第2話

 綾音と出会ってから1ヶ月が経った。


 その短い期間で、私の中の綾音という存在は親友という位置に落ち着いた。まぁ、綾音の他に友達いないんだけど。


 でも、親友だ。他の人と比べると綾音を相手にする私は明らかに別人だったから。


「麗華ちゃんよぉ。」


「んー」


「いつも言ってるけど、あたしゃ背もたれじゃないんだが!?」


 私の気の抜けた私の声に、全力で応える綾音。彼女は今、文字通り私の背もたれになっている。


「いいじゃない。どうせ暇なんでしょ」


「暇ですよ!?だからっておかしいでしょこれ!?」


「ここのベンチ、背もたれがなくて不便なのよね。」


 大学の裏側に謎に一つだけあるベンチは、私と綾音だけの秘密の場所だ。


 2人で会うようになってからはほぼ毎日このベンチに座って昼飯を食べたり、お話をしたり、たまには無言で互いに寄り添ってそれに心地よさを感じたり。


 ただ、このベンチには背もたれがない。だから私はそれを理由に、緊張しながらも綾音の肩に寄りかかった。


 それが私達のこの関係の始まりだった。


 そして1ヶ月。気付けば私から綾音への遠慮は一切なくなり、今や私は横向きになって、彼女の全身を背もたれとしてリラックスしながら読書をしている。


 彼女の身体は大変女性的で、服越しでも分かるほどに全身が柔らかい。それにいい匂いまでするおまけつき。これは完全に人をダメにする身体だ。


「んもぅ!だったら食堂とかでもいいじゃんかぁ…つーか外普通に寒いしさぁー」


「いやよ。あんな人が密集した所。」


 あそこはうるさい。


 綾音の声以外が耳に入るのは、嫌だ。


 それに、こうして綾音に寄り添うのは、人前ではさすがに恥ずかしい。この時間を他人の目に邪魔されたくなかった。


「麗華の人嫌いはほーんと困っちゃうなぁ」


 ツンツンと頰を突かれる。


「そんな人嫌いの麗華ちゃんに好かれてる綾音ちゃんはさぞ背もたれとしての性能が高いんでしょうね。」


「えぇ〜やっぱりそうかなぁ〜?私、あなたの役に立ててうれし〜わけねぇだろ重いわどけ。」


 こんなふざけたやりとりも、自然とできるようになった。


「そんなこと言って、なんだかんだ背もたれになり続けるあなたが好きよ。」


「どいたらどいたらでクソほど拗ねるのはどこのどいつだぁい?お前だよ!」


 以前、我慢ならなくなった綾音がベンチを立った時、確かにちょっとだけ拗ねたことがある。でもちょっとだ。本当に。…いや、もうちょっと拗ねたかも。


 だって、こうして触れ合う時間は私には必要なものだし。無くなったら拗ねるわよ。


「ふふ。」


 そして、かなり昔に流行った女性芸人のアレンジが思いの外私のツボにハマってしまって、笑いが漏れた。


「あ、笑ったな。私の勝ちだ。どけ。」


「んー、ふふ。」


 それを見た綾音は、謎の勝利宣言をしながら私の背中をツンツンと突く。


 今度は彼女のその優しい手つきに笑って、更に体重を預ける。


「はぁ‥はいはい。わかりましたよー。」


 そうすると、彼女は諦めて私の髪を優しく撫でてくれる。


 勝負有り。これで麗華ちゃんの勝ちだ。



 金曜最後の一コマは、東雲ゼミの授業だ。


 普段であれば、私にとって金曜日とこの時間は、1週間で一番待ち遠しくて何よりも幸せな時間だ。


 教室で綾音と2人きり。更に授業が終われば一緒に帰路に着く。幸せでいっぱいになる日だ。


 ‥でも、今日は違った。


「よっすー」


 このだるそうな声で、教室に入ってきた女性…東雲しののめさき。彼女が一応私達の先生にあたる。


 相変わらず大胆に生足を見せるミニスカと白衣の衣装だ。そして、そんなスタイルすら似合ってしまう顔面は造形美である。


「…遅いですよ咲先生」


 私はそんな先生をキッと睨む。


 授業開始時間から20分ほど過ぎていた。いつもの事だ。だからそれに対しては別に怒っていない。…いや、それもどうなんだって話なんだけど。咲先生が遅れればその分綾音と2人きりになれるから、特に気にしていなかった。


 だけど、今日はその【いつも通り】が気に食わなかった。


「おうすまん。ほれ、カードやっとけ」


「…はい」


 出席を取るための機会に、私の学生証を押し付ける。東雲ゼミで行う唯一の作業だ。


「ん?あのアホは?」


 そんな風にして、今日の授業も無事1分で終了だ。


 私はカバンを持って立ちあがろうとする。そんな時に、咲先生からその言葉が発されて、私の眉間に深く皺ができる。


「…友達と遊びに行きました」


 なんとも低い声が出た。最早不機嫌が隠せていない。


「ほーん。だからわかりやすく拗ねてんのかお前。」


「は?拗ねてませんが」


 指摘されて、思わず否定する。けど。


 拗ねてる。拗ねてるよ。だってムカつくもん。


「おうおう。お前、随分あのアホに悪影響受けたな。せんせーに向けていい目じゃねぇぞそれ。」


 咲先生の言葉と、それによって浮かび上がる綾音の顔が、余計に私の眉間の皺を深くする。


 確かに最近、私の咲先生への扱いは雑だ。だってこの人敬う所とかないし。あ、また雑になった。…ま、いいか。


「うるさいです。というか、もう帰っていいですよね?」


「おーこわ。いいよ帰れ帰れ」


「…失礼します」


 これが授業中の生徒と先生の会話である。でも咲先生の授業には慣れたから違和感はない。


「あ、そういえばさ。お前らって付き合ってんの?」


「…は?」


 今度こそ帰ろうとした時、そんな言葉をかけられて固まる。


「お前ら四六時中ベタベタくっついてるからそう思ったんだが」


 先生を見れば、特にからかっているようには見えない。


「女同士の私達を見てその発想に至る理由がわかりませんが?普通に綾音は私にとって唯一の親友です。」


 だから、私の方も普通に答える。


 まず、なんでそういう発想になるのかわからない。私達は同性だ。


 私にとって綾音は唯一の友であるからして、そんな子にべったりくっつくのは不思議じゃないはずだ。


 だって、綾音といると楽しくて幸せな気持ちになるんだから。


「そ。ま、そーだよな。」


 私の答えを聞いた咲先生は、その生足をクロスするように机の上に放り上げる。何度見ても行儀悪いそれは、やっぱり慣れた光景だ。


「なんなんですか。」


「いーや。なんでもねぇから早く出てけ」



 それは先週の帰り道。


 東雲ゼミを終えた私達はいつものように寄り道をして、同じ電車に揺られて、同じ最寄駅で降りて。


「あ、そうだ。ごめん麗華!来週の金曜日、ゼミごと休むから一緒に帰れないわ」


 そんな幸せな日常の、最後の最後で私の心は綾音のそんな言葉によって壊された。


「…何?なんで?」


 私は目を見開いて、腕と腕をくっつけながら歩いている隣の彼女を見る。


「んやそれがさ、土日も含めた2泊3日の旅行に誘われちゃってさ〜。」


「りょ…こう…」


「うん。だからごめんね。」


 申し訳なさそうに謝る彼女に、私の思考は全く正常に働いてはくれない。


 ただただ、彼女を黙って見つめる事しかできない。


「ま、アレの授業なんて出席取ったら帰るだけだし私が居ても居なくても変わらんと思うけどね。」


 綾音の横顔は、ニコニコといつもと変わらない笑みを浮かべている。


 何を笑っているの。私はこんなに苦しんでいるのに。


 だってそうだ。金曜日は私にとって特別な日だ。


 咲先生が来るまで教室で2人きりでお話をして。咲先生が来たら綾音と咲先生の楽しい喧嘩を見て、出席カードをスキャンしたら授業は終わり。そのあとは2人で近場をぶらぶらして、日が落ちたら一緒に帰って、同じ駅で降りて、土日も遊ぶ約束をしているから『また明日ね』と笑顔で手を振るんだ。


 そんな日を、そんななんでもない日みたいに言わないでほしい。他の誰に否定されたって構わないから、あなただけは同じ気持ちであってほしかった。


「…あの」


「んー?」


 ようやく絞り出した声は、きっと震えていたはずだ。


 私の声に応える彼女は、笑顔を崩さないまま可愛らしく首を横に倒して見つめてくる。


 私の口は止まらなかった。


「で、電話は…迷惑?」


「旅行中?」


 コクリと頷いて、顔を逸らす。


 彼女を見ていられなかった。彼女からの返答が怖かった。


「んー、迷惑じゃないけど…ごめん。多分疲れて早く寝るし出れないと思う」


 しかし、彼女の優しい回答に安堵した。


 この返答で、私の綾音との日常はまるまる無くなることになるのが決定した。


 けれど迷惑じゃないと言われたことに、胸が締め付けられる程には喜んだ。


 だから、綾音に会えなくて残念だという気持ちは半減した。


「んもぉ!そんな顔しないの。別に死ぬわけじゃあるまいし」


 だというのに、綾音にそんな風に言われるくらいには私の顔は酷い顔をしていたらしい。半減してもそう言われるなんて、本当に落ち込んだ時、私はどれだけ酷い顔になるんだろうか。


 そんな事を考えながらも私は、そんな顔を見られたくなくて彼女に抱きついた。


「おーよしよし。おっきなわんちゃんだなぁ〜。」


 私が抱きつけば、彼女は必ず受け止めてくれる。そして頭や背中を優しく撫でてくれるのだ。それが心地よくて、天にも昇る気分にしてくれる。


「お土産いっぱい買ってくるからさ。楽しみにしといてよ!」


 そんな風に私の心は癒されてたのに、彼女の口からは旅行のことばかり。


 お土産なんかいらない。綾音に早く帰ってきて欲しい。


 私は自分の口がかってにうごかないように、彼女の鎖骨辺りに顔を押し付ける。


「ふふ。くすぐったいよもう。」


 彼女が笑う。旅行の話じゃない。私の行動に笑った。


 今はそれが嬉しかった。



 東雲ゼミを終えて帰る道は、色がなかった。


 だって今日は私の隣に光がないから。私の影で覆われて何も見えない。ただひたすらに暗かった。


 咲先生には不機嫌だと言われるくらいには、今日の私は酷かった。


 いつ帰ったのかも分からない。気づいたら私はベッドの上でスマホを眺めていた。


 開くのは彼女とのトーク画面。


 チャット最後は、『音声通話』という文字で終わっている。不快だ。この文字は綾音の言葉じゃない。


 私はその文字を長押しして、消去する。


 すると最後にきた文は、『明日楽しんでくるぜ!』という彼女のチャットになる。


 そうだった。私はこのチャットが来た瞬間、何も考えずに通話ボタンをタップしたんだった。


 今度は悲しい気持ちがドッと押し寄せてくる。


 目を逸らすように、画面上の時刻を見ればもう21時を回っている。

 

 それなのに、今日は一度も彼女からメッセージが来ていない。


 今頃、顔も見たことない友達と楽しくやっているのだろう。


 綾音はあんな性格だから友達が多い。大学内で一緒にいると、高確率で綾音の知り合いだという人達から声をかけられている。


 それが気に食わなかった。私が綾音と会う場所をあのベンチを選んだ理由でもある。あそこならよっぽど人は寄りつかない。安心して綾音を独占できた。


 けど、こうなってはもうどうしようもない。綾音を自分の隣に置くことはできない。


 こう思うと、この1ヶ月とちょっとで私は大きく変わったなと思う。


 人に対して興味なんてなかったし、大学4年間は1人で過ごすものだと思っていた。


 それがどうだ。眩しいくらいのお日様に出会って、気づけば私はその日を強く求めるようになっていた。そしてもう、その光がなければ歩くこともできない。


 初めての親友だからだと思う。それに浮かれているんだ。私は自分でもわかるほどに彼女に執着していた。


 ハッキリ言えば、他の子と遊んで欲しくない。


 でも、そんなの口が裂けても言えない。この1週間、必死に唇に力を込めて押さえ込んだ。


 だが、もういいだろう。私は今、独りだ。


「…あやね…あいたいよ」


 拘束を解いた唇は簡単に口にする。


 私はそのままスマホを胸辺りでぎゅっと握りしめて、そのまま意識を落とした。



「ん…あや、ね…」


 窓から差し込む陽の光で目が覚めた。


 寝ぼけて口にする言葉が、彼女の名前な事に私はなんの疑問も持たない。


 何度か目を擦ってから、側に転がっていたスマホを取る。特に予定があるわけじゃない土曜日だが、習慣になっている時間確認をしたかった。


「寝落ちしちゃったんだっけ。」


 裏面になっていたスマホを表にする。左上を見ると、6:14。うん。平日に起きる時間だ。完璧な体内時計だなと頷く。


 そして、焦点を画面の大部分に移す。


 見れば、チャットアプリのトーク画面のままだった。昨夜綾音とのやりとりを見返していたら寝落ちしたんだった。


 自分の綾音に対する想いに、苦笑しつつ、遡っていたトークを最新の位置に戻す。


「…え」


 そして、私は息を呑んだ。



『起きてるかねワンコロ』


『みんな寝ちゃって暇だから通話しようぜベイベー』


『寝ちゃったかい?』


『あ、すぐ既読になるじゃんw』


『えー何?そんなに私が恋しかったー?』


『麗華ちゃんは寂しくて私とのトーク画面を開いたまま寝落ちしちゃう女の子っと。』


『写真』…私と綾音のトーク画面スクショ。


『私も眠くなってきたから寝よう』


『おやすみ麗華〜』


『あ、麗華の方が絶対早起きだし先に言っとくか。』」


『おはよう麗華 いい1日を』



 私の行動がバレてて恥ずかしいとか、寝落ちしたせいで通話できなかった後悔とか、色々な感情が一気に襲ってくるけど。


「っ…綾音。んふふ。綾音。」


 私は枕をこれでもかと力強く抱きしめて、感情を表現する。


 あぁ、嬉しい。嬉しい嬉しい。


 友達と旅行中なのに私の事を思ってくれていた。私の事を忘れていなかった。


 いつもと同じように、遠慮無しの好き勝手なチャットを送ってくれた。


 おやすみって言ってくれた。おはようって言っておいてくれた。


 それだけで、私の沈んだ心は救われた。


『おはよう』


 私はなんで返そうか迷って、とりあえず朝の挨拶だけ送る。


「っ…」


 すると、私の送ったメーセージはすぐに既読になる。それに息を呑んで、スマホに文字を入力しようとした手が止まる。


 起きたのだろうか。あのねぼすけの綾音が。いや、旅行だから早起きした可能性はある。だって綾音は楽しい事に対しては全力だし。


 どくどくと早まる自分の心臓の音を聞きながら、スマホを眺める。


 しかし、数分経っても返事は返ってこない。


 まさかと、思って文字を打つ。


『あ』


 すると、そのメッセージは先ほどと同じくすぐに既読になる。


 その事実に、私の口角はギュッと上がる。


『い』


『う』


『え』


『お』


 一文字ずつ送った全部が、すぐに既読になったのを確認する。


 その事実に、昨日までの暗い気持ちが嘘のように晴れる。


『お互い様ね』


『写真』…私達のトーク画面スクショ


『旅行楽しんで』


『お土産は私の一番好きな物でよろしく』


『ヒントはあなたのよく知る物』


『外したら絶交』


 私は世界一簡単な問題を置いて、スマホを閉じる。


 次に綾音に会える月曜日が、楽しみで仕方ない。



『え、まってはっず!私まで寝落てたわ!』

 

『てかなんだその問題!もっとヒントくれ!』


『たのむから既読無視すんな!?ねぇ!?』

 

『いいの!?絶交だよ!?君の大好きな背もたれがなくなるんだよ!?』


『って、誰が背もたれじゃいっ!』


『うわーん麗華ちゃんー返事ちょーだいよー』


『兎は寂しいと死んじゃうんだゾウ。パオーン。』


『明日帰るからな!それまでにマジで返事しろよ!?』



 

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