第10話

 今日は寝ないし、寝かさないぞ!


 なんて意気込んだはいいが、この1週間、先生に言われた通りに健康的な生活をしていたせいで23時を過ぎたあたりから、睡魔という怪物と壮絶な闘いを繰り広げていた。


「ほら麗華ちゃ〜ん?おねんねしましょうねぇ〜?」


 あぐらをかいている綾音は、その綾音の膝に跨って座る私をゆっさゆっさと揺らしてくる。


 更に片手は背中をトントンとリズムよく、もう片方の手も頭をサラサラとテンポ良く。


 更に言えば、綾音の身体が柔らかい。体温が暖かい。シャンプーに混じる甘い匂い。


 綾音の身体はどんなベッドよりも最高級の寝床だ。全身包まれてゆさゆさと揺らされてるし、ゆりかごに近いかもしれない。


「…んっ…やぁ…」


 そんな最強の装備で固めた睡魔と、私は死ぬ気で闘っていた。


「あ、こら。目擦ったらダメ。」


「…ぅゔゔゔぅぐぅぅゔぅ」


 しかし私の必死の抵抗は、綾音の手で簡単に阻まれる。


 もうどこから出してるのか分からない声を上げて、とにかく自分が寝ていないという事を自分に言い聞かせる。


 何でもいいからしていないと、意識が持っていかれる。


「美少女が出していい声じゃないぞ。キャラ大事にしろぉ?」


「ぁぐっ」


「…ったぁ!?噛むなアホっ!」


 痛そうな声を上げてた綾音に、ぐいっと思いっきり引き離されて、ようやく私が無意識に綾音の肩に噛み付いたのだと気がついた。


「ぇ…ぇぅっ…」


 モヤがかかった思考では、状況は全く整理できないけど綾音の存在が遠ざかったのだけは理解している。


 そうすると勝手に涙が出てきて、思考だけでなく視野にもモヤがかかる。


「いやいや泣かないで!?ごめんね、怒ってないよ〜?つっこんだだけだからねぇ〜?」


 そうすると慌てた綾音が、また同じように私を抱いてゆさゆさと動かし出した。


「…ぅん…ぅふぅう」


 優しい手つきと綾音の感触が戻ってきて、自然と気持ちいい声が出る。


 そしてその首筋に顔を置くと、定位置に戻ったかのように睡魔が襲ってくる。


 さすがにもう倒されそうだ。


「お〜よちよち。可愛いバブちゃんでちゅねぇ〜。」


「ん…ん…ぅ」


「よしよし…いい子だからこのままおねんねしようね〜」


 泣き止んだ私に、綾音の手つきはまたあやすような動きになる。


 それに私の脳は完全に寝る体制になった。


「…ん…ぁやね…ぃか…なぃで…」


 私が呟いた何かに、綾音が一瞬息を呑む音が聞こえた。


 それから、私の片方の手を取って、ぎゅっと握ってくれる。


「うん…どこにもいかないよ。寂しい思いをさせてごめんね。麗華。」


 そしてそんな優しい声を最後に私の意識は、睡魔によって完全に奪われた。



「んっ…あれ…私…」


 寝ぼけた私を包む柔らかい布団と、頭下にある枕からは私の大好きな甘い匂いがする。思わず枕に鼻を当て、勢いよくその匂いを吸い込む。


 あぁ、完全に綾音の匂いだ。


 そして明らかに私の家のものではないそれらを理解して、ようやく意識が完全に覚醒する。


「…ぁぁ…寝ないって決めたのに寝ちゃったのね…」


 いつどうやって布団に入ったのか分からない。綾音から離れるのが嫌すぎて、ずっと綾音に抱きついてたはずなのに。気づいたら意識はなかった。


「…でも、これはこれで最高ね。スンッ」


 そう呟いて、自分の服と枕、そして布団から大好きな匂いを体に取り込む。


 結局昨日、ゼミで咲先生にここの住所を貰って、すぐに綾音の家に飛んできたからお泊まりセットは持ってきていなかった。


 そのおかげで、私はこうして綾音の私服を借りて着ている。このTシャツと短パンは綾音のものだ。…さすがに下着はコンビニで買ったけど。


 身長は私の方が少しだけ大きいけど、大差はない。綾音はガリガリの私と違って、女性的な身体つきをしているからむしろちょうど良かったりする。


 そんな経緯もあって、私は今全身を綾音で包まれているのだ。これはこれで最高の気分になる。


「…ていうか、今何時なんだろ」


 甘い匂いを堪能していると、少しだけ冷静になる。綾音の匂いで満たされるのもいいが、綾音本人が欲しくなったのだ。


 そしてここは綾音の家、このベットから降りて少し歩けば綾音がいるはずなのだ。


 私は時間確認しようと、スマホを探す。けど、近くにはなさそう。


 ただデジタル時計が置いてあって、そこには6時22分と書いてある。やはり私の体内時計は完璧である。


「…綾音はまだ寝てるわよね。」


 そしてそんな時間、あの綾音が起きているわけがない。


 スマホは、私物を置いてあったリビングにあるとあたりをつける。


 ならば音をなるべく立てずにスマホを取って、この部屋に戻ってこよう。早く綾音と会いたいのは山々だが、起こすのはさすがに可哀想だ。


「それにしてもほんと、いい家に住んでるわね。」


 ゆっくりとベッドから降りて、ドアノブに手をかける。


 部屋は2部屋あるし、リビングはあるし、トイレとお風呂は別だし、何よりセキュリティ面が凄い。大学生の一人暮らしとは思えないほどのいい暮らしだ。


 綾音はバイトをしていないし、恐らく親御さんの方がかなりの心配性なんだろう。


 そういえば綾音の両親は離婚しているから、親御さんはお母さんと咲先生になるのかな。


 綾音のお母さんと、咲先生か。んー。咲先生もかなり綾音の事を愛してるし。お母さんの方はどんな人なんだろう。そして綾音をここに住まわせるの許可したのはどっちなんだろ。


 この綺麗で大きな部屋を歩きながら、そんな風に愛されている綾音の事を考えていた。やっぱり綾音がちゃんと愛されているのが分かると、嬉しいものだ。


 リビングにつくと、立派なソファの後ろ姿が見える。この家にある家具達も大きくてすごく高そうな物が多い。本当に社会人の一人暮らしでもこんなにいい暮らし出来る?ってくらいの暮らしだ。


 そして、その前にあるテーブルの上に私のスマホが置いてあるのが見えた。


 それを取って部屋に戻ろう。綾音が起きるまで、スマホに保存されている綾音の写真や動画を見ていれば、あっという間だ。


 そう思いながら、ソファの前に立つ。


 そしたらゴソゴソと、何か物が動いて布が擦れたような音が聞こえる。


「…え?」


 音が聞こえたソファを見て、私の目は見開く。


 もう冬なのに、ここのリビングはやけに暖かいなとは思った。暖房がついていたからか。


 そして、暖房がついていた理由は、これだ。


 …綾音が立派なソファの上で毛布も掛けずに、それでも気持ちよさそうに眠っていた。


 部屋が二つあるから、綾音はもう一つの部屋で寝てるんだと思っていた。まさか家主をソファで寝させるなんて。


 とてつもない罪悪感が襲ってくる。


 けど、綾音の姿をしっかりと認めた瞬間、その罪悪感は別の感情に塗りつぶされる。


「…うわぁ」


 ブルマみたいなルームウェアのショートパンツから伸びる綺麗な脚。特に太ももの太さが絶妙だ。擬音で表すなら『ムチッ』だと思う。決して太すぎない、けど細くはない。なのに膝下はしっかりと細いのだ。そしてお尻の方からチラっと見えている下着のピンクが頭から離れない。


 上のルームウェアは、可愛いモコモコのフード付き。丈が短いのと寝相のせいで、完全に捲れ上がり、綺麗で真っ白なくびれたお腹がこんにちわしてしまっている。


 ショートパンツが本当にショートだから、捲れて見えているお腹の上から、足までの身体のラインが丸わかりになっている。


 そして、顔だ。なんだあのあどけない可愛い顔は。いい夢でも見ているのか、口元が笑っている。さらに垂らしてからあまり時間が経っていないのか、キラキラ光る涎に濡れている。


 そんな彼女の姿を見て、私の罪悪感を塗り替えた感情は…


「ん…な、に…?」


 私は気がついたら、彼女の上から覆い被さっていた。


 それに気づいた綾音が、苦しそうな声を上げて目を覚ます。


「…れー…か?」


 まだ思考が鈍っていて、焦点も定まっていない綾音。そんな綾音の視界に最初に映るのが私だという事実に、心が満たされていく。


 寝て覚めたら綾音の顔が隣にあるというのは、私が夢見ていた事だ。でも、逆もありだなと思う。綾音の目が覚めた時にその視界に一番に映るのは私でありたい。


「…おはよう綾音。」


 眠そうな綾音の頬に自分の頬を擦り付けて、私は言う。


 そして下に落ちていた毛布を、自分と綾音を隠すように被せ、綾音ごとぎゅっと抱きしめる。


 すると感じる綾音の驚異的な柔らかさと、スベスベな肌触りが私の心をありえないほどざわつかせる。


 普段綾音に抱くようなドキドキとは全然違う。もう昨日から私は明らかに変だ。


 なんというか…綾音が…


 いやまて、やめよう。こんなのおかしいから。ふつうにまずい。友達に向けていい感情じゃない。


「んー…ふふ。あったかー。…なぁに。れーかはまたさびしくなっちゃったのー?」


 しかし、そんな私の下心的な気持ちなんて知らない綾音はクスクスと眠そうに笑って私の後頭部を撫でる。


 とてつもない包容力に、思考は全部捨てて綾音に身を委ねる。


 それでも私の身体は正直で、手では綾音の身体の至るところを、足では綾音の足を、弄るように這わせる。


「くひひ、くすぐったいよー…」


 私の思考は、こんなことまで許してくれる綾音は本当にレズビアンなのだろうか?という疑問に埋め尽くされる。


 確かに昨日、綾音は私の事を恋愛対象にならないと言っていた。


 私はその返答に、良い気にはならなかった。


 かと言って、綾音に恋愛対象として見られたら…その時私はどうするんだろう。なんて疑問は昨日は捨て置いた。家に帰ってから1人になった時にでも考えれば良いやって、思ってたから。


 そもそも私達は親友という位置でお互い納得したのに。そんな考えが浮かぶ事自体、おかしい事なのにそのことに私はまるで気づいていなかった。


 そうやって変な考え事をしながら、綾音が性対象である私に対してあまりにも無防備なのが気に食わなかったから、少し意地になってしまった。


「…んぁっ…え…?…んっ…」


 そんな甘い声が聞こえて、私は現実に戻された。


 そして、やけに冴えた頭で状況を整理した。


 私は何故か、綾音の細い首筋に唇をくっつけ、思いっきり吸い付いていた。


「なに…してんの…?」


 私はゆっくりと唇を離し、四つん這いになるようにして体を持ち上げる。


 すると、私の下で目を大きく開いて困惑している綾音と目が合う。そして白い首筋に、薄く赤くなっている部分が視界の端に映る。


 頭はとっくに冴えていたはずなのに、そこでようやく自分がしでかした事を理解した。


 本当に焦った時、冷や汗ってこんなに出るんだ。もう自分でわかるくらい、背中がびっしょりと濡れているのがわかった。


 上手く呼吸ができない。浅い呼吸を繰り返して、気分が悪くなる。


「えと…あの…あのっ…」


 そうすると、声だって上手く出ない。


 たとえ上手く出たって、話すべき内容が出てこない。何を言えば良い。


 でも綾音は、そんな私を見てゆっくりと笑った。


「…あ、その焦り様…寝ぼけてたな〜?」


 そして綾音がそう言った瞬間、私の思考能力は過去1番に高い数値を叩き出した。


「…っ、ご、ごめんなさい!私起きてリビングに来たら綾音がソファで寝てたから…それで、気づいたら一緒に寝てて…それで、近くにあった綾音に吸い付いちゃった…あの、寝癖悪くて…それで…」


 私は最低だ。でも、もう綾音が作ってくれた逃げ道を使わせてもらうしかなかった。


「うんうん。分かるよ。だって昨日…ほら。」


 そんな私の早口言い訳を聞いた綾音は頷いた後、チャック式のモコモコ寝巻きのチャックを胸元まで下ろし始めた。


 下は文字通り下着しか着ていないみたいで、その大きな物によってできた深い谷間が見えてしまう。もう、あまりにも目に悪すぎる。


 綾音の行動の真意が分からない。


 けど、綾音が少し服をずらして、私が吸い付いた方とは逆の肩を出した時、理解した。


「でっかい赤ちゃんにこっちの肩思いっきり噛まれたからさ〜。おーう。一晩経ってもくっきりだぁ〜」


 綾音は面白そうに、自分の肩を見て笑う。


 うっすらだけど、記憶がある。


 綾音の白くて綺麗な肩につく少し青くなった歯形…これは昨日の夜私がつけたものだ。


 顔に物凄い勢いで熱がたまる。


 そして、思ったよりも強く噛んでしまったらしく、綾音の肌に傷を残した自分に罪悪感が襲ってくる。


「ふひ…もう。これどうすんだよー。見る人が見たら一発だぜぃ?」


 そう笑いながら、綾音はチャックを上げて肌を隠していく。


 すると私のつけた後が見えなくなった。良い事なのに、何故かまた自分のつけた跡が見たいという衝動に駆られる。


 けど、ダメだ。今はそんな事をしている場合じゃない。


「ほ、ほんとにごめんなさいっ…」


 私がしてしまった行動で綾音の綺麗な肌を傷つけたのだ。


 それに、噛み跡はともかく、首筋に見える赤は明確に私が綾音に対して付けたくて付けたものだ。


 自分が何故そんな行動をしたのか。理由になんとなく気がついてはいるけど、私は行動理由を偽った。綾音に嘘をついてしまった。


「あーもう、そんな顔しないで。どうせ今彼女とかいないし。見られて困ることは無いからさ。」


 綾音はそんな最悪の私を、下から腕を伸ばして抱きしめてくれた。


 そうすると私はまた綾音に上から身体を重ねることになる。


 でも、綾音の言葉に私の胸は鋭い痛みを覚える。


 言葉を噛み砕くなら、もし綾音に彼女が出来たのなら、肌を見せるような事をするという事だ。


 それを想像した瞬間、私の中で全てを理解してしまった。


「…ごめんなさい綾音。こんな時に言うことではないと思うけど…一度、家に帰っていいかしら。」


 その感情に対する物凄い情報量が私の中に入ってきた。そして今は1人になるべきだと理解した。


「ん?」


 キョトンとした綾音の表情が、愛おしくてたまらない。


 あぁ、私の気持ちに名前をつけてしまうと綾音に対する全ての感情が別の意味になる。


 だから、名前をつける前に一度綾音から離れないと。整理しないと。


「その、綾音と会えなかった時大学にも行かずに引き篭ってたから課題が溜まってて…」


 だから私は迷わず嘘をつく。


 いや、実際課題はあるから嘘ではないんだけど。そこまで急ぎのものでもない。


「あ、そうなんだ。…うん。分かった。」


 それでも綾音はあっさり了承してくれた。


 純粋な彼女が愛おしく、それでいて私を簡単に手放す彼女が憎い。


 そんな事を考えながら私はすぐに身支度を整えて、綾音の家を後にした。もう、雑談だってしている暇はなかった。…いや、余裕がなかった。


 だって、この感情は多分…いや、絶対…

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