第11話 ミシェルの決断
家の中だというのに風がどうどう吹いて、煙が立ち込め、悪魔はどんどん大きくなり――しだいに天井までその影のような体を伸ばした。
「さあ! 悪い事は言わない。お前の欲望をかなえよう!」
「くっ……僕に悪い欲望などない!」
小さい虫のように見下ろされながら、それでもミシェルは歯を食いしばって考えた。
――何か現状を打開できる策はないか。
すると悪魔は、今までで一番の、心底愉快そうな笑い声をあげた。
「アハハハハハ! これは愉快愉快。やせ我慢するな、小僧。隠しているつもりだろうが、お前の深層心理――無意識のイドの中にぐつぐつ煮えたぎるお前の欲望は、この屋敷の他の誰よりも巨大で、どろどろに煮詰まって、ぷんぷん匂っておるぞ。うまそうな匂いじゃ」
悪魔は紫の煙の上のルミナを、ひょいとミシェルの前に戻した。
「この身も心も美しい娘を――永遠に自分のものとしたい。身も心も他の者に取られることがいように、ずっとお前のそばに縛り付けたい。それがお前の願いだろう」
悪魔は手をたたいて、ミシェルをたたえた。
「なんと利己的! なんと醜い! 支配欲に独占欲に執着――! その年にして、素晴らしいではないか! これでこそ人間を人間たらしめる、一番おいしい欲望じゃ!」
ミシェルは思わず叫んだ。
「黙れ! 黙れ黙れ! お前に何が……っ」
「わかるとも。人間はそれを『恋』と呼ぶのだろう? なんとも醜く美しい感情だ。だからわしは、ただお前の恋路を手助けしてやりたい、それだけなんじゃよ。わしからの要求はたった一つ。無粋な輩からお前の恋を守るため、契約内容は他言無用。簡単じゃろ?」
悪魔はさらにミシェルに顔を近づけた。
「約束しよう、お前も、この娘も、決して傷つけはしない。魂や子供、手や足も取ったりはしない。それでいて、この娘がお前のそばにずっと居れるようにしてやろう」
悪魔の契約。絶対にしてはいけないもの。ミシェルは首を振った。
「できない……悪魔と契約なんて」
「ふん、強情者め。それならこの娘は連れ帰ろう。久々の生きた人間の美女じゃ。地獄で皆がたっぷりかわいがってくれるだろうよ」
「っ……!」
ルミナの体が持ち上げられて、ミシェルはぐっと唇を嚙んだ。
(くそ……!)
父を呼べない。オーエンは頼れない。自分の魔術はひ弱だ。
――このままでは、ルミナが。
ミシェルは絞り出すように声を出した。
「待て……。本当に……姉さまを傷つけないか」
待っていましたとばかりに、悪魔が親身に言った。
「もちろん。髪の毛一本、魂の1ミリも傷つけないと約束する。出血大サービスで、お前からも何も奪わないでおいてやろう。それでいて、彼女がお前のそばを離れられないように――ずっと頼り切りになるようにしてやろう。お前自身が願っているとおりに」
悪魔のわかったような声に、ミシェルは血が出そうなほど唇をかみしめた。
「おっと、願っていないなんて言うなよ。お前の胸の中は、手に取るようにわかる。さきほど自分以外の男の名を呼ぶなと念じていたではないか。聞こえておったぞ。よーくな」
悪魔は紫の煙の中から契約書を取り出した。
「さぁ、サインしなさい。内容は私が決めるんじゃない。お前の望む通りになる――そういう契約だ」
ミシェルは震える手で、カラスの羽のような黒いペンを執り、サインをした。
紫の煙がそっと彼女を床に横たえる。ミシェルは即座にルミナを抱き寄せた。彼女はまだ昏睡していた。
「数時間もすれば目を覚ますじゃろう――もっとも、契約内容の重みに耐えられれば、だが」
ミシェルは青ざめて食って掛かった。
「なんだと⁉ 姉さまは傷つけないと約束したじゃないか!」
「もちろん。わしはその美女の魂どころか、髪の毛の一本すらもらわんよ。わしはお前のイドと彼女の魂をつなげ、お前の願いを自動的にかなえる術をかけただけ。それでもし、彼女から何かが失われたのだとしたら――それはつまり、お前の願いに他ならないのだよ」
呆然とするミシェルを見て、彼はにんまりと笑って念を押した。
「いいか? 契約の内容は秘密じゃぞ。誰かに言えば、契約不履行で、その時彼女はわしのもの。でも、お前にとって悪い話じゃなかろう? 魔術アイテムの事故ということにすれば、お前が悪事を行ったことも周りにバレず――ずっと彼女と一緒にいられる!」
高らかに笑いながら、悪魔は煙とともに消え、魔導書は紫の炎で焼き尽くされて消滅した。
――結果、ルミナは声と、一部の体の自由を失った。
もう、ルミナは誰の名前も呼ぶことができない。そして、男がルミナに近づいたことをミシェルが察知すれば、身体の自由も奪われることになった。
悪魔は嘘はついていなかった。契約の内容は、『ミシェルが望んだこと』それだけであった。
悪魔が去って、ミシェルは泣きながら、契約内容以外のすべてのいきさつを父に話した。父ウインターは、『自分の責任でもある』と、昏睡するルミナの呪いを解こうと尽力してくれていたが、難しい顔で首を振った
『ダメだ……。古の悪魔は力が強い。いかに私でも、契約の部外者が呪いを解くことはできない』
自分が招いてしまった結果に、ミシェルは打ちのめされた。そんなミシェルを、父は叱咤した。
『私の言っている意味がわかるか? つまり、契約をどうにかできるの可能性があるのは、お前だけだミシェル。お前がしなければいけないんだ……!』
かくして、ルミナにかかってしまった呪いを解くことができないか、そのために生きる人生が始まった。
(姉さま……ごめんなさい、ごめんなさい、僕のせいで)
契約内容のせいで、ルミナはどうして自分の声が出ないのか、身体が不自由なのか知ることもできない。ただ父が『魔導書の事故のせいだ』といった説明を信じて、そのうえで父とミシェルの謝罪に『気にしないで、二人のせいではないです』と書いて答えて微笑んだ。
(僕が……僕が彼女を、不幸にしてしまった)
その負い目と、自分の醜さが恐ろしく、その時から、ミシェルはルミナと距離を置くことにしたのだ。
――自分がそばにいて、彼女の体に呪いの影響が出ないように。
ちょうど研究に専念しなくてはいけないので、それは合理的なことでもあった。
父の元を離れ、本格的に魔術を学ぶために試験勉強をやりこみ――飛び級で、魔術学園に入学した。
「できた……とうとう僕は、ここまできた」
誰もいない研究室の机にむかいながら、ミシェルはそうつぶやいた。
消滅してしまった魔導書なしに、あの悪魔との契約を解除する方法。
(魔導書が消えてしまった以上、あの悪魔の名前もわからない……)
名前のわからない悪魔を探すことは容易ではない上に、契約を解くには、魔術師としての器量、そして数千歳年上の悪魔を相手にする実力も必要となる。
(ほぼ不可能といっていい事だ。でも……僕はあきらめるわけにはいかなかった)
ミシェルは、羊皮紙に書き付けた魔法陣をじっと見た。
――魔法陣を、方程式のように組み立てては崩し、何度も何度も召喚を試みた。
一体何度失敗したかわからない。魔導書なしに大物悪魔を召喚するのは、ほぼ不可能に近かった。教師たちはみな、ミシェルのやろうとしていることを否定した。
このままでは、ルミナを一生救うことはできない。そう焦ったミシェルは、根本から、悪魔召喚のやり方を覆すことにしたのだ。
(呼ぼうと思うから難しい。僕のほうから、行けばいいんだ)
やっと開発したこの魔法陣は、世界でたった一つ、ミシェルがあの悪魔ものとへ行くために作ったものだった。
(塩と魚、それに悪魔の山羊の魔法陣……)
最終的にたどりついたこの魔法陣は、今まで作ってきたものよりかはシンプルで、しかし妙な確信をミシェルは感じていた。
(さっそく、やってみよう……といいたいところだけど)
おそらく、帰ってこれない可能性が高い。ミシェルはいったん、魔法陣の書かれた羊皮紙を鍵付きの引き出しにしまい、カレンダーを見た。
(ちょうど来月の一週目の金曜が、新月の日か)
月のない、暗い夜。悪魔を呼び出すにはうってつけとされている。
(この日に召喚を行うとして――それまでに最低限、身辺整理をしよう)
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