第5話 ぎゅっとして
頭のてっぺんから落ちてきたその声は、ひどく苦し気で。
まるで泣き出しそうなその声色に、ルミナは子供だったころの彼を思い出した。
(よく、つらい時は泣きそうになりながら……抱っこを要求してきたっけ)
普通の子供なら、勝手に膝によじ登ったり、ただひとこと『抱っこ!』とわがままに言えばいいものを、彼はただ泣きそうになりながら、じーっと見上げて、両手を上げて差し出してくるのだ。
(……ミシェル、何か辛い事でもあったのかしら)
そう思ったルミナは、ささやかながら、自分の手を彼の腰に回して、きゅっと抱きしめ返した。
昔と違って、腕が足りないくらい大きくなったなぁと思いながら。
「ね、姉さま⁉」
すると彼はあわてて、ルミナから両手を離した。
その顔は、ちょっとあわてた子どもみたいで。ルミナは思わず微笑んだ。
やっぱり、彼はもう、そんなもの求めていないのだ。
ちょっと残念だったが、ルミナは彼を笑わせたくなって、冗談めかして、両手を離して、彼に向かって広げた。
(抱っこ、してほしかったんじゃなかったのね?)
すると、ルミナの思っていることが通じたのか――彼は目を見開いて――そして真っ赤になって、目をそらした。
「や、やめてください。子供扱いはっ」
笑いではなく、ちょっと怒ったような声がかえってきて、ルミナは思わず、声の出ない口でくすっと笑った。
(そうきましたか)
そして、彼に向かってにっこり微笑んだ。
(わかりました。ごめんなさいね、ミシェル)
ルミナは立ち上がって、もとの自分の座席に座りなおそうとした。その時。
きゅ、とミシェルはルミナを抱きしめなおしていた。
「う……嘘、嘘です」
(ん?)
ミシェルはルミナをじっと見上げていた。
「姉さまに子供扱いされるのは……嫌じゃ、ない、です」
(あらまぁ)
予想外の答えに、ルミナはちょっと驚きながらも、気持ちの上では嬉しくその言葉を聞いていた。
するとミシェルは、聞こえるか聞こえないかの声で、言った。
「少しだけ……あと少しだけ……姉さま、こうしていてください」
(はい、はい)
ルミナは平らかな気持ちで目を閉じ、幼いころそうしていたように、彼を抱きしめて、そっと頭をなでてあげた。
「ん……」
その感触を味わうように、ふっとミシェルは目を閉じた。
その顔を見て、ルミナはあら、と思った。
(疲れた顔をしていると思ってはいたけど……目の下、クマがあるわ)
首都の魔術学校は、この国トップレベルの魔術師の卵が集まる、最高峰の魔術教育機関だ。
上級の試験を通過できない者も多く、皆卒業するためには必死にかじりついて鍛錬や研究を行うのが通例だという。
(ミシェルはそれを通過したんだわ……けど、卒論もあるし、きっととても疲れているのね)
少しでも、彼の疲れが取れますように。そう思いながら、ルミナは馬車が到着するまで、ひたすらその頭をなで続けたのであった。
◆
何事もなく、その日の午後は過ぎていった。
ミシェルは帰ってこない父親の代わりにもろもろの事務作業などを行い、ルミナはそばでその手伝いをした。
「まったく父さんは……すべて僕に丸投げなんだから」
執事の持ってきた財務表や様々な請求書をチェックしながら、ミシェルはぼやいた。しかし、そばで必要書類に切手を貼るルミナを見て、ふと声をやわらげた。
「でも、姉さまがいろいろ管理してくれているから、助かる」
ルミナは笑顔で首を振った。
『私は、お父様がお留守の時の対応をしているだけですから』
やってくるさまざまな客の要件を聞き、ルミナでもできることならば筆談で答えてしまうし、逆に当主の判断が必要なものは保留にしておく。そんな感じの書類が、いつも書斎の籠には十数枚溜まっていた。
「でも、ありがたいよ……」
そう言って、ミシェルは書類に目を落とした。
(……よかった。ミシェルがちょっと、昔に戻ったみたいに、打ち解けてくれて)
帰ってきてから、ミシェルはルミナに対して、態度をやわらげてくれていた。
こんなに笑顔を見せてくれるのは久しぶりだった。
(なんでかしら? さっき馬車でハグしたから?)
まさかそんなことで。とは思うが、実際ミシェルは久々に機嫌がよさそうだった。
(相変らず、疲れてはいそうだけど……)
「ん……」
その時、ミシェルが少し目を細めて、書類を顔に近づけた。
――もう日も落ちてきた。ランプの明かりだけで書類作業を行うのは、目を疲れさせる。
(いけないわ。ただでさえミシェルは疲れてるのに)
ルミナは彼に向かって書いた。
『今日はこのくらいにしましょう。あとは私がやっておきますから、食事にして、ミシェルは休んで』
「でも、姉さまに負担が」
『学校だって忙しいでしょう。ミシェルは決定だけしてくれればいいの。書類仕事は私にさせて』
ルミナはほら、と彼に手を差し出した。するとミシェルは微笑んだ。
「ありがとう。食事はここに持ってこさせようか」
サンドイッチに紅茶、かるい軽食が運ばれてきて、ルミナとミシェルは久々に、並んで気軽に食事をした。
「姉さま、それは姉さまの分でしょう」
ルミナは自分の分も、食べてほしくてミシェルのお皿にサンドイッチを積みながら笑った。
(ミシェルは成長期だもの)
書かなかったが、ミシェルはルミナの気持ちを理解したのか、それを照れながら受け取ってくれた。
「ありがとうございます、姉さまがもうお腹がいっぱいなら……もらってもいいですか」
その言葉に、ルミナは快くうなずいた。
――いっぱい食べる、年下の子を見るのはいいものだ。
ひとしきり食べて、たっぷりお茶を飲んだあと、ルミナはふと、彼に聞いてみた。
『ミシェル、疲れているでしょう。学校は忙しいの?』
するとミシェルはふふっと笑ってうなずいた。
「ええ、まあ。僕は絶対に成し遂げたい、大切な研究がありますし」
それはなんだか決意に満ちた言い方で、ルミナは感心した。
(私には想像もつかないような、魔術の立派な目標があるのね、きっと)
そうおもいながら、ルミナは心配に思った。
『ここと学校の往復は大変でしょう。無理をしないで、お休みはゆっくりしていていいのよ』
するとミシェルは、わずかに唇を尖らせた。
「そうもいきませんよ。だって姉さまが……」
(私? やっぱり……私が重荷なのかしら)
ルミナはそう思って落ち込みかけたが、逆に言ってみた。
『余計なお世話かもしれないけれど……私にも何か、手伝えることがあれば言ってね。書類仕事とか、家のこととか……ミシェルがせめて勉強に集中できるように、力になりたいわ』
すると、ミシェルはぴたっと静かになった。
――何か思いついて、考えている顔だった。
やがてミシェルは、ためらいながら言った。
「ルミナ姉様……実は僕は、姉さまに話があって、今回家にもどってきたんです」
そういえば、彼の『話』とはなんだろう。真剣な面持ちに、ルミナは居ずまいを正した。
(なにかしら?)
「あの、提案なんですが……僕と一緒に、アノマリアに来てはくれませんか」
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