第9話 嫉妬

「おはよう、リリアン。昨日は迷惑をかけたね」

 机の上の魔法陣の研究から目を上げて、ミシェルはリリアンに挨拶をした。

「う、ううん。こちらこそごめんなさい。勝手に押しかけたりして」

 いつもは元気でおてんばともいえるくらいのリリアンが、本当に申し訳なさそうに、言いにくそうにしているのを見て、ミシェルは軽く微笑んだ。

「いいんだ。別に君がうちに来たことは怒っていないよ」

 あくまで、ルミナに近づかれたくないのは『男』だから、ミシェルの判定ではリリアンはセーフだった。呪いのことに勘づかれても面倒だから、極力避けたくはあったが。

「そう……なら、いいんだけど。あ、あんな素敵なお姉さんがいるなんて知らなかったわ。美人で、優しそうで」

 なんだか奥歯にものがはさまったような物言いだったが、ルミナが褒められるのは純粋にうれしいミシェルは微笑んだ。

「ふふ、そうなんだ。特に言ってはいなかったけれど、僕の大事な家族さ」

 リリアンは気遣わしげに言った。

「……でもしゃべれないなんて、お姉さん、不自由していないかしら。この都会で」

「都会だからこそ、あまり深くコミュニケーションをとらなくても暮らしていける。僕もついているし、その点は問題ないよ」

「そうなの? その……お姉さんがそうなってしまったのって、事故か、なにか?」

 来た。ルミナを都会に連れてきた時点で、こうやって様々な人に質問されるであろうことは予測していた。ミシェルは用意していた答えを言った。

「3年前に事故にあってね。姉さんは一命はとりとめたが、声を失ってしまったんだ」

 ミシェルが少し深刻な顔を作っていうと、誰もそれ以上詳しいことをきいてもこない。

「そうだったの……ごめんなさい、言いづらいことを」

 案の定、リリアンもそれ以上はつっこんではこなかった。

(……よかった。ただの好奇心か。それとも……?)

 リリアンはこの学園でも良い『目』を持っている。彼女の目でルミナを見れば、呪いであることはすぐにわかってしまうだろう。

(逆に彼女の目には何が見えるのか……聞いてみたくもある)

 が、ミシェルは踏みとどまった。

(いや、よそう。リリアンにルミナの呪いを知られるほうがリスキーだ)

 気づいたとしても、こうして気づかないふりをして探りを入れてくるということは、きっとリリアンは、自分が呪いに気が付いたとミシェルに知らせるつもりはないのだろう。

(気遣いか?……そうであったとしてもなかったとしても、それに甘えることにしよう)

 ミシェルが再び机の魔法陣に向き直ると、リリアンはためらいがちに言った。

「あ、あの、その、事故って……」

 なんだ。目線はそのままがながら、ミシェルはぴりっとした。

(やはり、気づいて何か言うつもりか)

 しかしミシェルが何か言う前に、彼女は首を振った。

「ううん、なんでもないの。じゃ、またあとで」

 パタパタ、と若干慌てるように、リリアンは去っていった。

(あの事故……か)

 ミシェルはふと、当時のことを思い出した。


 ――9年前。まだ二人が子供だった、平和な日々。

 母が去り、父も留守がちで、ひとりぼっちだったミシェルに、やっと遣わされた天使がルミナだった。

 ルミナがいれば、狭く冷たい牢獄のように思えた家は、居心地の良い温かい楽園に様変わりし、いつ果てるともなく続く苦行のようなこの先の人生も、良い事だらけの幸福な未来に変わったのであった。

 ルミナに心を開かされたその時から、ミシェルにとってルミナはこの世界のすべてであった。ミシェルはルミナと片時も離れず、精神的にも距離的にも、つねに彼女と一緒であった。

 ルミナは優しかった。ミシェルの至らない点もわがままも、すべて受け入れてくれた。指を吸う事がやめられない幼いミシェルを見ても、叱ったり止めたりはしなかった。

『困ったわねぇ。やめたくないのね? でも、ミシェルの指が痛くなってしまうから――代わりに私のものを吸う?』

 膝に乗せたミシェルに優しくそう言って、自分の指を含ませてくれた。

(……姉さまの指は、甘かったな……)

 桜貝のような爪のついた、ほっそりとした人差し指を口に含んだ時――ルミナの指先が、自分の舌に触れたときの甘美な感触を、ミシェルは今でも時々反芻しているほどであっただった。自分の人生の中でベスト3に入る、美しく甘やかな時間だった。

 優しいルミナに、はちみつのようにたっぷりと甘やかされ――ミシェルはだんだんと、本来の探求心あふれる自分を取りもどしていった。

 ルミナに褒めてもらいたい。ルミナが驚くような成果を上げたい。その気持ちから、もともと行っていた魔術の練習に、さらに励むようになった。

 どんな些細な事でも、できるようになれば、ルミナは目をまん丸くして驚き、『ミシェルはすごいわ。将来きっと、叔父様のような立派な魔術師になるわ』とほめてくれた。そう言われるとと嬉しくて、もっと褒めてもらいたくて、練習に励み、ミシェルはどんどん上達していった。

 しかし、二人きりの蜜月期間は、ある日突然破られた。

(あの事故の起こった日……お父様が、かえってきていた)

 政府お抱えの魔術師である父はちょうど大きな仕事を終えて帰ってきたところで、大きな荷物を手にしていた。

 「ああ、その荷物はそっちだ。危険物を、私と離すわけにいかないからね。とりあえずそこ、使っていない部屋に置いて封印をしておいてくれ――あ」

 部下の魔術師たちに指示しながら、玄関に現れた父を、ミシェルとルミナは出迎えた。

「お父様、お帰りなさい!」

「お疲れでしょう、すぐにお茶をもってきますね」

 ミシェルは大きな声で元気よく父を迎え、ルミナは笑顔で父の帽子をコートを預かった。

「ただいま、ミシェル。しばらく見ないうちに大きくなったなぁ。ルミナも、ありがとう。娘がいるというのはいいものだな」

 疲れた顔をしながらも、ほがらかにそう答えた父に、ミシェルは子供らしい疑問をぶつけた。

「お父様、あの荷物は一体なに?」

 すると父は、少し真剣な顔で二人に言った。

「ああ、あれは今回の仕事で回収した危険物だ。二人とも、今夜はあの部屋に近寄ってはいけないよ。危ないからね」

「まぁ、わかりました。ミシェルも気を付けましょうね」

 不安になったのか、ミシェルの手をしっかり握って言い聞かせるルミナに、父は優しく微笑んだ。

「まぁ、部下が魔法陣で封印を行うから大丈夫だ。明日の朝いちばんに、政府の研究所へもっていって厳重に保管するから、安心しておくれ」

「まぁ、研究所に……そうなるとしばらく、またお戻りになれないのですね」

 ルミナは残念がっていたが、ミシェルは好奇心がとどまらなかった。

「――お父様、危険物って何なの?」

 すると父は、特に隠すこともなく教えてくれた。

「反政府勢力が隠し持っていた黒魔導書の回収に成功してね。古代のシロモノで、使い方によってはこの国の人間をすべて殺せる。ミシェルにもその危なさはわかるだろう。近づいてはいけないよ」

 その言葉に、ルミナは明らかに不安な顔をした。

「そんな恐ろしいものを……叔父様、本当にお疲れ様でした」

「なぁに、心強い仲間と一緒だったし、どうということはないさ。さぁ、久々にみんなで夕食といこうか」

 父がミシェルを思い切り抱き上げたので、ミシェルは驚きつつも、嬉しかったのを覚えている。

 ――抱き上げられた父の肩越しに、ルミナを見てしまうまでは。

 ルミナは、扉の封印を終えた若い魔術師をねぎらっていた。

「魔術師様もお疲れ様です。危険物の封印をありがとうございました」

 父の部下であるその若者は、ルミナに向かって爽やかにほほ笑んだ。

「ありがとうございます、お嬢様。これは明日の朝いちばんに、ウインター師と我々が回収しますので、ご安心を」

「今夜は近づかないようにしますわ。他に気を付けることはありますか?」

「できれば扉にも触れないでください。お嬢さんは――魔術はご存じで?」

 するとルミナは少しうつむいた。

「私は魔術のことはよく知らなくて」

「なるほど。それならお伝えしておきますね。そばに置いておいて、知らないのも危険ですから――。黒魔導書というのは、簡単に言えば、悪魔に願いをかなえてもらうチケットのようなものです」

「まぁ……悪魔ですって? この時代に、そんなものがあるなんて……」

「はい。今はそういったものを召喚する黒魔術は禁じられていますが、かつては行われていました。今回我々が回収したものは、古代の霊廟の遺跡に埋めてあったものを、盗掘した品で、長らく行方不明だったものです。裏のマーケットに出回っていたものを、反政府勢力が手に入れたという情報があったので、我々が動きました」

「そうなんですね……恐ろしい……悪魔に願いをかなえてもらうだなんて……」

 しんそこ恐ろしげなルミナを励ますように、青年は言った。

「ええ。年月がたって、封印も弱まっているから危険なのです。けれどお嬢様のような徳の高い方にとっては、悪魔の誘惑はそう恐ろしいものでもないでしょう」

 するとルミナは首をかしげて、困ったように微笑んだ。

「まぁ、誉め言葉として受け取っておきますわ」

 そのほほえみに、若者は一歩踏み出した。

「ええ。ところでお嬢様――お名前を聞いてもよろしいですか?」

「え? あ、名乗りもせずすみません。私はルミナと申しますわ」

「ルミナ……古い言葉で、星の光、という意味ですね。まさにぴったりのお名前です」

「そうでしょうか? 私はこんな黒い髪ですし、合わない気がしますわ」

「そんなことはありませんよ。この艶のある黒髪は、夜空を流れる星の川のようです。ぜひ手に取ってみたくなる美しさだ」

「まぁ……お上手ですのね」

 ほめられて、ルミナは恥ずかしそうに頬を赤らめて目を伏せた。

 ――あんな顔をする姉さま、見たことがない。

 ミシェルは廊下の先で父の腕の中からその光景を眺めながら、目を見開いていた。

 ルミナは頬を赤らめたまま微笑んで、若者を見上げた。

「あ、あなたのお名前は? 魔術師様」

 名乗る彼の様子は、まるで小鹿を目の前にした狩人そのもの。

 精悍で若々しい――大人の男のものだった。

 ルミナはその危険性に気が付いているのだろうか? 早く教えなくては。割って入らなければ。ミシェルは焦った。

「まぁ、それでは以後御見知りおきを。オーエン様」

(やめて! 姉さま! 僕の姉さまだ! ほかの男〈ひと〉の名前を呼ばないで――!)

 ミシェルの口から鋭い叫び声が出そうになったその時、父が身体ごと振り向いた。

「こらこら君、私の娘を勝ってに口説くんじゃない。ルミナ、おいで」

 すんでのところで叫ばなかったミシェルの胸の底に、たったいまの焦りは沈み込み、どす黒い雲のように沈殿していった。

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