第15話 怒ってる?
しかし悪魔はふんっと鼻を鳴らした。
「おやおや。見た目ほど賢くないのですね。魔術の一つも使えないあなたが、私を相手に何ができるというのです? 大人しくあきらめたほうが身のためですよ。ええ。親切で言っているんです」
歌うように舐め腐って答える悪魔に、ルミナは低い声で言った。
「お前に勝手はさせません。とまれ、ダイモン」
「な……んと?」
ぴたり、と悪魔が動きを止めた。
――ダイモン。それは、すべての悪魔に共通する、古の名前だった。
もう死んでいる言葉ではあったが、その名前は、ルミナがすみずみまでそらんじている聖典にだけは、残っていた。
ルミナは驚く悪魔に、つかつかと近づいた。
「さあ、その鎖を解きなさい。さもなくば――」
悪魔はルミナを見て、歯をむき出しにしてうなった。
「な、何様じゃ、小娘! 大悪魔であるわしににかかれば、お前などチリ同然じゃ……!」
悪魔はルミナを攻撃しようと、ひずめを振り上げた。まがまがしい赤い閃光が走り、ミシェルは思わずかばって間に入ろうとした。
「姉さま、危ない……ッ!」
しかし、ルミナは悪魔がふりあげたそのひづめを、素手でつかんでいた。
「なっ……! ひ、ひいい!」
突然痛い目に合ったかのように、悪魔はルミナの手を振り払って飛びすさった。
「お、お前……ッ、修道女であったかッ!!」
その目が恐怖に見開かれている。さきほどミシェルに水をかけられた時とは桁違いのおびえっぷりだった。
ルミナはうやうやしく、ドレスの襟元からロザリオを取り出して十字を切った。
「ひっ……! そ、それは神の……! や、やめろおお! それを近づけるなぁ!」
悪魔はひずめで目を覆った。ルミナはロザリオを首にかけたまま、悪魔に近づいた。
「それならば、ミシェルをお放しなさい」
しかし悪魔は抵抗した。
「い、嫌じゃ嫌じゃ! 契約は契約じゃ……!」
悪魔はミシェルの鎖をしっかり握ったまま、今度はルミナを泣き落としにかかった。
「す、すまなんだ、すまなんだお嬢さん。お前さんが本物の信仰心をもつ、神の使徒だとはおもわなんだ……じゃが、こやつはお嬢さんとは違う。自分可愛さに、お前さんをひどい目に合わせた張本人じゃぞ……」
黒山羊は可愛そうな老人よろしく、よぼよぼと地面に手をついてルミナをかき口説いた。
しかしルミナは、すこし眉を顰めたものの、意見を変えはしなかった。
「……関係ありません。私の弟です。返しなさい」
ルミナはミシェルと悪魔をつなぐ鎖を握りしめた。すると鎖は真っ赤に燃えたあと、灰のように散ってしまった。
「ああ! う、うぅ……」
悪魔は迷ったようにミシェルを見たが、勝ち目はないと思ったのか――鎖を手放して、もうもうと発生しだした煙の中に姿を消さんとした。
しかしルミナは、煙の中に手を突っ込み、ぐいっとその角をつかんで煙から引っ張り出した。
「ひぃ、あ、あ、まだ何か?」
じゅう、と角が焼けるさまをおびえて見つめながら、悪魔は手もみした。
「逃げる前に、ミシェルとの契約書をお出しなさい。そしたら燃やし尽くさないでいてあげましょう」
ルミナの手が握っている箇所から、じゅうじゅう、ぱちぱちと角が焼けていく。立派な象牙色の角は、いまやみじめなすすけた灰色に変わりつつあった。
「くぅ、くぅうう……このっ、わしの、わしの角があ……うぅ」
悪魔は存分に悔しがったあと、契約書を取り出した。ルミナはそれを確認したあと、角から手を離し、べりっと紙を破って燃やした。悪魔は未練がましくそれを見つめた。
「せっかくの、久々の……うまそうな魂じゃったのに……ッこんな、こんな小娘に、大年寄りのわしがしてやられるとは……!」
「年月など関係ありません。人の弱みに付け込むような生き方をしているから、足元をすくわれるのですよ」
「うう……くそっ、くそうう……それが悪魔じゃ……ッ」
ルミナの厳しい言葉に、悪魔は悪態をつきながら、煙と共に姿を消した。
――荒野に、ミシェルとルミナだけが残った。
「ね、姉さま……」
ミシェルは地面に手をついたまま、呆然とルミナを見上げた。
「た、助けてくれたの? 僕を……?」
ルミナはミシェルの前にかがんだ。ミシェルは、泣きそうな目をしていた。
「お、怒っていない? ぼ、僕を恨んでいない? 嫌いに……なっていない?」
「何を言うの」
「だって、僕は……僕の勝手な欲望で、姉さまを不自由な目に合わせたんだ。姉さまに、僕だけのものになってほしくて……悪魔にそれを見抜かれて、利用された」
ミシェルは肩を震わせ、うつむいた。ぽたぽた、と雫で地面が濡れた。
ルミナはエプロンからハンカチを取り出して、ミシェルの頬をぬぐってやった。
「――知っていたわ。悪魔に言われる前から」
ミシェルの体がこわばった。
「え……い、いつから」
「ついこの前。そうじゃないかって……うすうす、ね。でも、だからってミシェルを怒ったりしないわ。嫌いにもならない。ただ――悪魔と契約する前に、私にちゃんと言ってくれればよかったのに」
ハンカチでふきおえて、ルミナは苦笑した。
「どこにもいかないで、って言ってくれれば、私はどこにも行かなかったのに」
「で、でも姉さんは、いつか出ていくんでしょう? 僕を置いて……他の誰かと結婚して……」
「しないわよ、ミシェルが望むなら。ずっとあなたのお姉さんでいて、支えるわよ。安心して」
ノータイムでそう言い切ったルミナを、ミシェルはおずおずと見上げた。
「ほ、ほんとうに? いいの……?」
「ええ。だって私、シスターになるんだもの。だから一生誰とも結婚せず、あなたのお姉さんでいられるわ」
するとミシェルの顔色が変わった。
「えっ……しゅ、終生誓願を⁉」
終生誓願をすれば、一生結婚はできない。ルミナは首をふった。
「ううん、まだよ。いきなりはできるものではないわ。ゆくゆくは、と思っているけど」
ミシェルは再び顔をくしゃっとさせた。
「そ、そんなの……神様に姉さまをとられる、ってことじゃないか」
「まぁたしかに、神の嫁とかいうけど……でも、実際は修道女として活動するだけだから」
「……神様のお嫁さんになるのも、他の男と結婚するのも、おんなじだ」
ルミナはちょっと困った。
「でも、あなたもいつかは、奥さんをもらって家を継ぐわ。そこに私がいては邪魔でしょう。だから私はシスターとして自立して……」
するとミシェルは唇を嚙んでルミナをにらんだ。
「僕は誰とも結婚なんてしないよ」
「それは良くないわ。ウインター家が途絶えてしまうじゃない。叔父様が悲しむわ」
「家の名前なんて、お父様はさほど重要視してないよ。名より実の考えだし。でも……」
「でも?」
「ごめん、なんでもない。僕が悪い。やっぱり僕は姉さんといないほうがいいんだ。こうやってわがままを言って、姉さまをずっと困らせるから……」
ミシェルはうつむいた。
「姉さまのしたいように生きてほしい。シスターになりたければなってほしいし、ね、姉さまが……たとえ他の誰かと結婚したって、僕がそれを止める資格なんて、ない。ないんだ……だから」
そこまで言って、ミシェルは唇を嚙んで黙り込んだ。
ルミナは腰に手を当てて聞いてみた。
「じゃあ、ミシェルはどうすれば納得するかしら? 教えてちょうだい」
するとミシェルは、おずおずと言った。
「いいんだ。姉さまの幸せを願ってるのは、本当なんだ……」
するとルミナは、むっ、と口を曲げた。
「まぁ、こんなことがあったあとなのに、そうやって自分の気持ちを言わないつもりなの?」
するとミシェルはたっぷり迷ったあと、おずおずと言った。
「お……怒らない? 引かない?」
ルミナがうなずくと、ミシェルはじっと大きな目でルミナを見つめ――小さい声で言った。
「神様じゃなくて……僕と、結婚してほしい」
ルミナは一瞬ぽかんとした。何を言い出すかと思えば。
「そ、それは無理よ。だって私たち兄弟だし――」
「でも、血がつながってないから結婚はできるよ」
「で、でも、ミシェル、私はあなたより年上なのよ」
するとミシェルは、唇を嚙んだ。
「姉さまのいうとおり、ちゃんと言ったのに……どこにも行かないでって……それなのに、やっぱり聞いてくれないんだ」
「そ、それは……」
困ったルミナを見て、ミシェルはそっぽを向いた。
そう言って、ミシェルはルミナを見上げた。そしてルミナを見てふっと寂しく笑った
「ごめん。また姉さまを困らせている。僕って本当にしょうもないやつだ……」
そして、目を閉じた。
「いいんだ。今のは忘れて。僕は姉さまにふさわしい人間じゃない」
――言葉とは裏腹に、捨てないで、とすがるような声だった。
そこでふと、ルミナは思った
(私のために、悪魔と契約して、魂まで売るなんて……こんなに求めてくれる人って、たしかに、ミシェル以外にはいないものね)
お見合いはことごとく失敗したし、求人でもはじかれてばかりだった。
けどミシェルだけはずっと、呪いを受ける前から、ルミナのことを求め続けてくれていた。
(ああ、断れないじゃない、そんなの)
ルミナはふっ、と息をついた。
「わかった。でも、数年待って」
ルミナが言うと、ミシェルは動きを止めた。
「え……ほ、本当に、いいの?」
「うん。でも、誓願を行った以上、有期でも修道女として祈りをささげたいわ。だから、そのお勤めが終わるまで待っていてくれる?」
ルミナがミシェルを見てそういうと、ミシェルは信じられない、という顔でうなずいた。
「ま、待つ。待つよ。姉さまが僕と結婚してくれるのなら、何年だって……!」
ミシェルの目がくしゃっと細められた。
「本当に? 本当にいいの? これ、夢じゃないの……?」
ルミナはやれやれ、と彼を抱きしめてやった。
「夢じゃないわ。ほら、帰りましょう。いつまでもこんなところにいるものじゃないわ」
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