第7話


「頰、腫れちゃったな」

 

「…いいんです。別に。」


 ヒリヒリとする頰、鉄の味がする口内はきっと切れている。


 先生が顔を出した瞬間、何もかもが終わりだと思った。


 15分前についた教室内には、当然のように誰も居なかった。


 それでもわずかな希望を抱いて、綾音を待った。


 でも、私の前に現れたのはいつもの様に20分程遅刻してきた咲先生だった。


 もう、本格的に綾音との縁が切れてしまったのだと悟った。


 そして私は先生の目も気にせずに大声をあげて泣いてしまったのだ。


 先生は私に必死に声をかけたけど、私の涙は止まらなかった。声も抑えずに子供みたいに泣いた。


 それをどうにかするために、先生は私の頰を全力で叩いた。恐らく正気じゃなかった私を、人の言葉を話せるくらいには正常に戻してくれた先生には感謝しかない。


 この痛みも、むしろ今は気持ちがいい。

 

「何があった?」


「…」


 咲先生の聞いたことがないくらいに優しい声。


 私は応えられなかった。だって、相談すると言うことは、必然的に綾音の性的趣向を話す事になる。


 咲先生は綾音と親密な関係だ。そんな人に、話せるわけがない。今の壊れた私にもそのくらいの分別はつく。


「あのアホになんかされたか?…まさかとは思うが…襲われた?」


「っ…」


 しかし、黙った私に対して咲先生が立てた仮説に息を呑んでしまう。


「あんのアホ!…とりあえず警察には通報する。んで高嶺の親御さんに明乃さんと一緒に謝りに…ったく、ずっと言い聞かせてきたのに…」


 そんな私の反応を、肯定ととったのだろう。


 咲先生の口から、恐ろしい単語がいくつも出てきて震え上がる。


「ち、ちがいます!襲われてなんてないです!!!」


 私の頭は一気に正常に戻る。


 綾音にこれ以上迷惑をかけたくなかった。


「本当か?あいつのこと庇ってもしかたないんだぞ。自分の事を優先しないと」


「本当ですから!綾音は本当に何もしてませんから!」


「…なら、どうしてさっきあんな顔した。」


 眉間に皺がよった咲先生は、私を睨む様に見つめる。


 もう、話すしかない。

 

 けど、口振からして咲先生は綾音の性的趣向を知っているのではないか。

 

「…咲先生は、綾音の性的趣向を知ってるんですか」


「あぁ、知ってる。」


 即答だった。


 それなら、私が口を閉じる理由はなかった。


「…先週綾音に…自分がレズビアンであると告白されたんです。」


 私はその時に綾音にとってしまった酷すぎる態度を、包み隠さずに全て話した。


 綾音から逃げた事。


 襲われるんじゃないかと、怯えた事。


 懺悔だった。私は私の罪を誰かに話したかったんだと思う。


 私の涙ながらの懺悔を、咲先生は終始無言で聞いてくれた。


「しかたないだろ。お前は悪くない。」


 そして話を終えた私に、咲先生はまた優しい声でそう言った。


「同性愛者なんてもんはな、所詮は異端者だ。異性で愛し合う普通の人間の枠から外れたナニカ。」


 しかし、次に口にした声はまるで絶対零度のような冷たさを感じた。


「だからな、普通の枠組みにいるお前が、普通じゃない所にいるあいつを拒絶すんのは自然なんだよ。」


 そして何か、後悔か、悲しみか、怒りか。


 咲先生の声音から、そんな感情達を受け取った。


 私には咲先生の言葉が理解できない。


 だって、私は綾音を拒絶なんてしたくないから。


 けど、人間としての私には咲先生の言葉が理解できた。


 だって、私は綾音を拒絶したんだから。


「この世の善悪と一緒だ。」


 俯く私に、咲先生は続ける。


「人殺しってなんで悪なんだと思う?」


「人殺しは良くないと、"大多数"の人間が思ってるからだ。」


「反対に、殺人を好んだ人間は犯罪者となる。"少数"の人間だからだ。」


「要は多数決なんだよ。」


「多数決で物事を決めるのは人間の心理。一種の防衛本能だ。」


「ほとんどの人間に"自分"はない。弱いから、1人では生きていけないから、大多数という群れを作る。」


「そこに溶け込めない、いわゆる多数決による少数派は排除される。輪を乱す奴らは群れを脅かすからだ。」


「そう言う風に出来てるんだよ。人間も、世の中も。」


 私は咲先生の言葉を、必死に噛み砕いた。


 異性愛者が大多数。同性愛者が少数。


 私が大多数派。綾音が少数派。


 大多数派は善。少数派は悪。


 私は善。綾音は悪。


「…綾音は悪じゃない」


 私はそれを理解して、咲先生を睨む。


「へぇ。どうしてそう思う。」


 そんな私に、咲先生は顔色を変えずに挑発する様に言う。


「あんなに酷い事をしたのに、私を責める事もしなかった。綾音は誰よりも優しい人。…悪なのは私よ…」


 そうだ。あんなに優しい人が悪なわけがない。


 多数決をしたら、綾音は確かに少数派になるのかもしれない。


 でも、それがイコールで悪とは限らない。


 少なくとも、私と綾音の関係で言えば私が悪で綾音が善だ。


「いいか。あいつは優しいわけじゃない。自分が悪だとちゃんと理解してるだけだ。」


 真剣な声音で咲先生は言う。


「理解してるから、多数派の善であるお前を責めない。悪いのは少数派の悪である自分だと、ちゃんと分かってるから。」


「悪くない!綾音は悪くない!!」


 私はただ同じことを叫ぶだけだ。それしかできない。


 先生の言っていることが理解できるのが嫌だ。でも、認めたくなかった。


「そして、お前はどうしようもなく多数派の方にいる。」


 咲先生はいつもの様に長い生足を机に乗せて、私を指差す。


「同性愛者はその趣向を否定されたり、恐れられたりしたらそこまでなんだよ。」


 そして、続いた言葉に私の心臓が痛いほど締め付けられる。


「でもお前には選択肢がある。選択する側だ。」


「あいつを拒絶したのも、もう一度手を取ろうとするのも、あいつを庇おうとするのも、お前にだけ与えられた権利だ。」


「『綾音は同性愛者だけど、それは悪い事じゃないよ』」


「『麗華は異性愛者だけど、それは悪い事じゃないよ』」


「これがお前とあいつの決定的な違いだ。」


 何も言えなかった。


 だって、何を言えばいい。


 綾音を庇うことすら私が普通の場所に立っているから出来る事と言うのなら、綾音を更に追い込む。なら、私に出来ることなんてないじゃないか。


 どうしようもなく綾音と自分の違いを感じ取ってしまって、涙が溢れる。


「だからお前の取った行動は、悪くない。悪いのは普通じゃないあいつなんだ。分かったろ。」


 先生は終始私を肯定した。私の行動は何も間違ってなかったと。


「どうして…どうしてそんなに綾音を悪く言うんですか」


 でも同時に、綾音の事を頑なに悪者にしたがる。それがどうしても気になった。


「自分がどう言う存在なのかを理解しなきゃ生きていけないからだ。」


 私の質問に、一度ため息を吐いてからゆっくりと口を開いた。


「…あいつはな、いじめられてたんだよ。中学の時。」


「…え?」


 先生の言葉に、私は目を見開いて固まった。

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