第五章 最後の一人

 奥殿へ向かう入口には小さな鳥居が一つ立っている。全てが灰色に染まった中、その奥へと続く道は一層濃密な闇と霧に包まれていた。智樹は15年前の記憶に引き戻されるように、思わず足を止める。

「怖い?」

それはかつて霧子が智樹に聞いたのと同じ問い。

「……ああ、怖い」

 答えは15年前とは違っていた。——いや、実際15年前だって怖かった。子供なりに強がっていただけだった。

「……そうだよね」

 霧子は多くを語らない。儀式によって町が救われることはわかった。けれどその手順は?そもそも、なぜ霧子はそれを知っている?なにか大切なことを彼女は隠している。——智樹はそんな疑念を感じ始めていた。だが、何を聞けば良いのかもわからない。そもそも答えが返ってくるのかさえもわからない。今も、動かないままでいる智樹を急かそうともせず、智樹の後ろについている。智樹と霧子と——それは15年前の再現のようでもあった。闇の奥は、本当に15年前に繋がっているように思える。

 ゆらり、と霧が揺れる。それは智樹を誘い込むように鳥居の奥へと流れていく。意思のあるかのようなそれに背筋を冷たいものがすべり落ちる。しかし、智樹の足はその気配に誘われるまま、奥殿へと踏み出した。ざく、ざくと土を踏む自分の足音がいやに大きく響いて聞こえた。

 いくらも歩かないうちに、奥殿の小さな社が見えた。霧と闇の中、ここだけは15年前と何一つ変わっていないように見えた。社の前で足を止める。

「それで、——俺はここで何をすればいいんだ」

「儀式の手順を覚えてる?」

智樹の問いに霧子は問いをもって返す。儀式の手順はごく簡単なもので、それは智樹の記憶にも残っていた。供物を備え、祝詞を唱える。それだけだったはずだ。

「……供物と、祝詞」

そう、と答えて霧子は社の前へと歩み出る。

「供物をお供えして、祝詞を唱えて、一礼して終わり。——智樹には、祝詞をお願いしたいの」

 15年前の儀式の練習で何度も聞かされたその祝詞は、何を言っているのかさっぱりわからずに智樹は辟易していたことを思い出す。

「あの呪文みたいな祝詞……さすがに覚えてないぞ」

「大丈夫、私が言う通りに唱えてくれればいい——私じゃ、駄目だから」

 霧子はあの祝詞を覚えていたのだろうか。いや、それよりも。

「駄目って?」

「祝詞には、生きてる人の力……みたいなものが必要なの。だけど、——言ったでしょう。私は夜霧津尊の『食べ残し』。私が唱えるのでは足りないの。だから、智樹に手伝ってほしい」

 改めて目の前の霧子を見る。15年前と変わらない姿。そして初めから感じていた妙な存在感の薄さ。生者と死者。そんな対比を思い浮かべ、思わず口に出た。

「君は、死者なのか」

しかし、霧子はあいまいに首を振り

「どっちでもあるし、どっちでもない……んだと思う。今の私は言葉の通りの『食べ残し』。ごめんなさい、これ以上はどう説明すればいいのかわからない」

そう答え、目を伏せた。智樹はそれ以上追及する訳もいかず、話を儀式に引き戻す。

「祝詞についてはわかった。で、供物はどうするんだ。ここには何もない」

 智樹の言葉に、霧子が一瞬おびえるように身を竦めた。

「……夜霧津尊に捧げる供物はあの夜と変わらない」

「どういうことだ?」

問い返す言葉に、霧子は先ほどと同じく努めて軽い口調で「供物は、私」と返した。

 ……はじめ、智樹にはその言葉の意味が分からなかった。霧子はそれに気付かぬ風に話を続ける。

「15年前、儀式に失敗した私は夜霧津尊に食べられた。だけど、それは中途半端に食べ残されて『私』という存在が残った。それでも夜霧津尊は眠ってくれたけれど……やっぱり失敗は失敗で……不完全で。

 ——あとはさっきも言った通り。今の町は私と同じようなものよ。生きているとも、死んでいるとも言えないどっちつかずの状態」

息をつく。

「君は15年前からずっと町にいたのか」

 全て、見ていたのだろうか。町が霧に覆われ人々が混乱の中静かに消えていくその様子を。その問いに、霧子はこくりとうなずいた。

「夜霧津尊を鎮めるにはもう一度、儀式を成功させる必要があるの。そして、供物の対象は15年前から変わってない。私という存在を全て捧げることで今度こそ夜霧津尊は鎮まり、眠りについてくれる」

「だけどそうしたら君は」

「——たぶん今度こそ本当に死ぬ、でしょうね。だけど今の状態よりは良いと思わない?中途半端な食べ残しに比べれば」

 そうなのだろうか。智樹には、霧子の思いを理解することは出来ない。町はそれで救われる。しかし、霧子は今度こそすべて夜霧津尊に取り込まれる。あの恐ろしい闇の中に。それは本当に死なのだろうか。更なる苦しみを彼女に与えるだけなのではないか。智樹のそんな葛藤を感じ取ったのか、霧子は智樹の手に己の手を重ねる。ひやりとした感覚。しかし、よく見るとその手は薄く透け、智樹の手を通り抜けてしまいそうに見えた。

「おねがい。町を救うにはそれしかないの。それに……私を、助けて」

 まるで幼い子供に言い含めるような口調だが、霧子の体がかたかたと震えているのが見て取れる。しかし、その目は真っすぐに智樹を見つめて——少しの沈黙のあと。

「おねがい、智樹」

強い口調。そして、智樹の返事も聞かず。

「始めましょう」

言うと、社の前に跪いた。


 * * *


 霧子が社へ深々と額づいた瞬間、奥殿の空気が変わるのを感じた。より冷たく、より暗く。霧子の小さな背中を智樹は一歩下がった場所からじっと見つめていた。

 祝詞を、——そう思うが、思うように言葉が出てこない。言葉では言い表せない不安が胸の中に広がっていく。闇と霧がいっそう深く立ち込めて二人を囲い込む。まるで、逃がさないとでもいうように。ゆらゆらと揺れる闇はまるで現実感がない。目の前の霧子と同じように。

 そうしてどれほど経ったか。何分も経っていたかもしれないし、数秒のことだったかもしれない。ともかくとして黙ったままでいる智樹に、霧子は囁くように促した。

「智樹……祝詞を」

 そうだ。祝詞がなければ儀式は成立しない。その結果が何を呼ぶのかもわからず、促されるまま智樹は口を開いた。驚いたことに、ろくに覚えてもいなかった祝詞はするすると言葉になって流れていく。霧子の先導も必要なかった。なぜか、わかる。

「時巡り給へり 此の時に——」

 滔々と唱えられる祝詞は闇の中に吸い込まれていく。闇は一層濃く深く凝縮していく。……そのうちに、闇の塊とでも言うべき存在が、社の前に現れていた。

「——霧の子と選ばれし者の息吹——」

 この儀式で霧子はあの恐ろしい闇に捧げられる。その引鉄を引いているのはほかならぬ自分自身であることに、智樹の心は重く沈む。闇がざわざわと霧子へとその手を伸ばす。彼女は今どれほどの恐怖の中にいるのだろう。しかし、一度始まった流れは止められない。祝詞は終わりへと差し掛かる。

「——夜霧津尊よ  御心を鎮め給へ この地を再び護り給へ」

 ざあ、と。最後の一言を合図にするように音を立てて闇が霧子へと一斉に襲い掛かる。その背に、手足に、首筋に闇が巻き付く。——その様子を見たくなくて智樹は思わず目を反らせるが、その瞬間何かが彼の視界をかすめた。闇の中に、白い。

「霧子……?」

 目の前で闇に覆われようとする少女と同じ姿の。その姿に、智樹はようやく霧子の『食べ残し』の意味を理解した。彼女は本当に『食べ残されて』いた。闇の中にいるのは、霧子の『食べられた』部分。

「ああ、これで終われる……これで……もとどおりに……」

 霧子は熱に浮かされたようにつぶやき、闇がまとわりつくままもう一人の自分に手を伸ばす。

「これで……これで、……!?」

 うわごとのように繰り返し、必死に手を伸ばす。……しかし、その手はもう一人には届かなかった。半ば透けた彼女の手が、もう一方の白い手をつかむことはなく、するりと通り抜け力なく地に落ちる。

「なんで、……っなんで!!」

叫ぶその声は悲痛に満ちている。智樹は何事が起きているのかもわからず呆然とその姿を見つめていたが、ふと霧子の言葉を思い出した。

——『不完全に食べられちゃったの』

 祝詞には生者の力が要ると彼女は言った。では供物は?供物も本当は実体を持つ存在でないといけなかったのではないか?霧子が食べられたのは15年前。肉体はその時に失われている。——そうだとすれば。

「足りないんだ」

呆然とつぶやいたその声に、霧子がこちらを仰ぎ見る。闇は霧子の姿をほぼ覆い隠すように拡大していた。すう、とわずかに残った左目から涙が伝うのが見えた。

「……返してよ、私の体……返して、返してよお!!」

言うが早いか、がむしゃらに闇へと両手を伸ばす。しかし、その手はどう頑張っても闇の中には届かない。やがて、霧子は地面へうずくまりすすり泣く。その姿は15年前、霧子に手を引かれてただひたすら逃げるだけだったかつての自分の姿にどこか重なって見えた。足が自然と前へ出る。闇の前へ、霧子をかばうように。

 このままでは霧子は救われない。町もこのまま消えてしまうだろう。祝詞には生者の力が必要だった。供物も生者である必要があるというのなら。

「ともき……?」

 霧子のかすれた声が、智樹の耳に届いた。その声には、絶望と諦めがにじんでいる。智樹は立ち尽くし、霧子と、彼女を飲み込もうとする闇を見つめた。——全てが失われようとしている。霧子も、この町も。もう助けることができないのだろうか。……いや。

 15年前の情景が再び蘇る。霧子に手を引かれ闇の中を逃げ続けたあの夜。霧子は最後に自分を助けてくれた。その姿が脳裏に浮かぶ。それならば、今度は。

「俺が行く」

 つぶやく声がやけに重くあたりに響いた。霧子は信じられないといった様子で智樹を見つめている。

「ともき?」

再度の問いかけ。それは酷く幼く、かつての彼女を思い起こさせた。

——『ぼくがきりちゃんのかわりに』

——『きりちゃんはここにいて!』

そう言ったのは15年前の自分だった。何一つ変わっていないように思える。

「俺が……俺が代わりに行く」

「何を言って……」

「霧子はここにいて」

言って、微笑んだ。心は不思議な程に凪いでいる。恐怖も、不安もそこにはない。ただ霧子を救いたい。それだけが智樹の中にあった。

「智樹!!」

 叫ぶような霧子の強い制止も智樹には届かない。智樹は、目の前に広がる闇に向かって声を張り上げた。

「俺の命をくれてやる!だから霧子を離せ!!」

 叫びは、智樹の全身全霊を込めた決意そのものだった。闇は一瞬思案するかのように揺れ、次の瞬間には霧子を覆う闇が後退し始める。入れ替わるように、闇の気配が智樹に向かって集まり始める。

「智樹!だめ……嫌ぁ!!」

 霧子の叫びを背景に、闇が智樹の全身を包み込む。とさりと、何か軽いものが落ちるような音がした。ほとんど覆いつくされた片目で覗い見ると、霧子が二人。眠るように動かない15年前の霧子と、こちらを見て泣き叫んでいる霧子。

 次第に動かなくなっていく体に、精一杯の力をこめて智樹は微笑んだ。

「きりちゃん、今度は俺が守るから。」

それが、最後の言葉となり智樹の意識は闇の中に完全に消失した。

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