第2話
***
空を見れば、雲一つない綺麗な青空が広がっていた。まさに夏と呼ぶに相応しい晴天を見ながら、けれど昨日のようにいつ夕立が襲い掛かるか分からないと、少しだけ穿った目で捉えている僕がいた。
今は昼休みで、周りの皆はそれぞれの友達と楽しそうに談笑している。そんな声をBGMにしながら、僕は空を見つめていた。
滝のような夕立に見舞われたとは思えないくらい澄んだ空に、昨日の古びた教会の跡地で起こった出来事も夢ではないかと思えて来る。
だけど――、
「ここの近くの廃屋に幽霊が住んでるって知ってる?」
「あの林の中のことだろ? 俺は魔女って聞いたぜ」
クラスメイト同士で交わされる噂話を耳にして、現実に起こっていたことだと思い知らされる。いや。噂の内容からしたら、ファンタジー色が混じっているような気がするのだが、僕は噂の張本人と対面して彼女の名前が沙耶さんだということも知っている。
昨日の現実離れした夢みたいな出来事を、思い返す。
まるで滝のように降り注ぐ夕立によって視界すらも閉ざされそうな中、古びた教会の影を林の中に捉えた僕は、これ以上ずぶ濡れになるのを防ぐために後先考えずに訪れた。
玄関前にいるのは、一匹の黒猫だけだった。
ただでさえ田舎という悪立地に加え、こんなにも古びた場所だ。当然ながら、ここには僕以外の人間はいないと踏んでいた。
なのに、僕の頭上に人の気配を感じたと同時、
「なんか話し声が聞こえたと思ったから来てみれば、まさかこんなところに人が来ようとはねぇ」
あからさまに人間に向けた会話が、降り注いで来た。
意図せず、目が合ってしまった。僕を見下ろす形で立っていたのは、五十代後半くらいの背筋が整った淑女だった。
驚きのあまり、僕は反射的に体勢を立て直した。視界が塞がれるほどの雨景色を、淑女は見つめていた。
「この夕立の中で、わざわざここに訪れるなんて、とんだ物好きもいるもんだねぇ」
「そ、それは、僕の……」
ようやく僕の口から言葉が出て来た。けれど、言おうとした言葉は、最後まで紡がれなかった。こんなところで人に会うとは思いもしなかった動揺と、人見知りする性格が、ここでも露骨に現れてしまった。
淑女はふっと一息を吐くと、
「で、和斗くんは、どうしてこんなところにいるんだい?」
ドキリと胸が弾んだ。まだ僕はこの人に自分の名前を紹介なんてしていないのに、どうして知られているのだろう。彼女の纏う雰囲気と古びた教会の雰囲気から、目の前にいるのは人でなく魔女ではないのかという不安が漂った。
「なんで僕の名前……」
「さっき自分でその子に語りかけていたところじゃないかい」
淑女は僕の隣にいる黒猫を指さしながら言った。
そうか、黒猫との独り言を聞かれてしまっていたのか。種が分かれば、なんてことのないことだった。多少の恥ずかしさを憶えて、僕は黙り込んでしまった。
暫しの間、僕と淑女と黒猫を満たす音は、滝のような轟音を奏でる雨音だけだった。
夕立が酷いタイミングでなかったら、僕はこの場から一目散に逃げていたけれど、そうは問屋が許さない。
どうしようと居たたまれなくなった僕の耳に、
「さや」
意識していなければ雨音にかき消されてしまいそうな声が聞こえた。突然に言葉が発せられていたから、一瞬淑女が何を言ったのか分からなかった。
淑女は自分に向けて指を差すと、
「私の名前、沙耶って言うんだ。こっちだけ一方的に知っているというのも、和斗くんからしたら気味が悪いだろう?」
「あ、いえ……」
謎の淑女――沙耶さんの気遣いに、僕は曖昧に頷くことで返した。先ほどまで名前なんて気にならなかったけれど、教えてもらった途端、少しだけ親しみも湧いて来るから不思議だ。
「それにしても、いつ雨が止むか分からないねぇ。立ち話も何だし、座らせてもらうよ」
淑女が黒猫の横に立ったことで、黒猫は少しだけ僕の方に近付いた。その空いた分のスペースに、淑女が腰を掛けた。当然僕には拒否権はないから、受け入れることしか出来なかった。
古びた教会の跡地の屋根の下、黒猫を挟んで、何倍も年の離れた淑女と僕は座りあっている。何だろう、この空間は。自分の置かれている状況が、よく分からなくなってくる。
「で、ただの雨宿りならいいけど……、そうじゃないんだろう?」
「……なんで」
「只事ではないくらい、和斗くんの顔を見れば分かるさ」
沙耶さんは悪戯っぽく綺麗に片目を閉じた。僕の心の中を言い当てる彼女は、やっぱり魔女かもしれないと思った。
「友達と喧嘩でもしたのかい?」
「喧嘩……、なら良かったんだけどね」
「訳ありかい? 私で良かったら聞くよ」
僕は一瞬悩んだ。僕の小さな悩みを、今初めて出会ったばかりの人に打ち明けても本当に良いのだろうか。
僕の逡巡を察したのか、沙耶さんは「気が向いたらでいいさ」と僕の気持ちを優先してくれた。実際、沙耶さんに深堀する気はないようで、屋根の外で広がる雨景色を見つめていた。
「でもまぁ、互いに知らないからこそ、話せることもあるかもしれないよ」
沙耶さんはポツリと言葉を漏らした。
どちらに気持ちが傾いても僕がしたいようにしてくれる、沙耶さんの優しさに触れ、
「実は、今まで兄弟にように仲の良かったルイっていう幼馴染がいたんだけど、その人が先週転校してしまったんだ」
僕は自然と言葉を紡ぐようになっていた。
僕にはずっと一緒に育って来た『累』という幼馴染がいた。何をするにしても引っ込み思案な僕を、累はいつも引っ張ってくれた。人と話す時は間を取りもってくれたり、宿題に悩む時は一緒に考えてくれたりもした。累にだけは、僕は自分を晒すことが出来た。
幼馴染という関係を越えて、いつも累は僕に優しくしてくれた。そのことに、僕は甘え切っていた。
だから、累が父親の仕事の関係でこの町を去ってしまった途端、僕は一人っきりになってしまった。誰かと話すにしても、いつも幼馴染経由で話しかけていた僕に、わざわざ話してくれる人はいない。
自分から勇気を出して声を掛けようと意気込むも、近付こうとするだけで心臓が高鳴ってしまい断念した。根っからの性格が邪魔をして、僕は誰かと一から関係性を築くことは出来なかった。
「僕はずっとその幼馴染に頼りきりになっていたんだって痛感させられたんだ。一人じゃ何も出来ないことが嫌になって、気付けば学校を飛び出して、夕立に打たれて……」
自分自身でも考えなしな行動だと思う。
だけど、湧き出る感情を抑えることが出来ずに、全力で走ることで発散したかった。それしか方法は知らなかった。結果は、消化不良になってしまったけれど。
幼く情けない僕の告白を、沙耶さんは馬鹿にすることはなかった。言葉を区切る度、しきりに頷いてくれ、僕の話が終わるや否や。
「和斗くんにとって、その子は特別だったんだねぇ」
僕を受け入れ、慰めてくれた。
「だけど、別れはある意味チャンスさ。自分の世界を広げるためのね」
そうして夕立が止むまで、僕と沙耶さんは雨音を聞きながら、ポツリポツリと話していた。と言っても、ほとんどは僕が零した悩みというか弱音というかに対して、沙耶さんが元気づけるような一言を言ってくれるだけだった。
夕立が止み、雲間から太陽の陽射しが降り注ぐと、まず最初に動き出したのは黒猫だった。黒猫は大きく伸びをすると、未練すらも感じさせないように屋根の下から飛び出して、そのまま林の中へと消えた。
黒猫の行動に従って流れ解散となったところ、沙耶さんは僕に対してエールを送ってくれたのだが――、
「やっぱ僕には勇気が出なかったよ……」
そう簡単に変わるのであれば、ここまで悩んではいない。やはり引っ込み思案な僕にとって、自分から行くということは無謀そのものだ。
朝に登校して、昼食時間が過ぎ、気付けば下校時間となっていた。今日話した人は担任の先生だけで、当たり障りのない連絡事項だけだった。
これからどうしよう。僕はこれからずっと一人で学校生活を送らないといけないのだろうか。そう思うと、少しばかり憂鬱だ。
「……あれ」
校門を出て、家までの遠い道のりに向けて一歩踏み出したところ、一匹の黒猫が尻尾を振りながら散歩している姿を捉えた。猫なんてこの世にたくさんいっぱいいる。だから、目の前にいる黒猫が、昨日の黒猫と一緒だとは限らない。むしろ、その可能性は低いだろう。
「にゃぁお」
僕の視線に気付いたのか、黒猫は一瞬だけ振り返り、自分の道へと大きな足取りで進んでいった。昨日の黒猫だと、すぐに分かった。
歩く度に揺れる尻尾を見つめながら、僕は黒猫の後を追いかけることにした。人間みたいな自由意思は動物にはないから、どこに行くかは分からない。
だけど、この時の僕は何故か、この黒猫が向かう場所を直感的に察していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます