第13話 僕の魂と交換だ

 そう言われて、ルミナは苦笑した。着慣れないドレスに、贅沢。周りの人からみれば、ルミナはさぞ場違いに見えることだろう。けれど、ミシェルの気持ちは嬉しかった。

『こちらこそありがとう。こんな服も、場所も初めてだわ』

 つやつやとした前菜や、鮮やかなスープ、バラ色のお肉などの贅を極めた料理を、ルミナは驚きつつもつつましく、ミシェルは若者らしく気持ちよく食べきった。

『とっても美味しかったわね!』

 ルミナがにっこり書くと、ミシェルはソーダのグラスを傾けながら、再びじっとルミナを見た。

「姉さま、僕――嬉しいです。ドレスアップした姉さまを見れて。こうやって一緒に……食事をしたり、出かけたり、してみたかったんだ。ずっと」

 これからミシェルは、きっと女の子と出かける機会は、山ほどあるだろう。ルミナはペンを走らせた。

『ありがとう。私も最後に、ミシェルと一緒にお出かけできて嬉しかったわ。ミシェルはこれからきっと、忙しくなるだろうから』

 卒業後の進路を聞いても、ミシェルはルミナにはっきりと伝えてはくれなかった。ただ、遠くに行くことになるかもしれない、と伝えてきただけだった。

(……お父様のような魔術師になるのならば、身内でもきっと守秘義務は発生するわよね)

 ルミナはそう察して、それ以上は何も聞かなかった。

 ――それにルミナだって、修道院に行くと彼に言ってはいない。

(きっと、止められるもの)

 この前、トマス牧師と会ったときに、ルミナは彼と話し合って、すでに誓願を立てていた。

(だって……あんなことを言われたら)

 トマス牧師は、ルミナとミシェルは離れたほうがいい、二人の呪いはおそらくつながっていて、近くにいる限り苦しむ、と言ったのだ。

 本当なら、すぐにでも修道院に入ったほうがいい、というトマスに、しかしルミナは断った。卒業まではミシェルのそばにいてやりたかったからだ。

 それならば、とトマス牧師は、ルミナにその場で修道院入りの誓願を立てさせ、シンプルなロザリオを授けてくれた。

(これがあれば、少しはあの時事故で負った悪魔の呪いも、やわらぐだろう、って)

 ――正直、あの時起こった事を、ルミナはよく覚えていない。途中から気絶していたからだ。だた、起きたら悪魔は消えていて、こんな身体になっていた。

(それでも親身になって受け入れてくださるんだから、トマス牧師は良い方だわ)

 家から離れるのは、少し寂しい。でも、シスターになっても、ミシェルにあえなくなるわけではない。だから出家したのちに報告し、節目の時には力になってあげたりすればいい。

(――そう思うと、こんな素敵なレストランで、ドレスなんか着て、彼と食事をするなんて、これが最初で最後なのね)

 シスターは、節制、質素を求められる。当然ルミナもそれに従うつもりであった。

(ありがとう、ミシェル。最後にいい経験ができたわ)

 ルミナがひそかにそう思っていると、ふとミシェルはつぶやいた。

「姉さまは――姉さまは、とっても素敵なひとだから、きっと、これから幸せになると思うんだ」

『まぁ、いきなりどうしたの』

「ううん。あのね、これからは、僕や父さまの事なんて気にしないで、好きなことをめいっぱいしてほしいんです。けど……けど」

 ミシェルはジャケットの内側から、小さな箱を取り出した。

「卒業して――なかなか会えなくなっても、僕のこと、たまには思い出してほしくて」

 彼が箱を開けると、そこには小さな金の指輪が入っていた。

「これ……つけておいてくれる?」

(まぁ……そ、そんな)

 ルミナはおずおずと指輪を受け取った。シンプルな金の細い指輪だったが、裏面に小さな宝石が嵌っており、その隣に流麗な飾り文字で、何かが彫ってあった。

「本当は、サファイアやブルーダイヤの大きな宝石の指輪をつけてほしかったんだけれど、姉さまは、派手なものだとつけてくれなそうだから……」

 ミシェルは指輪の内側を指さした。

「ここに、紫と青の小さな宝石と――僕とルミナの名前が彫られてるデザインにしたんだ。これくらいシンプルなら、きっと毎日つけいられるでしょう?」

 ――たしかに、このデザインならば、シスターになってからも身に着けていられそうだ。

(指にはめるのが難しくても、チェーンを通して、服の下にネックレスとしてつけられるわ)

 新しい場所に身を投じるルミナにとっても、心のよりどころになるだろう。

 きっと高価なものだが、今回ばかりはルミナも素直に受け取ることにした。

『ありがとうミシェル。とっても嬉しいわ。肌身離さずつけることにするわ』

「ほんとう? ありがとう姉さま……ずっとつけてほしいな。姉さまが……誰かと結婚したあとも」

 ミシェルはそう言って、ルミナの右手をそっと取った。

「左手は取らないよ。だから右手にこれをつけていて……僕は、それだけでいいから」

 ルミナの右手の薬指に、指輪はぴったりと嵌った。まるでずっとそこにあったかのように、しっくりと肌になじんだ。

 ルミナはじっとその指輪を見た。

 ルミナは今後結婚などしない。この指輪が、生涯で唯一の指輪となるだろう。

 ――そのことをミシェルは知らない。

 が、今言って、このディナーに水を差す必要はない。

『ありがとう。私ばかりもらってしまって、なんだか悪いわ。明日からもっと、料理を頑張ろうかしら』

「これ以上頑張らないでよ。もう姉さまは十分、僕にいろんなものをくれたから」

『そんなことないわ。そうだミシェル、明日の晩は何が食べたい? 姉さんなんでも頑張っちゃうわよ』

 するとミシェルは、はっとした顔をしたあと、ちょっと悲しそうに笑った。

「だから、いつもと同じでいいって。ただそうだな……朝食は、いつもみたいにベーコンエッグがいいな。それで、いってきますのハグをしてほしい」

 いつもと同じじゃない。ルミナは思わず笑ってしまった。




『いってらっしゃい、ミシェル』

 ぎゅっと抱きしめてくれた耳元で、ルミナがそう言ったのがわかった。

 声はしない。けれど、唇の動きでわかった。

 ミシェルは思わず、ルミナの華奢な体をぎゅっと抱きしめ返した。 

 かつては、とても大きく思えた、優しく柔らかな体が、今はミシェルの腕の中にすっぽり包めるほど、ミシェルのほうが大きくなってしまった。

(……いい匂い。洗剤と、お日様と、花みたいな……姉さま自身のにおい)

 その香りを胸いっぱい吸い込んで、ミシェルは目を閉じた。

(声が出るようになって、僕の呪いの制約から解き放たれたら――きっと姉さまは)

 こんなに愛情深く、素晴らしい女性なのだ。きっと世界一の恋人に、妻に、母親になるだろう。

(――いいな。姉さまの夫になる男は。子供に生まれる人は)

 ルミナの肩に顔をうずめながら、ミシェルはそう思った。

 その気持ちは、少し前のような、激しい嫉妬の炎が燃えるようなものではなかった。すこし物寂しいような、うらやましいような、そんな静かな気持ちだった。

(僕はずっと……自分のせいで、姉さまが呪われてからもずっと、姉さまに対する執着を捨てられなかった。でも……)

 最後の数か月、ミシェルはルミナと一緒にこうして過ごして、たくさん、たくさん、甘やかしてもらった。

 そのおかげで、ミシェルの執着心は満たされて、嫉妬の炎も収まったのだ。

 ルミナに対する気持ちが消えたわけではない。だが。 

(僕は多分……姉さんのもとにもどってこれない)

 ――自分の命を、姉さまの呪いを解くために使う。悪魔のもとへいく魔法陣の開発を考えついたときから、ミシェルはそう覚悟を決めたのだ。

 ミシェルが死んでしまえば、もうどう頑張ったって、ルミナを手に入れることはできない。

 そうなれば――誰かほかの男が、ルミナを幸せにするのは仕方がないことだ。

 ミシェルは自然とそう思えた。

(姉さまをこんな目に合わせたのは僕のせいだし――きっちりツケを払って、消えるんだ。僕は)

 最後に、ルミナの体をぎゅっと抱きしめ――その感触を身体にしみこませてから、やっとミシェルは彼女を離した。

「じゃあね、姉さま」

 幸せになってほしい。それがミシェルに残った、唯一の願いだった。




「おや? おやおやおやおや? その姿はもしや――」

 見渡す限り、一面薄暗い荒野の、風にやられて折れ曲がった不吉な木の下に、あの悪魔は座っていた。

 ホームグラウンドだからか、彼は影に覆われず、そのままの姿をしていた。

 ――直立歩行の漆黒の毛並みを持つ山羊。彼はその黄色い目玉で、ぎょろりとミシェルを見た。

 しかし、ミシェルはものおじすることなく、彼に一歩を踏み出した。

「そうだ。お前と契約した人間だ」

「ふぉふぉ、わしに何の用じゃ? わざわざ人間から、こちらに出向いてくるなんて、わしとしても初めてじゃ」

 わかっているくせに、そんなことを聞いてくる悪魔に、ミシェルはポーカーフェイスを崩さず切り出した。

「姉さまの呪いを解いてほしい」

 黒山羊の悪魔は目を見開いた。ぎょろりとした横長の瞳孔が、くわっと大きくなる。その目でとっくりと、悪魔は上から下までミシェルを眺めた。

「さすがに、前よりも成長したのう。なるほど、わしに頼み事をするために、お主はこの年月、魔法陣を研究して、多大な労力を払い、わしのもとまでやってきたのだじゃな」

 くくく、と笑ったあと、悪魔はのたまった。

「まったく大義なことじゃ。しかし答えはノーだ」

 ミシェルはポーカーフェイスのままで相手の言葉を待った。

 ――この悪魔が断るのは、わかりきっていた。

 人間の不幸が大好きな奴なのだ。やすやすとミシェルの願いをかなえてくれるはずもない。

「残念だったのう」

 しかしミシェルも、無策でここまで来たわけではない。ミシェルは相手に手をかざして、魔法陣を構築した。

「ん? 悪魔に攻撃をするつもりかね。物理魔法はわしには効かんぞ」

 そんなことはじゅうじゅう承知だ。余裕しゃくしゃくでこたえる悪魔に、ミシェルは言い放った。

「ああ。お前に水をかけてやる。ただの水じゃない――神の祝福を受けた聖水だ」

 さらにミシェルは、もう片方の手で、魔術学院の特別金庫から持ち出した強力なロザリオを突きつけた。 

「おお⁉」

 悪魔の目が揺れた。逃げようと向けられた背に、ミシェルは容赦なく聖水を浴びせ、十字架を押し付けた。

 悪魔の毛皮が濡れてしおしおになり、背中は十字架の形に焼け焦げた。

「うう……ひどい事をする」

(どちらも効いた! いけるかもしれない……!)

 はいつくばる悪魔からいったん手を離し、ミシェルは問いかけた。

「さぁ、どうする」

 すると悪魔は悲し気に顔を上げた。

「まさかこの地獄に、大量の聖水をもってくるとは……参った……」

 よし――勝ったか? 

 ミシェルがそう思った瞬間、ぐるんと悪魔の目玉が見開かれた。

「なーんて言うと思ったかの? ふぉふぉふぉふぉ」

 悪魔はしゃんと立ち上がって、ミシェルを見下ろした。濡れていた身体は瞬く間に元に戻り、やけどの跡も消え去った。

「そんなものわしには効かぬぞ」

「っ……!」

 ちっとも効いていなかった――ハメられた。聖水もロザリオも、まったく効かないのは予想外だった。

「くそ……っ……!」

 絶句するミシェルに、悪魔は偉そうに言った。

「だっておぬし、神を信じておらぬだろう? 信仰心もない。そんな人間に聖水を出されたところで、それはただの水なのじゃよ。わかるかの?」

 悪魔は手を振り上げて説明した。

「神なぞおらぬ。見たことがないからのう。わしらが一番手を焼くのは、神ではなく、神を信じる人間なのじゃ。そういう手合いは、わしらの差し出すものに見向きもせん。おぬしのような欲望にまみれた人間と違ってな」

 悪魔はずい、とミシェルに顔を近づけた

「じゃから、あの年でわしと契約したようなお前は、一生わしには勝てんということじゃ、ふぉふぉふぉふぉ」

 悪魔はミシェルに言った。

「さて、どうする? おぬしがこれ以上用がないならば、わしはもう行くが」

 その冷たい目を見て、ミシェルは悟った。

 すでに契約済みの人間に、もうこの悪魔は2度と会わないだろうと。

(これが最後のチャンスだ――)

 うなだれていたミシェルは、覚悟を決めて顔を上げた。

「それなら、お前と再契約だ。姉さまの呪いを解け。報酬は僕の魂だ」

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