それでも、私的にはまだ先生の言っていることに納得はできない。こんな屁理屈が罷り通る世界では無いのは若干19歳の若造でも分かる。
「本質が違うな。」
しかし、咲先生はそんな私にまた笑みを浮かべて首を振る。
「私はなにもすすんでズルをしろと言ってるんじゃない。ズルだと切り捨てた選択肢に目を向けろと言ってる。」
そう言って咲先生は私の視線を誘導するように、ボールペンを私の目の前からゆっくりと絵日記に移していく。
「確かにお前が言ったように、世の中の常識に従うのが大半の正解だ。…けど、例外だってある。」
ボールペンでトントンと、絵日記を叩く。
「お前が捨てた選択肢を私が容認したように、あいつだから許してくれる様なズルがあるかもしれない。」
私はズルの塊である絵日記を見つめながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「私が捨ててきた選択肢…」
先生が言いたい事は、よく分かった。
けれど、それはあまりにも途方すぎる作業。
だって、まず何に対する選択肢かが分からない。たとえそれが分かったとして、今度は捨てた選択肢を見つけるところからだ。そこまでしてもその選択肢達が正解かなんて分からない。
ただ捨てられた選択肢に目を向けろと言われただけでは、何も変えられない気がした。
「こっからは私の犯罪と、その罪滅ぼしの同時並行だ。」
咲先生に助けを求めるように視線を送ると、少しだけ悲しそうな顔をした後、ぐっと片手で頭を抱えこまれた。
私の頭頂部に咲先生は頰をくっつけながら、優しく髪を撫でてくれる。
すごく心地いいのだが、この行動理由が分からない。
というか今日の先生はやけに甘やかしてくれる。安心する。なんというかお母さんのようだ。
…本物のお母さんの感触を私は知らないけれど。
「あの、どう言う事ですか?」
私の問いから少しの間静寂が流れる。
ただ抱きしめられ、頭を撫でられ、安心感だけを与えられる時間。
暫くそうしてから、ようやく咲先生が口を開く。
「…お前は綾音に愛されようとしているだろ。それは何故だ?」
しかし、これまた咲先生特有と言うか、全く意味がわからない質問をされる。
ただ、やっぱり咲先生の事だから、これにもきっと意味があるのだろう。
「えっと…好きだから?」
とりあえず、無難な答えを言ってみる。
というか、これ以外に何と答えればいいというのか。
「違うだろ。」
なのに、即座に否定される私の回答。
というか私の心理的回答なのに他人に否定されるとはこれいかに。
それに違うだろと言われましても、という思いで先生を見つめる。
すると真剣な表情の先生と視線が合わさり、思わずドキッとする。
そしてそんな先生の潤った唇が開き、聞こえた言葉に私は目を見開いた。
「綾音がレズビアンでお前がノンケだからだ。」
「っ…!!」
息を呑み、唾液を飲み、心臓が大きく跳ねる。
「綾音がレズビアンだから、ノンケで女の自分は愛される側だと思い込んでる。…違うか?」
言われて過去の行動を省みると、全くその通りだった。
綾音がレズビアンだから、可愛いと思われたかった。
綾音がレズビアンだから、自分を女として見て欲しかった。
綾音がレズビアンだから、私は愛してもらおうとした。
意図的にそうしてきたわけでは無い。完全に無意識に、綾音の事を『レズビアン』として認識していた。
そしてその『レズビアンの特性』を利用して綾音に好かれようとしていた。
綾音の事を好きなのは疑いようのない事実。だが、前提にレズビアンが来てしまっていた事で、無意識にあらゆる選択肢を捨てていたこととなる。
これがさっきの話中の『常識』に囚われた状態か。
「言っただろ。綾音はノンケは愛せないと。」
そして、再三言われてきたその言葉。
それと先程の先生の言っていた選択肢の話の意味を組み合わせると、見えてくる。
「なら、お前は何をすればいい。捨ててきた選択肢から、何を拾う。」
「…私が、綾音を愛する」
先生の問いに、私は迷いなく言葉を紡げた。
愛される為のアプローチではなく、愛する為のアプローチだ。
それならば、選択肢はまた増えるし、ノンケを愛せないという綾音の心を動かす事も可能かもしれない。それに気づいた私の胸は、希望に満ちた。
しかしその私の答えに、咲先生はまた悲しそうな顔をして、私を後ろからぎゅっと力強く抱きしめた。
「…すまない。」
そして、耳元でそう呟かれる。
「え、なんで謝るんですか」
理解できなかった。私としては咲先生のおかげで答えにグッと近づいたんだ。こちらから感謝はすれど、咲先生が謝罪をする必要性なんてないはずだ。
「…お前に、無理やりその言葉を言わせた。」
だが、咲先生はそう言って私を抱く腕に更に力がこめる。
「綾音が心の底から人を愛せなくなったの、私のせいなんだ。」
まるで懺悔するように咲先生は話し出す。
…いや、正真正銘懺悔なのだろう。この手に篭る力強さから、何か強い後悔を感じる。
私は何も言わず、咲先生の腕に手を添えてあげる。
「前に言っただろ、昔いじめられてたって。それで性的指向や自分がどう言った存在なのか徹底的に教え込んだって。」
「それさ、殆ど洗脳みたいなもんだったんだよ。」
「あの時、今にも消えてしまいそうな程衰弱していた綾音をどうにか救いたくて…私と明乃さんでとにかく生き残る術を叩き込んだ。」
「その甲斐あって、自分のセクシャリティを上手く隠せるようになった綾音は、前よりも明るくなった。同性の子と楽しそうに遊べるようにもなった。」
「…表面上では。」
「代償として、あいつは上手く恋愛ができなくなっちまった…」
─ねぇ咲ちゃん!私、好きな人できたかも!その子、アイドルみたいですんごい可愛いんだぁ!
…そういえば綾音。前言ってた子とはどうなったんだ?
─んー?あぁ、あの子?なんかね、ノンケだったから興味なくなっちゃった。
「そんな会話を何回も続けて…恋って、そうじゃねぇだろって…ずっと思ってたのに、どうすることも出来なかった。」
「私は…あいつからあらゆる選択肢を奪ったんだ。」
震える声で話す咲先生を向けば、私の肩にしみをつくっていた。
「咲先せ…」
「そして、お前を苦しめた。」
私が口を挟もうとした瞬間、咲先生はそれを遮るように続ける。
「綾音が自分から友達にセクシャリティを話したのは、初めてだったんだ。」
「しかも、お前がノンケだと分かってからも、今までの奴らとは対応が明らかに違った。」
「だから私はお前を利用したんだ…」
「お前なら、あいつを癒してくれるんじゃないかって…」
「だから失恋して傷つくお前を、もう走らないと言ったお前を、私はまた辛い道に戻そうとした。」
「あいつの事を、無理やり愛させようとした。」
淡々と吐かれる咲先生の胸の内。
「先生…」
私は先生の腕を外し、先生の方に体の向きを変える。
そしてその震える身体を抱きしめると、私の肩に顔を押し付けてきた。
「今日ここに来たのだって、薄々勘づいたからだ。お前が恋を諦めたんじゃないかって。…お前を慰めにきたわけじゃない。利用しにきたんだ。」
「どうしてそれを今、言う気になったんですか?」
「愛はコントロールする物じゃない。…でも、私がやったのは、純粋なお前を騙くらかす事だ。」
「種明かしなんてせずに騙し通せば良かったのに。」
私の言葉に、咲先生は黙ってしまう。
それが意味するのは、私の問いに答えられない答えを持っていると言う事。
「ほんと、不器用な人。」
いつもいつも適当なくせに、人一倍愛情深い。この涙も、綾音への後悔と、私への罪悪感による物だ。
先生が話している通りなら、私の事なんて利用し尽くせばいいのに。こうして可愛らしく涙を見せてくれているということは、少なくとも私の事をそれなりに愛してくれていると言う事だ。
それに、私が綾音の事を本気で好きなのを分かっているから、落ち込む私を勇気つけてくれたというのも必ずあるはずだ。私を抱きしめてくれた時に、確かな愛情を感じたから。
私はそんな優しい先生の背中を何度も摩ってあげる。
私よりも大人で、私よりも多くの経験をしてきたこの人。そしてずっと前から綾音の事を愛してくれていた人。
「私からは一言だけ。」
そんな人にかける言葉は、一つしかない。
「綾音の命を救ってくれて、ありがとう。」
「っ…」
私の言葉を聞いた先生から、ひゅっと空気を飲む音が聞こえ、身体の震えが一層強まった。
「咲先生は綾音から選択肢を奪ったって言いましたよね。」
「確かに、綾音はろくな恋愛をしてこれなかったのかもしれない。」
「でも、そのおかげで橘綾音は高嶺麗華に出会えました。」
「その事実を知った今、私はもう迷わない…私が必ず、綾音の事を幸せにして見せます。」
私は力強く宣言する。
咲先生がこれほど私に期待してくれているという事実は、私に大きな自信をもたらす。
「それに咲先生には感謝してるんです。確かにまたあの道に戻るのは、辛く険しい物になるかもしれない。」
しかし、現実は私は一度失恋している。
アプローチの仕方を変えるとはいえ、簡単にいくとも思えない。
それでも…
「でもね、私はやっぱり綾音が欲しいんです。」
「だから、これからも私を利用してください。騙してください。好きなようにコントロールだってしてください。」
そこまで言って、私は深く息を吸う。
「辿り着く先に綾音が居るのなら、私は過程なんてなんでもいい。」
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