第9話

 過去最大級に緊張している。


 インターホンを押そうとしている指が震えて仕方がない。


 それでも、この日の為に体調を整えた。


 綾音に会えると思ったら、食事は喉を通り、急激に眠気が襲ってきた。なんとも素直な身体だ。


 さらに普段おしゃれに興味なんてないけれど、なんだか綾音に会うと思ったら急に自分の身なりが気になり、急遽可愛い服を買ってきた。


 …万全だ。


 指が触れ、軽い音が鳴る。


『はーい』


 すると、軽快な声が聞こえてくる。


 あぁ、綾音だ。綾音の声だ。大好きな声だ。


 もう、それだけで涙が出そうになる。


 顔が見たい。


 早く、早く、早く、早く。


 ほんの数秒すら、私は待てなかった。


「…あやね?」


『…え』


 私がインターホンに付いたカメラに顔を見せると、綾音の声が硬くなるのがわかった。


 私も緊張でカラカラになった口を、どうにか動かして要件を言う。


「…急に来てごめん…話がしたい。」


 沈黙。


 怖い。これでもし断られたら…


 アホだと思われるかもしれないけど、ここに来るまで断られる想定を全くしていなかった。


 綾音に会えるという事実が私の脳内全てを埋め尽くしていたから。


 ほんの数秒だったと思う。けど、その沈黙は果てしなく長く感じた。


『…分かった。けど、ちょっと待って。すぐ準備するから。』


 しかし、聞こえた言葉は了解だった。


 了解が得られた事に、ホッとする。


 でも綾音の言葉にひっかかる。


「…あがってはダメ?」


 欲が深すぎる。でも、動く口が止まらないのだ。


『…うん。ダメ。』


 だからこうしてちょっとした否定の言葉に、心がナイフで刺されたような鋭い痛みを覚えるのだ。


 苦しい。


 自分のせいだって、分かるから。


 きっと、私達が2人きりにならないように気を遣っているるのが分かるから。


 私があんな反応をしたから。


 そして、気を遣うという事は、彼女があの日の事をすごく気にしているという事だ。

 

『すぐ行くから。そんな顔しないで麗華』


 どうして。どうして私はこんなに優しい人を傷つけたんだ。


 こんな私に、まだ優しくしてくれる。


 傷ついたのは綾音だ。綾音を傷つけたのは私だ。だから私が泣いちゃダメなのに。


「あやね…あいたい…」


 私はカメラの前で泣きながら言う。顔を覆うこともしていないから、私の酷い顔が綾音のモニターに映ってるのだろう。


 でも、伝えたかった。私の顔を見て欲しかった。


『うん。すぐいくよ。』


 優しい声だった。


 そのすぐ後、私と綾音を繋ぐ物がプツンという音を立てて切れた。


 綾音は私の為に準備しに行っただけだ。


 なのに、急激に襲ってきた不安に押しつぶされて、私はダメだった。


 このまま綾音が出てこなかったら。裏にあるベランダの方から逃げられたら。


 それでもう一生綾音に会えなくなったら。


 とめどなく溢れる涙。


「麗華?」


 この涙を流させるのも、そして止めるのも、この人にしかできない。


「…ぁっ…ぁぁ…」


 今日は明るい茶色を後ろで一つに縛っているらしい。


 それだけで、可愛い女の子が途端に大人っぽい綺麗な女性になる。


 子供っぽさと大人っぽさを兼ね備えた彼女だから、成り立つスタイル。


 そして私はどっちも大好きだった。


「ぁぁああ!あやね!あやねっ!!!」


 そう、彼女は私の大好きな綾音だ。


 私は彼女の姿が見えた瞬間、何も考えずに彼女に飛びついた。


 私よりも高い体温、全身の柔らかさ、鼻腔をくすぐる甘い匂い、耳元に聞こえる優しい声


 全部、私の求めてたものだった。


「っ、れ、麗華…?」


「ごめんなさい…ごめんなさい…」


 戸惑う綾音を置いて、私は綾音にしがみついて謝罪を口にする。


 咲先生は謝罪に意味はないって言ってたけど、絶対に必要な物だった。


「何でもするから…お願い…側に居させて…あやね、あやね…」


「お、落ち着いて麗華?ね?」


 確かに今の私は冷静じゃない。


 ようやく会えた大切な人を前にして、感情が爆発した結果だ。もうどうでもよかった。


 でも、違和感は見逃さない。


「お願い…抱きしめて、あやね?」


 私は綾音をぎゅうぎゅうに抱きしめてるのに、綾音は私に腕を回してくれない。


 それがとてつもなく悲しかった。寂しかった。


「…麗華、それは」


「イヤ…あやね…」


 綾音の言いたい事は、分かってる。


 綾音は気を遣ってる。自分がレズビアンだから、私に触れないように。


 体調を整えていたこの1週間。綾音との思い出を振り返っていて、嫌と言うほど思い知った。


 綾音は最初から最後まで、ずっと紳士だった。


 前から、綾音は必要以上に私に触れなかった。触れる時は私が求めた時だけ。


 お泊まり会に否定的だったのも、きっと自分がレズビアンだからと遠慮をしたんだろう。


 それに気づいた時、私はまた激しく後悔した。そんな紳士的な子が、あの時私を襲うなんて万が一にもなかったんだから。


 そして今だ。こんなにも求めているのに、綾音は私を抱きしめてくれない。


 でも、今はそんな気遣いは要らない。


「…はぁ。」


 私が更に力を強くしてただひたすらに綾音の抱擁をねだると、綾音の方が溜息と共に折れた。


 あぁ。私の知ってる綾音だ。


 私がワガママを言えば、最後には綾音が折れてくれる。


 変わってない。私のワガママはまだ綾音に通用する。


 ゆっくりと動いた綾音の腕が、私に優しく巻き付く。


 殆ど強制的な抱擁だったけど、全部を含めれば最高の抱擁だった。


「んっ…あやね。…あやね…」


 嬉しい。気持ちいい。悦びに満ちた胸が張り裂けそうになる。


 頭を軽く揺らして、綾音に擦り付ける。


「…あやね。もっと。」


 そして私の口はまだねだる。


「…いや、あのね…麗華」


「もっと、強くぎゅってして?」


 もっと、もっと。もっと、と、私は更に綾音を求める。綾音に対する欲に際限はない。


「麗華、忘れたの?私はレ…」


「関係ない!…私は綾音がいないとダメだって気づいたから。綾音が綾音なら、何だっていい。」


 私は綾音の言葉を遮る。


 綾音がどんな存在でも、私は受け入れる気でここに来た。


 だからそれを理由に私から離れようとするのは嫌だった。自分勝手なのは分かってる。私が拒絶したのが悪いんだから。でも、嫌だった。


「私の方は気にしない…でも、あやねが嫌ならやめる…」


 拗ねたように、また頭を綾音にすりすりと擦り付ける。


 ずるいのは分かってるけど、綾音は拗ねた私の言う事は聞いてくれるから。


「…ふふ。もうっ…わかったよぉ」


 ほら。思ったとおり、綾音はクスクスと笑って私を抱きしめ返してくれた。


「んぅ…あやね…」


 幸せだ。死んだように過ごした日々がまるで嘘みたいに、私の心が満たされる。


 でも、その手はすぐに外され、私の肩は押されて身体も離れてしまう。


 その行動に困惑して、綾音を見る。


「麗華がここまで信用してくれてんだ。応えなきゃね。」


 そう呟いた綾音は、微笑んでいた。


 そして今度は私の手を握った。


「おいで麗華。」



「飲み物、お茶でいいかな。」


「…うん。大丈夫よ」


 インターホンを押す時、人生最大の緊張感を味わっていたはずなのに。


 また、緊張でどうにかなりそうだった。


 まず、嗅覚。


 この空間にある匂いが全て、私のよく知る彼女の物。綾音に全身を包まれている感覚に陥る。


 そして視覚。


 あそこにあれがあるんだ、あれはなんだろう、これは綾音が使ってる物なのかな。


 目に入る物が全部綾音の私物。私にとっては宝の山。どれも気になる。全部の詳細が欲しい。今なら探検家やトレジャーハンターの気持ちがよくわかる。


 そして聴覚。


 綾音がたてる足音。綾音がお茶を淹れる音。


 綾音が側に居るから聴こえる物だ。綾音を感じて、凄く安心する。


 この空間は、全部が綾音で満ちていた。


 綾音の部屋。綾音が普段生活している場所。私の知らない綾音がいる場所。


 そんな場所に、私は今居る。


「おまたせ」


 そう言って、綾音は背の低い丸テーブルの上にお茶を並べる。


 その姿に、思わずうっとりとしてしまう。


 普段の子供っぽい言動からは想像もつかないくらい、所作が美しい。


 何より、一つ結びの髪と、つけられたエプロンがなんともマッチしすぎている。


 後ろから思いっきり抱きついて、綺麗な首筋に顔を埋めたい。


「…む。」


 そんな風に綾音に見とれていて、気付くのが遅くなかったけど、それを見た私の頰は膨らむ。


 そして、私の頬を膨らませる原因であるコップの配置を直す。


「あのねぇ…麗華さんや…」


 綾音は呆れたように言うけど、こればっかりは譲れない。


 コップを離して前後に置くなんて、許されない。だって綾音がその離れた位置に座ると言う事じゃないか。


 位置を直したコップが隣り合ったように、私も移動して綾音にぴったりと身体をくっつける。そして逃げないように、腕に手を通して拘束する。


 そうすることで、ようやく私の頰は膨らむ事をやめた。


 すると綾音が言葉を発するために、息を吸う音が聞こえた。


「怖くないわよ。」


 綾音が言葉を発する前に、すかさず私が先手を打つ。


 絡めていた腕から、綾音の身体が一瞬強張ったのが伝わる。


「怖くない。綾音と離れてる方が不安で怖いって気づいたから。」


「それは…比較して妥協してるだけで、怖いって感情自体は無くなってないんじゃないかな」


 それは違う。


「何事も比較した上での取捨選択で成り立ってるのよ。『取』を妥協したと思ってしまう程捨てがたい『捨』なら、こうして『取』に幸せを感じたりしない。」


「私が綾音を選んで幸せを感じてる今、私の中に恐怖心なんて一切ないのよ。」


 それにそもそも綾音を怖いとは思った事がないし、思わない。


 本当に、あの時目に映ったのは綾音じゃなかったんだ。だから怖いと思った。綾音の姿なら、何も怖くない。


「…なんか咲ちゃんと話してるみたいだよ」


 嫌そうに眉間に皺を寄せた綾音に私は笑う。


 きっとこの様子だと、咲先生は綾音にレズビアンの事を教える際、かなり堅苦しい説教をしたんだろう。


「咲先生と話をして、ここの住所を教えて貰ったからかしら。」


「そっかぁ。色々納得〜」


 そしてまたクスクスと笑う綾音を愛おしく感じて、更に自分の身体を押し付け、綾音の肩に私の頭も乗っける。


「…もう少し離れない?」


 すると、少しだけ言い辛そうに綾音がいう。


「…いや。」


 勿論、受け入れる事はできない。


「そんなに寂しかったの?」


 けど、その言葉に私の幸せな気分が一気に沈む。


 だって、それはつまり私と離れてた期間、綾音の方は寂しく無かったって言っているようなものだ。


 あぁ、ダメだ。


「あー!ごめん!泣かないで麗華?」


 視界が歪む感覚は、涙のせいだ。


 あんなに泣いたのに、まだまだ枯れる気配がない。


 綾音の言動で私の感情が激しく揺れる。


「…ごめんなさい…私が悪いのに…私ばっかり…」


 こんな泣いてばかりで、まだろくに謝罪もできてないのに…。


「んーん。私が悪いから。」


 私を抱きしめ返してくれた綾音は、そう言う。


 咲先生が言ってた通りだ。綾音は自分を悪にする。どう考えたって、私が悪いのに。


「カミングアウトするにしてもタイミング間違えた。それに、麗華を怖がらせちゃったから…私も麗華に嫌われちゃったと思ったら途端に怖くなって…それで連絡取れなかった。本当にごめん。」


 なのに、こうして自身の粗探しをして謝罪するのだ。


 そうするのが染み付いているんだとしても、そうさせてしまう私が嫌だった。


「…あやね、私に嫌われるのが怖かったの?」


 ただ、綾音の言葉に嘘はない。


 つまり、綾音は私に嫌われる事を本当に恐れていたわけだ。


 綾音の言葉は、やっぱり私の心を満たす。


「当たり前でしょ。麗華は私の大親友なんだし。」


「…ほんとに?」


「うん。もう麗華に嘘はつかないよ。」


 綾音の優しい笑顔に、また涙が溢れる。


「ぅぅ…嬉しいっ」


「うわっ…もー…麗華ぁ」


 綾音の正面から思いっきり抱きついて、押し倒すようにして上に覆い被さった。


 顎と鎖骨の間に空いたスペースに、自分の顔を嵌めて、その柔らかい全身を抱きしめる。


「綾音のこと嫌いになる訳がない。綾音と連絡できなかった1週間、生きた心地がしなかった。咲先生が私を救ってくれなかったら、どうなってたかわかない。」


 上に乗る私に呆れたような声を出しつつ、払いのける事はしない。それどころから、私をあやすように背中をさすってくれる。


「…おーぅ、そりゃまた大袈裟な」


「…ん。大袈裟じゃない。会いたくて仕方なかったの」


「…そっか」


 それから少し静かな間があく。


 頭と背中をゆっくり撫でられて、全身で綾音を感じる。


 胸と胸が合わさってるから、綾音の心音まで直に伝わる。でも、同じように自分の心音も聞こえるから、この早い心音がどちらの心音なのかは分からない。


 どうしてか、綾音のだったらいいな、なんて思う。


「…私の性的指向の事だけどさ。」


 ゆったりとした間を、ただ抱き合って過ごしていると、綾音がポツリと話し出した。


「良かったら聞かなかった事にして欲しいな。」


「私はノンケは恋愛対象に入らないからさ。麗華は絶対安全。保証する。」


「だからさ、また親友になってほしい。」


 別にもうレズビアンだからって、何も怖くない。

 

 咲先生に説教されたのもそうだし、綾音を失いかけたこともそう。この出来事が、私を変えた。いや、本当に大切なものに気づかせてくれた。


 だからそんなの言われなくても、というか私が土下座してお願いする事だ。


「親友に戻るのは私の方からお願いしたいわよ…でも、ノンケって何なの?」


 それよりも気になるのは、それだ。


「え?」


「そういえば前も同じこと言ってたわよね?」


「あー、それ知らんかったかぁ」


 私の質問を聞いた綾音は、真横にある私の顔を向く。


 そのあまりの近さに、私の心臓が大きく跳ねる。綾音の吐息がそのまま私の顔に届く。少し動けば、唇同士がくっついてしまう距離だ。


 前から思っていたけど、やっぱり綾音は可愛すぎる。というか綺麗すぎる。


 髪をまとめて、顎のラインが見えている今、すごく凛々しく、カッコよくも見える。


 長いまつ毛に縁取られた目と、目が合う。


 そこでようやく、綾音の声が聞こえた。


「ノンケは要するに異性愛者、ストレートの事だね。」


「つまり麗華はノンケね。それで、私はノンケは恋愛的に愛せない。だから麗華は安全。…そう言いたかった。」


 至近距離で話し終えた綾音は、目を細めて微笑んだ。


 そうか、綾音は異性愛者の私をそういう目で見ていないんだ。


 それなら、今まで通り過ごせる。いつでも綾音に触れてもらえる。嬉しい。


 嬉しい…はずなのに…


 綾音が『愛せない』部分が私にある事が、どうしてか許せなかった。


 でも、今は受け入れるしかない。それも含めて、綾音のレズビアンという趣向を受け入れるんだ。


「この距離でも、私は麗華を襲ったりしない。勿論、性的興奮も覚えないよ。」


「だから、信じて欲しい。友達として触れるる事は許して欲しい。」


 そしてそう言った綾音は、私のおでこに、綾音のおでこをくっつけてきた。


 目を瞑った綾音の顔が、さっきよりも近くにある。


 私の心臓が意味わからないくらいに高鳴り出す。


 そして、私の視線は何故か綾音の潤った唇に吸い寄せられる。


 この唇を奪う事ができるのは綾音に『恋愛的に愛された人』だけだ。


 私には触れる事が許されない場所…


 いや、おかしい。別にそういった物は要らないはずだ。


 だって私はレズビアンじゃない。綾音と恋人になんて…


 …恋人?


 そこまで考えて、綾音と恋人になるなんて想像した事なかったと思い至る。


 いやいや、考える必要なんてないはず。


 確かに綾音の全部が欲しいと思う気持ちはある。でもそれだけだ。


 …うん。とりあえず、これはお持ち帰り案件だ。今考える事じゃない。


 今は黙ってしまった私を不思議そうに見つめる綾音と言葉を交わさなければいけない。


「…そ、そっか。そうなんだね。」


 平然とした声音で私は応える。応えたつもり。


「うん。だから、安心して。私の事は普通に同性の友達だと思って欲しい。」


「…うん、分かった。」


 言葉を発する前に、私の喉が一度閉まった理由はわからない。


 けど、とにかく今は元の関係に戻れたことに喜びたかった。


「…じゃあ、仲直り?」


「うん。仲直り。」


「…もう友達?」


「うん。親友。」


 だから、そんな風に返してくれた綾音に喜びを伝えたくて、きついくらいに抱きしめる力を強くする。


「うぐっ!?…ちょ、ちょいちょい。麗華さーん…強くないっすか…」


「あやね…あやね…あやね…」


 また頭を動かして綾音の首に顔を擦り付ける。そうすると、綾音は私の頭を撫でてくれるのだ。


「ごめんほんと。私の性的指向を友人関係にまで持ち込んで。もうしないから。」


「…うん。いいよ。」


 ポンポンと、綾音が私の背中を叩いた。


 これで、本当に仲直りだ。私の方はなんだかワガママを言っただけな気がするけど。


 でも、もう友達だ。親友だ。


 それなら、思ってる事は全部言う。言ってやる。


「あやね。お願いだからもうメッセージ無視しないで。」


「うん。」


「またいっぱい連絡して?電話も。」


「ふふ、うん。」


「…あのベンチ、凄く不便だった。」


「あ〜。麗華様専用背もたれがないからねぇ。」


「ちゃんとして。」


「あいあい。」


「あと…」


「んー、何でも言いなさい」


「…今日、泊まりたい」


 私がお願いをする度、ケラケラと笑って、前みたいに軽い喋り口調に戻ってくれた綾音。日常が戻ってきたのを実感する。


 それなのに、私の口はやっぱり欲張りだ。


「…麗華」


 私の言葉を聞いた綾音は、私の背をトントンしていた手を止めた。


「分かってるよ。…でも、今日は離れたくない」


 それに合わせて、私は足も絡ませて綾音をホールドする。逃すわけにはいかなかった。


「いやぁ…でも、さすがになぁ…」


「…私を部屋にあげたんだから、同じでしょ。それに、綾音がなんて言っても私帰らない。」


「麗華…」


 さすがに、欲張りすぎただろうか。


 綾音が本気で困ってしまっているのが伝わる。でも、仲直りした今、綾音を求める気持ちが収まらない。1秒だって綾音の体温から離れたくなかった。


 私は、綾音が折れるまで綾音に抱きついてじっと耐える。


 けど、数秒経っても綾音に動きがない。


 流石に今回は綾音の方も簡単には折れてはくれない。


 ならばと、私は顔を上げて綾音の顔を上から見下ろす。


 私の長い黒髪がカーテンのように綾音の顔の両端に垂れる。


 視界に映るのは綾音だけ。なんて素敵な眺めなんだろうか。でも同時に、心臓がうるさい。


「…あやね。私、迷惑?」


 それでも、私は必死に声を出した。


「はぁぁ…もう…わかったわかった。私の負けです。」


 そうすれば、綾音は折れてくれる。


 嬉しい。そして良かった。


 こんな無茶なお願いでも、声に出せば綾音は聞いてくれる。前からそうだった。それが今でも変わらない。本当によかった。


「こーんの。なんだそのニヤけ顔はー!ずるいぞ本当!」


「ふふ、うんっ。ずるいわね私。」


 下から伸びてくる手に、私の方から頰を差し出す。


 すべすべな手のひらが、私の頬をムニムニと遊んでくれる。


「いーかポチ。布団は別。これだけは絶対守ってもらうかんなー」


 そんな手が、犬を撫でるような手つきに変わると、綾音はそう言ってくる。


「さすがの綾音さんも、これだけは折れませんよ」


 不満な表情を見せるけど、さすがにここまでだ。


 残念ながら本当にこれだけは折れてくれない雰囲気を感じた。


 だから密かに心の中で誓う。


 今日は寝ないし寝かせないと。

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