第10話 二者択一

 ……その思いは、夜中になっても消えなかった。ミシェルは溶けた鉛のようにどろりと重たい思いを抱えたまま、ベッドの中で眠れなかった。

(――姉さまは、ああいう男の人が好きなんだろうか)

 大人の世裕があって、魔術師として父に信頼されるほど実力があり、かつ好青年で――。

 ルミナの愛情を求めて子犬のようにまとわりついている自分では、どれももっていないものだ。

(姉さま……僕が見たことのない顔をしていた)

 慈愛にあふれる優しい微笑みではなく、はにかんで恥じらう、乙女の顔。

 そこでミシェルは、はたと気がついた。

(姉さまはいま――12才。あと6年もたてば、大人の年になる)

 するといつか、ルミナも結婚するのだろうか。

 結婚して……この家を出て、他の家で、あんな男と一緒に暮らすのだろうか。

 今までミシェルをなでてくれた手で、その男のためにお茶を入れて、ミシェルのために歌ってくれた声で、その男の名前を呼んで、愛し合い、やがては子供ができ――

『見て、ミシェル。私の赤ん坊よ。かわいいでしょう?』

 純白のおくるみにくるまれた赤ん坊に、ルミナが子守歌を歌っている光景が、ありありとミシェルの頭の中に浮かんだ。

 ――その光景は、優しいルミナにとても似合っていた。ルミナが収まるところはそこでしかない、と感じさせる説得力があった。

 だからこそ、ミシェルはベッドの中で脳天をガツンと殴られたような衝撃を感じた。

(いーー嫌だ! 僕の姉さまだ! 他の人と結婚して、他の子のママになるなんて……そんなの、そんなの!)

 ――それでは、出て行った母親と同じではないか。

 忘れかけていた心の痛みが、また傷を開かれたように痛み始める。

(なんで……いつも、僕の大事な女〈ひと〉は、僕を置いて出て行ってしまうんだ…!)

 不安で心臓がバクバクする。布団にくるまっているのに、背中が冷たくなる。

 恐怖から身を守るために、ミシェルはベッドの中で体を必死に丸めた。

(落ち着け……大丈夫、まだ姉さまは、12才だ。まだ時間はある)

 けれど、あと数年で、確実にその時はやってくるだろう。

 ――養女とはいえ、魔術師ウインターの愛娘で、美しく気立てのよい彼女を、男たちが放っておくはずがない。

(どうしよう……どうすれば、姉さまを取られずに済む……?)

 必死に考えていると、ふとドアの向こうの階下で、何やら騒がしい足音が聞こえた。

 何があったのだろうか。ミシェルはいったん思考を中断し、ベッドを抜け出してドアをそっと開けてみた。

 すると、階下の玄関から、ランプの明かりが漏れていた。会話が聞こえてくる。あの若い魔術師の声だ。

「ウインター師、今すぐ出てきてください! あの組織、どうやら他にも隠し玉をもっていたようで、それを使って魔導書を取り戻そうと――」

「この家の結界は厳重だ。やつらに踏み込めるはずもない」

「ですが奴らの隠し玉は、どうも『古の王の鍵』のようで――」

「なるほど……それはやっかいだ。すまないねルミナ。少し行ってくるよ。すぐに戻るから」

「おじ様、お気を付けて」

「ああ、行ってくるよ。かわりにオーエンを置いていくから、心配はないよ。オーエン、家の守りを頼む」

 バタバタと足音がし、ドアが閉まる音がした。

 ――まずい、姉さまがあの魔術師と二人きりだ。

 そう思ったミシェルは、あわててドアを開けて階下へ行こうとした。その時だった。

「あ……あれは!」

 ルミナが倉庫部屋の扉を指さして叫んだ。魔法陣が赤く光り、今にも砕け散りそうだった。

「危ない、ルミナさん!」

 オーエンが彼女をかばって前に出た。次の瞬間、魔法陣がひび割れて崩壊し、扉がバタンと開いた。

「――ああ、待っていたよ、あのやっかいな魔術師が出ていくのを」

 ――姿は、倉庫部屋の暗がりに紛れて見えない。

 けれど低い弦楽器のような、人間のものではない声がした。

「残るは雑魚と、子供ばかりか――ははは」

「下がれ悪魔! ルミナさん、弟を連れて逃げるんだ、早く!」

 オーエンはルミナを背にかばい、悪魔に向かって手を出した。その手が光って、新たな魔法陣を生み出す。しかし――

「他愛ないのう」

 その一言で、オーエンの魔法陣は突破され、彼は後ろへと吹き飛んだ。

「オーエンさん!」

 思わずルミナは駆け寄って、彼を助け起こした。

「いけない……ルミナさん、俺の力では……ウインター師を呼んで…きて」

 ルミナはうなずいて駆け出し、玄関のドアに触れた。が、バチリと火花が走り、すぐにひっこめた。

「そう簡単に呼び戻されてたまるものか。ああ、やっとあのつまらん人間どものもとから逃れられたんだ。わしの楽しみを奪わないでくれ」

 部屋の中から、ゆらめく影のようなものが出てきた。

 ――煤のような黒いちりに覆われて、その姿は見えない。しかし、角と蹄があることが見てとれた。

「――悪魔め!」

 『悪魔』は、オーエンの前に立って、彼の顔をのぞき込んだ。

「若い魔術師よ、なかなか鍛えておるのう。しかしわしの足元にも及ばないことはわかるじゃろう? どうだ。ここはひとつ、わしと契約しないかね?」

 するとオーエンは悪魔をにらみつけ吐き捨てた。

「するものか。悪魔の力を借りるなど、反政府組織のような愚か者のすることだ」

 すると悪魔は残念そうに首を振っていった。

「なんとまあ、つまらない世の中になったことよ。若者が皆、欲望の一つも持っていないとは。わしからすれば、お前らも、『はんせいふそしき』?とやらも、そう変わらぬ」

「なんだと⁉」

 気色ばんだオーエンに、悪魔はからかうように言った。

「世の中のため、大義のためなど――まったく、欲望の中でも下の下、つまらん『欲望』じゃ。わしのような悪魔にとっては、デザートに添えるミントにもならんよ、しばらく黙っていたまえ」

 そう言って、悪魔はにらみつけるオーエンの額をひずめの手で小突いた。

 すると彼は――どさり、と床に倒れた。

「お、オーエンさん!!」

 ルミナは彼に取りすがった。

「そう騒ぐな、人間の娘よ。気絶させただけじゃ。無粋ものがいると進む話も進まんからね」

 悪魔は驚きおびえるルミナを、黒い顔でとっくりと眺めた。

「――ふむ、馬車の事故で両親をなくし、この家で気丈にふるまっているが――時折両親をおもいだして涙する夜もある、と」

 驚き身体を固くするルミナに、悪魔は一歩近づいた。

「かわいそうにのう……その若さで両親を亡くすとは、さぞつらかっただろうよ」

 本当に、心から可哀そうに思っていたわっているような――そんな口ぶりであった。

「じゃが、わしなら、お前さんをその辛さから救い出してやることができるぞ」

 悪魔がぱっと手を上げる。すると紫色の煙が広がり、その中に男性と女性――ルミナの両親の姿が像を結んだ。

「お……お母さま、お父さま」

 ルミナが呆然とつぶやく。すると悪魔の作り出したその像は、ルミナに微笑みかけた。

「ルミナ! 会いたかったわ」

「ルミナ、元気でいるか。不自由はしていないか。お前を残していってしまって、心配で、心配で……」

 ルミナの口が、驚愕で半開きになる。その目には、涙がにじんでいた。

「おねがいルミナ。私たちを助けて。もう一度あなたと一緒に暮らしたいわ……!」

「お、お母さま……」

 ルミナが思わず虚像に手を伸ばしたその時、悪魔がずいと前に出た。

「どうだね娘さん。私と契約しないかね。そうしたらまた、家族で一緒に暮らせるぞ」

「で、でも……」

 ルミナの言葉が途切れる。

(まずい! 姉さまが、悪魔と……!)

 悪魔とのやりとりを食い入るように見つめていたミシェルは、二人の間に全速力で割り込んだ。

「姉さま、ダメだ! そいつのいう事を聞いたら、死ぬ……!」

 すると悪魔は、じっとミシェルの顔を見て、笑いだした。

「ははは、人聞きの悪い事を言ってもらっては困る。わしは人の命を取ったりはしない。美女ならなおさらだ」

「――魂と引き換え、だろう。命とそう変わらないじゃないか」

「むろん魂が最上だが、それ以外でも取引には応じる。例えば、残りの寿命だとか、未来の子供だとか――手だとか足だとか」

 その答えに、ミシェルは守るようにルミナの前に立ちはだかった。

「そんなものを姉さまに差し出させるつもりはない! あきらめろ。ここにお前と契約するやつはいない!」

 ひるまず言いきったミシェルを、悪魔は腰をかがめてのぞき込み、ちらりとルミナへと視線を動かした。

「ふうむ、小僧、におうぞ。お前の中の『欲望』が。なかなか悪くない。食わせろ! わしはもう、腹ペコで仕方ないんじゃ」

 悪魔が黒い口を開ける。ざざあっと風が、吸い込むようにミシェルの髪を揺らした。

「断る!」

 ミシェルは踏ん張ったが、悪魔はかかと笑った。

「そうかそうか――なるほど。悪魔を空腹のまま追い出すとどうなるか、教えてやろう」

 悪魔は、ミシェルが後ろに隠していたルミナの額をトンっとついた。

 ルミナはオーエンと同じ、人形のように、地面にとさっと倒れた。

「ルミナ!! 何をする、この―――!」

 激高したミシェルはルミナの体を抱えた。が、悪魔の紫の煙が、彼女を包み込んでミシェルの腕からもぎとり、ベッドに乗せたように彼女を持ち上げた。悪魔はルミナを自らへ引き寄せながら言った。

「空腹の代償として、代わりにこの娘を、地獄へ連れ帰ってわしの召使として使うとしよう。美しさは申し分ないし、か弱く哀れなところも私好みじゃ」

「こ……この!」

 ミシェルは激高して手をかざした。ルミナを取り返さんと、習いたての魔法陣をその手から発現させたが――

「ふぉっふぉ。こんなものがわしに効くとでも? 片腹いたいわ」

 攻撃は、蠅のごとく空中でたたきつぶされた。

 ――ダメだ。自分の実力では、この悪魔に遠く及ばない。

 瞬時にそう判断したミシェルは扉を壊して父の助けを呼ぼうと、魔法陣で強化して体当たりをした。しかし。

「っ……!」

 その瞬間、悪魔の魔術が作動して、ミシェルは爆薬を食らったように扉から吹っ飛んだ。

 バリバリと扉が火花を散らす。

「そう簡単に、この絶好のチャンスを逃すものか! さぁ、わしが魔術を解かない限り、この家にあの魔術師は入ってこれんぞ! どうする小僧! わしに欲望を差し出すか、この娘を差し出すか!」

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