第3場 藤枝孝宏、学食に行く

 『やつ』はいかっているだろう。


 ゼウスがプロメテウスにしたように、貫一かんいちがおみやにしたように、僕に罵詈雑言ばりぞうごんの雨を浴びせ、粉々こなごなくだくかもしれない。


 だが僕は走る。


 メロスがセリヌンティウスのためにそうしたように。


 銀色に光り輝くガラス張りの、円筒状えんとうじょうの建築物が視界に入る。


 黒龍館こくりゅうかん大学学生食堂、通称『パノプティコン』――


 パノプティコンとは、思想家のジェレミー・ベンサムが考案し、ミシェル・フーコーが一般化したという、監視システムの呼び名だ。


 あの学食が完成した当時の学長だった、半場兵衛はんば ひょうえなる哲学者が、食堂の中央からその全容を見渡した際、思わず「ぱ、パノプティコン……!」と、叫んだことが由来とされる。


 「うー、マンボ!」でもあるまいし、どうでもよすぎる。


 しかし、そのどうでもよいことを、全力疾走しながら考えられるとは、ふむ、僕の循環論法癖じゅんかんろんぽうへきも堂にったか。


 入り口が迫ってくるにつれ、中央のスロープのてっぺんに、いっそう目立つ人影。


 紺色こんいろ甚平じんべいをまとって仁王立におうだちしているその人物こそ、誰あろう、虻川集一あぶかわ しゅういちであった。


 ヘラヘラと薄いみを浮かべている。


 まるで悪魔が人間を誘惑するときのような――


 組んだ腕の中に隠していた右手が、周囲の空気を切り裂き、ゆっくりとこちらへ差し出される。


 ま、まさか本当に僕を……


 果たしてそれは『食券しょっけん』であった。


「コンクリート・レヴォリューション!」


 わ、わけがわからん……


「な、なんだ……こんくりーと……?」


「なんとなく思いついた言葉だ、気にするな」


「いや、気になるだろ」


「それよりタカ、飯だ。ガルガンチュアの胃袋にかけて、飯を食らうのだ」


 教養を含んではいるが、わけのわからないアレンジで、人をけむに巻く。


 これがアブという男なのだ。


 甚平のそでひるがえして、前方にを進める。


 彼の背をあおぎつつ、僕はパノプティコン内部へと足を踏み入れた。


 さか昼飯時ひるめしどきとして、学食内は食事を求める学生でごった返していた。


 席はどこもいっぱいである。


 果たしてわれわれは座れるのだろうか?


 ガラス窓から差しこむ太陽光が、どこぞの老教授の禿頭とくとうを照らして、きらきら輝いている。


「タカ」


 アブに名前を呼ばれ、僕はわれに返った。


「またお得意の循環論法か」


「いや、席は取れるかなあと」


「数学科の籾山もみやま教授の、頂頭部における全反射の効率について考えていただろ?」


「おまっ、心が読めるのか!?」


「かもな」


 アブはハイスクール奇面組の一堂零みたいなイラつく横顔をさらして、食券交換所のほうへと歩いていく。


「あれ、そういえばこの食券は?」


「ああ、おごりだ。たまにはな」


 珍しいこともあるもんだと、僕は食券に記載されたメニューの文字を見やった。


「冷やし中華……」


「この熱い日に冷やし中華とは、お前にぴったりだろう?」


「どういう意味だよ」


「オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』を読むといい」


「答えになってないぞ」


凡庸ぼんようだということだ。この程度の皮肉アイロニーも理解できんとは、お前の頭脳はお花畑か肥溜こえだめだな」


「全国の冷やし中華好きの皆さんに謝れ。それにこれから飯を食うのに、汚い話はやめなさい」


「脳内でお姫様と踊るか、悪魔と水遊びするかだな」


「人の話を聞けっての」


 こんなくだらない会話をしつつ、食券と食事を交換していながらも、配膳はいぜんのおばちゃんは終始、にこにこしているのであった。


 ある意味で恐ろしい。


 この大学は魔窟まくつか?


 食券とできあがった冷やし中華を交換して、ふと気づいた。


 アブの姿がない。


 辺りを見回すと、学食の中央から10時の方向、ちょうど先ほどの数学科・籾山教授だかの真後ろのテーブルに、いつのまにか鎮座ちんざしている。


 屈折率の小さいガラス窓から差しこむいっぱいの太陽光が、教授の禿頭に反射して、アブの顔面をモロに照らし出している。


 心理学には後光効果ごこうこうかなるものがあるらしいが、前から浴びてはまぶしいだけだ。


 しかしアブはまゆ一つ動かさず、まるで観察でもするように、僕のほうへ視線を送っている。


 不気味だ、不気味すぎる。


 悪魔め、神の力で滅ぶがいい……


 はっ!?


 いかん、僕としたことが、のまれている!


 これでは完全に奴のペースだ!


 落ち着け。


 頭が切れるとはいえ、同じ人間なのだ。


 僕は自分をさとしながら、彼のほうへ向かった。


「急にいなくなるなよ」


「いやあ、席、取らなきゃと思ってな」


 アブの瞳は聞き手の心を包みこむような、慈愛じあい哀愁あいしゅうを帯びている。


 いかん、のみこまれるな。


「お前は何を頼んだんだ?」


「見てわからんのか、豚肉のしょうが焼き定食だ。お前は経験しても認識できんのか? カントも驚愕きょうがくするであろうな」


 いちいち教養を悪用してくる態度に、はらわたが煮えくり返りそうになるも、僕は黙って、彼と差し向かいに座った。


「このクソ暑いときに、よくそんなの食えるな」


「餓死しかけている者がいたら豚肉を持ってこいと、キルケゴールも申しておるだろうが」


「いや、申してないだろ、明らかに!」


「まあ食おうや。腹あ、減ってるからな」


 確かに腹は減っている。


 ぐうと鳴る音が聞こえそうだ。


 小鉢こばちに入れられたタレを、冷やし中華の全体に螺旋らせんを描いてかけ、ほどよくかき混ぜる。


 ひんやりとした冷気が顔を差して、いかにもおいしそうだ。


 いただきます。


「ここ、黒龍館大学農学部畜産学科の学徒は、とびきり優秀でな。品評会ひんぴょうかいの常連なのは、お前も聞きおよんでいるだろう。見ろ、このあぶらしたたり。まるでローマの噴水の残滓ざんしのように、みずみずしくんでいる。そしてこの厚さ。山をそびやかすような、オリンポスしんの肩のごとく、雄々おおしく、たくましい」


「いつから評論家になったんだ」


「俺にとってはこれがデフォなんだよ、タカ。お前が無教養なだけなのだ、圧倒的に。簡単明瞭かんたんめいりょう


「ぐ、ぬう……」


「どうした? ぐうのも出んのか?」


「いや、ぐうの音はいま出しただろ」


「どういう負けしみだ」


 僕たちはしばし、眼前がんぜんのご馳走ちそうをほおばった。


「ところでタカ、例の彼女とはどうなったんだ」


「……いい流れになってるよ」


 僕はいくらか、オブラートに包んで返答した。


 オペラに誘われた件をこいつにしたら、話がややこしくなりそうだ。


「オペラに誘われたそうだな」


 僕は口から『キュウリ』を吹いた。


 垂直に放たれたそれを、アブはたやすく指ではじいた。


 名状めいじょうしがたい戦慄せんりつが走る。


「なっ、なんでそれを……!」


「風のうわさにな。もっとも、この俺に知らぬことなどないのだがな」


 再びの戦慄に、周囲の空気がゆがんだように錯覚さっかくした。


渋澤しぶさわ教授に助けを求めただろ」


「そっ、そんなことまで……!」


「天が知り、地が知り、お前が知っていることは、すなわち俺も知っている。当然の帰着であろう?」


「確かに……って、んなわけないだろう! 誰から聞いた!?」


「答える必要はない。そんなことよりタカ、あの男はやめておいたほうがいい」


「と、いうと……?」


 アブは突然、まじめな面持おももちになって、そうり出した。


「渋澤教授のかつてのゼミ生だった男の話だがな、ちょうどいまのお前のように、最初はオペラはおろか、芸術なんて特に興味のない人間がいたのよ。何の気なしに、教授のゼミへ所属することになったんだが、それによってそいつの人生は、大きく変貌へんぼうをとげることになった」


 ごくり。


 僕は生唾なまつばをのんだ。


「教授の指導で芸術学を学ぶうち、その男は次第に、クラシック音楽や声楽、果てはオペラに、深い造詣ぞうけいを持つようになっていった」


 汗が一筋ひとすじ


 いったいその学生が、どうなったというんだ。


「で、そいつは」


「そいつは……?」


「きわめて優秀な成績で、大学を卒業した」


「……は?」


 なんだ、いい話じゃないか。


 それの何が問題だというんだ?


「まあ、最後まで聞け。ことが起こったのは、そいつが大学を卒業したあとなんだ」


 な、卒業したあと……?


 いったい、どういうことだ……?


「その男は、名前を聞けば誰でも知っている、大手の音楽雑誌出版社の編集部に就職した。だがそこで、異変が起こったわけだ」


「異変とは、いったい……?」


「その段階でそいつは、重度の『音楽狂おんがくきょう』に変貌していたのよ。頭にはつねに音楽が鳴っている状態。だがむしろ、当人はそれが幸福でならなかった。花を見ればシューベルトの歌曲を口ずさみ、鳥を見つければマーラーの交響曲の音型を鼻歌でなぞった。はじめは周囲も個性的な新入社員だと、ほほえましく感じていたが、次第しだいに頭がやばいんじゃないかと、陰口かげぐちを言うようになる。そしてついには……」


「ついには……?」


「勤務先の編集部の副部長、出版社の取締役の一人の愛娘まなむすめだったんだが、彼女にぞっこんになってな。ワーグナーのオペラを引用して、しつこくくどいたのさ。社内はおろか、勤務外でもつきまとってな。警察に通報され、あやうくストーカーに登録されかけた。で、結局……」


「結局……?」


「会社をクビになった」


「……」


「渋澤教授は、まあ、悪意があるわけじゃあないだろうが、自分にかかわった人間を、一種の『音楽廃人』に作り変えてしまう悪癖あくへきがあるのさ」


 なんということだ。


 そんな雰囲気は感じていたが、実例が存在するとは……


 僕もこのままでは、その学生のように、音楽廃人に改造されてしまう、というのだろうか?


「だからタカ、悪いことはいわん。実害が出る前に、あのおっさんは切ったほうがいい。破滅するだけだぞ」


 破滅――


 その単語に、僕は言い知れない、恐怖のようなものを覚えた。


 朱音あかねさんからオペラデートに誘われた手前、軽い気持ちで渋澤教授に運命をたくしたのは、間違いだったのだろうか?


「オペラの件は適当にあわせればいい。それよりもタカ、友人として、お前が落ちていくところは見るに耐えない。なあに、予定が変わったとか、適当な理由なんて、いくらでも作れるだろ」


 うーむ、どうしたものか……


 確かにアブのいうとおり、朱音さんには悪いけれど、ほとんど予備知識なしでも、それなりに相手をすることはできるかもしれない。


 大なり小なり恥はかくだろうけれど、渋澤教授の手にかかって最悪、人生を棒に振るよりは、ずっとよさそうだ。


「結論は出たか?」


「うーん、教授には悪いけれど……」


「それが正しい選択だ。君子危うきに近寄らずってな。取り返しのつかなくなる前に、ああ、それこそ、あんな風になる前にな」


「……?」


 アブは僕のななめうしろの方角ほうがくを指差した。


 僕はその先にひょいと視線を移した。


 何か異様な光景だった。


 ボロボロのジーンズは、あえてダメージをつけたとはいえようもなく、赤いチェックのワイシャツから除く、チェ・ゲバラの顔面もゆがんでいる。


 肩から下げたネズミ色の大きなバッグは、ほとんど引きずっているかのようだ。


 恥をしのんでいうが、人間だと認識するのに、時間的なギャップがあった。


 『彼』はやつれた面長おもながの顔と、ボサボサの半端はんぱなロングヘアを、まるで重力のおもちゃにさせるように垂れ下げ、なにやら見えない力に操られるがのごとく、学食の中央を縦に切る通路を歩いていく。


「あれ、『カマタク』じゃないか?」


「え――?」


 カマタク、鎌田拓かまた ひらく――


 僕やアブが通っていた高校の、一学級下の後輩の名前だ。


 黒龍館大学に入学したと話には聞いていたが、はて、あんなやつだったっけ?


 僕は会話自体したことはないし、ただそういう生徒がいる程度の認識だった。


 おとなしいという話を聞いたことがあったくらいとはいえ、ううん……


 僕の中のイメージと、まるで合致がっちしないぞ?


「そういえばあいつ、渋澤教授のゼミで研修生みたいなことをやっていると、聞いたことがあるぞ」


 な……


「高校時代は寡黙かもくなやつとはいえ、身なりはしっかりしていたが、おおかたあいつも、教授の手にかかって、あんな風にされちまったんだろうよ」


 おそろしい、他人ごとでは決してない点が……


 僕はカマタクに、何かあわれみにも似た同情を覚えた。


 彼はソウルのはがれかかったビーチサンダルをピタピタいわせながら、そのまま学食の出口に消えていった。


 葬列でも見ているかのような印象だった。


 しかし入口から出口にスルーするだけとは、いったいやつはここへ何をしに来たんだ?


「な、悪いことはいわん。ああなりたくなかったら、今日の講義が終わったら、教授に断りを入れてくることだ」


「……そうしたほうが、よさそうだな」


「うむ、この件は万事解決だな。そうと決まればタカ、食おうや」


「そうだな、昼休みももう少しで終わりだしな」


「そのとおり、時間は有限だ。昼休みなど一瞬だ。宇宙のたゆたう潮流ちょうりゅうから見ればな」


 またアブの教養が炸裂さくれつしそうだったので、僕は聞いていないふりをし、冷やし中華の残りをかきこんだ。


 アブはといえば、分厚い豚肉に満足そうな顔でかぶりついている。


 なんだかんだで、僕のことを考えてくれているところが、どこか憎めない。


 持つべきは、よき友か。


 ふむ。


「ああっ、シュウちゃんがミルドレッドちゃんを食べてるうっ!」


 突如とつじょ、耳をつんざく奇声に、僕は再び『キュウリ』を吹いた。


「花火か。そうか、これはお前が手にかけた豚であったか」


「そうだよーっ、ミルドレッドちゃんっていうんだよーっ。花火ちゃんがこのあいだ、ほふったばっかりのコなんだよおっ。ほふほふうっ!」


 出現したこの女性は、敷島花火しきしま はなび――


 高校のころからアブとつきあっていて、いまはここ黒龍館大学の、農学部畜産学科に在籍ざいせきしている。


 ネジが2、3本はぶっ飛んでいるような人だが、アブとは波長があうらしい。


「タカよ、ミルドレッドとは、小説『肉体の悪魔』に登場する悪女の名だ。花火は大学で育てている豚に、悪女の名前をつけるへきがある」


「悪女って……」


「あっ、タカちゃんだ! ほふほふうっ!」


「いま気づいたのかな……」


「そうだよーっ、タカちゃんってまるで存在感ないからねえ!」


 つらい……


「そのへんにしておけ、タカが傷つくだろうが。こいつは豆腐メンタルなんだからな」


「ええっ! タカちゃんの脳みそって、豆腐でできてるのおっ!? スッカスカなんだねえ!」


 あんまりだ……


「黙らんか、花火。それより、見ただけでどの豚かわかるのか?」


「あったりまえでしょー! 花火ちゃんが愛情をこめて育てたコなんだから! シュウちゃんこそ侮辱ぶじょくするとほふっちゃうよー! ほふほふうっ!」


 僕はいいかげん、こんな怪物どもと一緒にいて、脳内が侵食しんしょくされないか、不安になってくる。


「この前話していた、コンスタンツェとアルマはどうしたんだ?」


「コンスタンツェちゃんはウルフィのとこ、アルマちゃんは、うーん、グロピウスと仲良くやってるかなー?」


「要はほふったわけだな」


「そうだよー、ほふほふうっ!」


 こわいよ、とても……


「お前の手塩にかけた豚は美味だったぞ。しかし愛情をこめておいて、ためらいもなくほふるとは、おそろしいやつよ」


「愛しているからこそ、ほふれるんだよー。ほふほふうっ!」


黒蜥蜴くろとかげか、お前は」


 この場から消えたくなってきた……


 こいつらといると、疲れる……


「タカ」


「うん?」


「昼休み」


「あ……」


 腕時計をかざすと、時刻は12時50分――


 いかん、講義に遅刻する。


「時間に支配されてるのー? やっぱりタカちゃんはポンコツなんだねえ!」


「しめるぞ、花火。タカ、講義に遅れんようにな」


「あれ、アブ、お前は……」


「ああ、俺は腹がふくれて満足したから、ふける・・・


「……」


「シュウちゃん、悪いやつ! じゃあ、花火ちゃんとデートしよー! 新しく入った、アントワネットちゃんを見せたげるー!」


「名前をつけられたときから、運命が決められているとはな……」


 アブはお茶をすすって立ち上がると、そっと僕に耳打ちした。


「タカ、くれぐれも」


「……うん、うまくやるよ」


 花火ちゃんを連れ立って、そそくさとその場を後にしていった。


 二人の口ずさむドナドナのメロディが、荒涼こうりょうとした大地のような僕の心を、さらに蹂躙じゅうりんするかのようだった。


 しかし、立ち止まっている時間はない。


 午後の講義が始まってしまう。


 僕はふらつく体にかつを入れつつ、学食を後にした。


 もう走る気にはなれなかった。


 少しくらい遅れてもいいかなと、開き直っていた。


 そんなことより、渋澤教授だ。


 講義が終わったら、教授にあわなくては。


 きっぱり断らないと、逆にえらい目にあうかもしれない。


 なんにせよ、疲れそうだ。


 ため息が出る。


 いまの僕は、さっきのカマタクのように歩いているんだろうか?


 一言いちごんもない。


 パノプティコンに反射した太陽光の作り出す影が、とぼとぼ歩く僕自身の姿を、いつまでもあざ笑っているかのようだった――

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オペラ座の変人 朽木桜斎 @kuchiki-ohsai

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