第6話 期間限定、ふたりぐらし
新学期を迎えた秋。
首都アノマリアの、『学校通り』と呼ばれる下宿街から、ややはずれた、閑静な住宅地。
メゾネットタイプの瀟洒なアパートの床を魔術で清めながら、ミシェルは一人チェックリストに目を通していた。
(最後の荷物は今朝ついて、これで引っ越しは完了。すべて所定の位置に運び込んで、買い足すものは買い足して、掃除も済んだ)
ルミナを迎えるにあたって、ミシェルは下宿先を男子でいっぱいの相部屋アパートから、やや広いメゾネットへと引っ越した。
(あんなむさくるしいところに、姉さまを迎えるわけにはいかないからな……!)
とはいえ、ミシェルが昼間学校に行っている間は、ルミナを一人にしてしまう。ので、
部屋選びは念入りに行った。
(姉さまが安心して過ごせるように、静かで治安のいい場所。日当たりのいい部屋。かつ、公園やマーケットも近い場所。そして重要なのは……)
このアパートの右隣は老夫婦が住んでおり、左隣は未亡人、さらにその隣の大家は世話好きの老婦人、というメンツだった。
――妙齢の男が隣などに住んでいる物件は、徹底的に避けた。
(せっかく手元に呼び寄せたのに、また新しい虫がついたらことだからな)
さらに、家具付きの物件ではあったが、ルミナの快適のために、ベッドやクローゼット、カーテンや鏡台などさまざまなものを買い足した。
ルミナのものにする予定の寝室――2回の東側の、見晴らしも日当たりも一番良い部屋を見渡して、ミシェルは満足の心持ちでうなずいた。
(姉さまと……夢の二人暮らし!)
まさか、こんなに思い通りに事が運ぶとは思っていなかった。が――
(言ってみるものだな)
あと少しで、ミシェルの研究は完成する。すなわち、「悪魔との呪いの解除」だ。それを行うにあたって念のため、ルミナを近くに呼び寄せておきたかった。
(姉さまには迷惑をかけるが……けれど、あまり離れていると、解呪に影響が出るかもしれない。それに……姉さまは無防備すぎる!)
ミシェルが今まで、断腸の思いで彼女と距離を置いていたせいで――大事な大事なルミナに虫がたかり始めた。
当たり前のことといえば当たり前なのだが、品行方正なルミナをすっかり信頼していたミシェルにとっては、想定外の事であった。
(ルミナ姉さまは、信心深くて敬虔で、シスターみたいに清らかな人なのに……)
そんな彼女に手を出そうとするとは。まったく世の男どもは油断もすきもない。
(僕も触れられなかったというのに、他の男が姉さまに触れてたまるか!)
特に、あの牧師にはマグマのように腹が立った。教会通いに安心していた自分も忌々しい。
(あの生臭牧師め! 立場を利用して、人の姉さまになれなれしく……手なんか握って!)
ルミナがまったく、彼を信用しきっているのもミシェルの危機感を加速させた。
(何か間違いが起こる前に、あの男から、教会から――引き離さないと)
ミシェルはうつむいて、自分の手の平をみつめた。
きゅっと手を握ってみる。あの日馬車で抱き合った感触が、まだ残っているようだった。
なん年ぶりか――そう、数えれば8年と230日ぶりのハグであった。
ルミナのハグは、ミシェルが抱えていた8年の飢餓を、一気に満たした。
そして、一度あの腕にぎゅっと抱きしめられてしまうと、もう我慢はできそうになかった。
もう、ルミナとは関わらないと決めていた。けれど、その決意は、あの抱擁の前にはあまりにあっけなかった。
――また抱きしめてもらう事以外、もう考えられなくなってしまった。
(姉さまを呼び寄せて――一緒に暮らして、それで、それで)
疲れた時はあの両腕にまた癒してもらうのだ。
(姉さまのハグのある生活!)
そう思うと、嬉しさと期待で胸がはちきれそうになる。
けれど一方で、罪悪感もあった。
(……僕と一緒にいれば、きっと姉さまの呪いは強まる。でも……呪いはちゃんと、解く、から……)
そのための研究が、完成しつつあるのだ。ミシェルは、何と引き換えにしても、ルミナの呪いを解く覚悟があった。
(だからせめて、『最後』の数か月……姉さまのそばにいて、一緒に過ごしたい)
自分勝手な願いだが、どうしても、ミシェルはそうしたかった。
(ごめんなさい、姉さま。でも、これっきりだ。もう二度と、お姉さまを困らせないから)
――最後のわがまま。
ミシェルは最後に部屋を見回し、自分の研究にまつわるものが一切ないことを確認し、チェックリストに印をつけた。
――ルミナの呪いを解くために研究をしていることを、ミシェルは秘密にしなければならなかった。
あくまで、自分ために学校に通っていると、思ってほしかった。
(だって、もしばれたら……姉さまはぜったい、申し訳ながるし……)
悲しい顔をして、『ごめんなさい、私のせいで、あなたの将来にかかわる、貴重な時間を…』とか言う顔が、ありありと目に浮かぶ。
知れは、きっと罪悪感に、ミナは苦しむだろう。
そしてミシェルにたいして委縮して、今まで以上に気を遣う。
そんなのは耐えられなかった。
――ミシェルのせいでかかった呪いなのに。ルミナはそういう人だった。
(それに、『契約』のこともある)
重苦しい気持ちで、ミシェルはチェックリストを最後に燃やして、証拠隠滅した。
(だから、研究は家には持ち込まない。学校で全部済ませる。これでよし)
ミシェルはジャケットを羽織り、新しい家を出た。
(さあ、姉さまを駅まで迎えにいかないと!)
姉さまと一緒に暮らす。そう思うと、さきほどの憂いはすべて消え、まるで羽が生えてしまったかのように、ミシェルの足取りは軽かった。
◆
「おやルミナさん、今日も精が出るねぇ」
小さい玄関の前にあるささやかな鉢植えに水をやり、表を掃き清めていると、このアパートの大家さんがちょうど買い物から帰ってきた。
(おもちしましょうか?)
重たそうな買い物袋を見て、ルミナは両手を差し出した。
すると彼女はルミナの意図をさっして首を振った。
「いや、いや、大丈夫よ! 年寄だけどね、このくらいならいつも持ってるから」
ルミナは微笑んで、ドアを開けるのを手伝ってあげた。
「あら、ありがとうねぇ、あ、そうそう」
玄関に買い物袋をおろすと、大家さんは油紙の包みをルミナに差し出した。
「これ、ご近所さんから分けてもらったブドウ。弟くんと食べなさいね」
ルミナはぱっと顔を輝かせ、彼女に向かって頭を下げた。
(ありがとうございます!)
「いいってことよぉ」
そう言って、彼女は家へと戻っていった。
ルミナは掃き掃除を終わりにし、ブドウをキッチンへと持っていった。
(……都会はちょっと怖い場所かと思っていたけど、そんなことなかったわ)
むしろこのアパートの人々は温かく、弟の世話をするために都会に出てきたルミナに、皆よくしてくれた。
(年配の方が多いからかしら? 筆談をしなくても、なんだか会話ができるから、ありがたいわ)
ペンを出すまでもなく、皆ルミナの言いたい事を察してくれるのである。大家さんも、お隣の老夫婦も。
そして、なにかとおすそ分けをくれたりするのであった。
ルミナは部屋を片づけつつ、時計を見た。
(もう夕方! ミシェルが帰ってくるから、夕飯の用意をしないとね)
卒業を目前にして忙しいので、いろいろと支えてほしいんだ。ミシェルはルミナにそう頼んだ。
正直、頼ってもらえて、ルミナは嬉しかった
(掃除に洗濯、家事全般――そんなことなら、私も役に立てるもの)
これまで食堂やレストランでの外食ばかりで、遅くなりすぎて食事を抜くことも多かったというミシェルに、ルミナは栄養のある食事を作るため、日々台所にも立っていた。
(正直、私はそんなに料理はうまくはないのだけれど……)
ウィンター家に引き取られてから、食事は使用人たちが用意してくれていたからだ。今回もミシェルはそうしようと言ったが、ルミナのほうから断った。
(こんな都会で、家を借りるのにも、人を雇うのにも、きっとお金がかかるわ
ただでさえ、ミシェルはルミナのためにこの家を借りて、ルミナの部屋の家具などを買いそろえ、その上なぜか、部屋に上等の髪飾りまで用意してくれていたのだ。
(ミシェルの気持ちは嬉しいわ。でも……)
ルミナのために、これ以上何かしてもらうわけにはいかない。
かといって、毎回外食で済ませるのも、ミシェルの健康によくない。
と、いうわけで。
(今夜は何にしようかしら。いただいたお野菜があるから、それを使ってお肉と焼きましょうか)
ルミナはエプロンをつけ、腕まくりしながら、キッチンに立ったのだった。
野菜を洗って、鍋を火にかける。包丁を取り出して、肉を切っていく。
手を動かしていると、今までになかった充足感のようなものが、内側から湧き上がってくるのをルミナは感じた。
(腕前はまだまだだけど――こうして手を動かしているのは、なんだか好きだわ、私)
前のように、教会を家を往復する日々より、誰かのためにこうして手や身体を動かしているほうが、毎日張り合いが出る。
(なんだか、ちゃんと生きてるって感じがするわ)
今まで気が付かなかったが、ルミナはこうして働くのに、向いているのかもしれない。そう思うと、嬉しくなる。
(よかった。これならきっと、修道院に行っても、なんとか人の役に立ってやっていけそうだわ)
お野菜を切りながら、ルミナは学校で研究にいそしんでいるであろうミシェルに思いをはせた。
(卒業まで、あと一年弱。そしたらミシェルも18才。立派な大人になるのね)
いわば今は、子供と言える最後の期間なのだ。だから。
(この数か月だけは、私が責任をもって、彼を支えてあげよう)
貴重なこの日常をかみしめるように、毎日心を込めて料理をし、床を掃き清め、洗濯も行っていた。
(きっとこの期間は、私がミシェルに『姉として』何かをしてあげられる、最後のチャンスだから)
卒業してしまえば、ミシェルは広い世界に羽ばたくことになる。大人としての一歩を踏み出すのだ。
もう、ルミナの世話は必要なくなる。
(それを見届けてから、私はトマス牧師のところに戻って、修道院に行こう)
トマス牧師に、修道院入りを延期すると決めた手紙を書かなくては。ルミナはそう決めたのだった。
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