第3場 藤枝孝宏、学食に行く
『やつ』は
ゼウスがプロメテウスにしたように、
だが僕は走る。
メロスがセリヌンティウスのためにそうしたように。
銀色に光り輝くガラス張りの、
パノプティコンとは、思想家のジェレミー・ベンサムが考案し、ミシェル・フーコーが一般化したという、監視システムの呼び名だ。
あの学食が完成した当時の学長だった、
「うー、マンボ!」でもあるまいし、どうでもよすぎる。
しかし、そのどうでもよいことを、全力疾走しながら考えられるとは、ふむ、僕の
入り口が迫ってくるにつれ、中央のスロープのてっぺんに、いっそう目立つ人影。
ヘラヘラと薄い
まるで悪魔が人間を誘惑するときのような――
組んだ腕の中に隠していた右手が、周囲の空気を切り裂き、ゆっくりとこちらへ差し出される。
ま、まさか本当に僕を……
果たしてそれは『
「コンクリート・レヴォリューション!」
わ、わけがわからん……
「な、なんだ……こんくりーと……?」
「なんとなく思いついた言葉だ、気にするな」
「いや、気になるだろ」
「それよりタカ、飯だ。ガルガンチュアの胃袋にかけて、飯を食らうのだ」
教養を含んではいるが、わけのわからないアレンジで、人を
これがアブという男なのだ。
甚平の
彼の背を
席はどこもいっぱいである。
果たしてわれわれは座れるのだろうか?
ガラス窓から差しこむ太陽光が、どこぞの老教授の
「タカ」
アブに名前を呼ばれ、僕はわれに返った。
「またお得意の循環論法か」
「いや、席は取れるかなあと」
「数学科の
「おまっ、心が読めるのか!?」
「かもな」
アブはハイスクール奇面組の一堂零みたいなイラつく横顔をさらして、食券交換所のほうへと歩いていく。
「あれ、そういえばこの食券は?」
「ああ、おごりだ。たまにはな」
珍しいこともあるもんだと、僕は食券に記載されたメニューの文字を見やった。
「冷やし中華……」
「この熱い日に冷やし中華とは、お前にぴったりだろう?」
「どういう意味だよ」
「オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』を読むといい」
「答えになってないぞ」
「
「全国の冷やし中華好きの皆さんに謝れ。それにこれから飯を食うのに、汚い話はやめなさい」
「脳内でお姫様と踊るか、悪魔と水遊びするかだな」
「人の話を聞けっての」
こんなくだらない会話をしつつ、食券と食事を交換していながらも、
ある意味で恐ろしい。
この大学は
食券とできあがった冷やし中華を交換して、ふと気づいた。
アブの姿がない。
辺りを見回すと、学食の中央から10時の方向、ちょうど先ほどの数学科・籾山教授だかの真後ろのテーブルに、いつのまにか
屈折率の小さいガラス窓から差しこむいっぱいの太陽光が、教授の禿頭に反射して、アブの顔面をモロに照らし出している。
心理学には
しかしアブは
不気味だ、不気味すぎる。
悪魔め、神の力で滅ぶがいい……
はっ!?
いかん、僕としたことが、のまれている!
これでは完全に奴のペースだ!
落ち着け。
頭が切れるとはいえ、同じ人間なのだ。
僕は自分をさとしながら、彼のほうへ向かった。
「急にいなくなるなよ」
「いやあ、席、取らなきゃと思ってな」
アブの瞳は聞き手の心を包みこむような、
いかん、のみこまれるな。
「お前は何を頼んだんだ?」
「見てわからんのか、豚肉のしょうが焼き定食だ。お前は経験しても認識できんのか? カントも
いちいち教養を悪用してくる態度に、はらわたが煮えくり返りそうになるも、僕は黙って、彼と差し向かいに座った。
「このクソ暑いときに、よくそんなの食えるな」
「餓死しかけている者がいたら豚肉を持ってこいと、キルケゴールも申しておるだろうが」
「いや、申してないだろ、明らかに!」
「まあ食おうや。腹あ、減ってるからな」
確かに腹は減っている。
ぐうと鳴る音が聞こえそうだ。
ひんやりとした冷気が顔を差して、いかにもおいしそうだ。
いただきます。
「ここ、黒龍館大学農学部畜産学科の学徒は、とびきり優秀でな。
「いつから評論家になったんだ」
「俺にとってはこれがデフォなんだよ、タカ。お前が無教養なだけなのだ、圧倒的に。
「ぐ、ぬう……」
「どうした? ぐうの
「いや、ぐうの音はいま出しただろ」
「どういう負け
僕たちはしばし、
「ところでタカ、例の彼女とはどうなったんだ」
「……いい流れになってるよ」
僕はいくらか、オブラートに包んで返答した。
オペラに誘われた件をこいつにしたら、話がややこしくなりそうだ。
「オペラに誘われたそうだな」
僕は口から『キュウリ』を吹いた。
垂直に放たれたそれを、アブはたやすく指ではじいた。
「なっ、なんでそれを……!」
「風の
再びの戦慄に、周囲の空気がゆがんだように
「
「そっ、そんなことまで……!」
「天が知り、地が知り、お前が知っていることは、すなわち俺も知っている。当然の帰着であろう?」
「確かに……って、んなわけないだろう! 誰から聞いた!?」
「答える必要はない。そんなことよりタカ、あの男はやめておいたほうがいい」
「と、いうと……?」
アブは突然、まじめな
「渋澤教授のかつてのゼミ生だった男の話だがな、ちょうどいまのお前のように、最初はオペラはおろか、芸術なんて特に興味のない人間がいたのよ。何の気なしに、教授のゼミへ所属することになったんだが、それによってそいつの人生は、大きく
ごくり。
僕は
「教授の指導で芸術学を学ぶうち、その男は次第に、クラシック音楽や声楽、果てはオペラに、深い
汗が
いったいその学生が、どうなったというんだ。
「で、そいつは」
「そいつは……?」
「きわめて優秀な成績で、大学を卒業した」
「……は?」
なんだ、いい話じゃないか。
それの何が問題だというんだ?
「まあ、最後まで聞け。ことが起こったのは、そいつが大学を卒業したあとなんだ」
な、卒業したあと……?
いったい、どういうことだ……?
「その男は、名前を聞けば誰でも知っている、大手の音楽雑誌出版社の編集部に就職した。だがそこで、異変が起こったわけだ」
「異変とは、いったい……?」
「その段階でそいつは、重度の『
「ついには……?」
「勤務先の編集部の副部長、出版社の取締役の一人の
「結局……?」
「会社をクビになった」
「……」
「渋澤教授は、まあ、悪意があるわけじゃあないだろうが、自分にかかわった人間を、一種の『音楽廃人』に作り変えてしまう
なんということだ。
そんな雰囲気は感じていたが、実例が存在するとは……
僕もこのままでは、その学生のように、音楽廃人に改造されてしまう、というのだろうか?
「だからタカ、悪いことはいわん。実害が出る前に、あのおっさんは切ったほうがいい。破滅するだけだぞ」
破滅――
その単語に、僕は言い知れない、恐怖のようなものを覚えた。
「オペラの件は適当にあわせればいい。それよりもタカ、友人として、お前が落ちていくところは見るに耐えない。なあに、予定が変わったとか、適当な理由なんて、いくらでも作れるだろ」
うーむ、どうしたものか……
確かにアブのいうとおり、朱音さんには悪いけれど、ほとんど予備知識なしでも、それなりに相手をすることはできるかもしれない。
大なり小なり恥はかくだろうけれど、渋澤教授の手にかかって最悪、人生を棒に振るよりは、ずっとよさそうだ。
「結論は出たか?」
「うーん、教授には悪いけれど……」
「それが正しい選択だ。君子危うきに近寄らずってな。取り返しのつかなくなる前に、ああ、それこそ、あんな風になる前にな」
「……?」
アブは僕のななめうしろの
僕はその先にひょいと視線を移した。
何か異様な光景だった。
ボロボロのジーンズは、あえてダメージをつけたとはいえようもなく、赤いチェックのワイシャツから除く、チェ・ゲバラの顔面もゆがんでいる。
肩から下げたネズミ色の大きなバッグは、ほとんど引きずっているかのようだ。
恥をしのんでいうが、人間だと認識するのに、時間的なギャップがあった。
『彼』はやつれた
「あれ、『カマタク』じゃないか?」
「え――?」
カマタク、
僕やアブが通っていた高校の、一学級下の後輩の名前だ。
黒龍館大学に入学したと話には聞いていたが、はて、あんなやつだったっけ?
僕は会話自体したことはないし、ただそういう生徒がいる程度の認識だった。
おとなしいという話を聞いたことがあったくらいとはいえ、ううん……
僕の中のイメージと、まるで
「そういえばあいつ、渋澤教授のゼミで研修生みたいなことをやっていると、聞いたことがあるぞ」
な……
「高校時代は
おそろしい、他人ごとでは決してない点が……
僕はカマタクに、何かあわれみにも似た同情を覚えた。
彼はソウルのはがれかかったビーチサンダルをピタピタいわせながら、そのまま学食の出口に消えていった。
葬列でも見ているかのような印象だった。
しかし入口から出口にスルーするだけとは、いったいやつはここへ何をしに来たんだ?
「な、悪いことはいわん。ああなりたくなかったら、今日の講義が終わったら、教授に断りを入れてくることだ」
「……そうしたほうが、よさそうだな」
「うむ、この件は万事解決だな。そうと決まればタカ、食おうや」
「そうだな、昼休みももう少しで終わりだしな」
「そのとおり、時間は有限だ。昼休みなど一瞬だ。宇宙のたゆたう
またアブの教養が
アブはといえば、分厚い豚肉に満足そうな顔でかぶりついている。
なんだかんだで、僕のことを考えてくれているところが、どこか憎めない。
持つべきは、よき友か。
ふむ。
「ああっ、シュウちゃんがミルドレッドちゃんを食べてるうっ!」
「花火か。そうか、これはお前が手にかけた豚であったか」
「そうだよーっ、ミルドレッドちゃんっていうんだよーっ。花火ちゃんがこの
出現したこの女性は、
高校のころからアブとつきあっていて、いまはここ黒龍館大学の、農学部畜産学科に
ネジが2、3本はぶっ飛んでいるような人だが、アブとは波長があうらしい。
「タカよ、ミルドレッドとは、小説『肉体の悪魔』に登場する悪女の名だ。花火は大学で育てている豚に、悪女の名前をつける
「悪女って……」
「あっ、タカちゃんだ! ほふほふうっ!」
「いま気づいたのかな……」
「そうだよーっ、タカちゃんってまるで存在感ないからねえ!」
つらい……
「そのへんにしておけ、タカが傷つくだろうが。こいつは豆腐メンタルなんだからな」
「ええっ! タカちゃんの脳みそって、豆腐でできてるのおっ!? スッカスカなんだねえ!」
あんまりだ……
「黙らんか、花火。それより、見ただけでどの豚かわかるのか?」
「あったりまえでしょー! 花火ちゃんが愛情をこめて育てたコなんだから! シュウちゃんこそ
僕はいいかげん、こんな怪物どもと一緒にいて、脳内が
「この前話していた、コンスタンツェとアルマはどうしたんだ?」
「コンスタンツェちゃんはウルフィのとこ、アルマちゃんは、うーん、グロピウスと仲良くやってるかなー?」
「要はほふったわけだな」
「そうだよー、ほふほふうっ!」
こわいよ、とても……
「お前の手塩にかけた豚は美味だったぞ。しかし愛情をこめておいて、ためらいもなくほふるとは、おそろしいやつよ」
「愛しているからこそ、ほふれるんだよー。ほふほふうっ!」
「
この場から消えたくなってきた……
こいつらといると、疲れる……
「タカ」
「うん?」
「昼休み」
「あ……」
腕時計をかざすと、時刻は12時50分――
いかん、講義に遅刻する。
「時間に支配されてるのー? やっぱりタカちゃんはポンコツなんだねえ!」
「しめるぞ、花火。タカ、講義に遅れんようにな」
「あれ、アブ、お前は……」
「ああ、俺は腹がふくれて満足したから、
「……」
「シュウちゃん、悪いやつ! じゃあ、花火ちゃんとデートしよー! 新しく入った、アントワネットちゃんを見せたげるー!」
「名前をつけられたときから、運命が決められているとはな……」
アブはお茶をすすって立ち上がると、そっと僕に耳打ちした。
「タカ、くれぐれも」
「……うん、うまくやるよ」
花火ちゃんを連れ立って、そそくさとその場を後にしていった。
二人の口ずさむドナドナのメロディが、
しかし、立ち止まっている時間はない。
午後の講義が始まってしまう。
僕はふらつく体に
もう走る気にはなれなかった。
少しくらい遅れてもいいかなと、開き直っていた。
そんなことより、渋澤教授だ。
講義が終わったら、教授にあわなくては。
きっぱり断らないと、逆にえらい目にあうかもしれない。
なんにせよ、疲れそうだ。
ため息が出る。
いまの僕は、さっきのカマタクのように歩いているんだろうか?
パノプティコンに反射した太陽光の作り出す影が、とぼとぼ歩く僕自身の姿を、いつまでもあざ笑っているかのようだった――
オペラ座の変人 朽木桜斎 @kuchiki-ohsai
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