第四章 夜霧津尊
霧津神社は町の西、小高い丘から東へ向かって町を見下ろすように位置している。神社が近づくにつれ、智樹は自分の心に重く、冷たいものが圧し掛かってくるのを感じていた。そこへ行くべきではないと進むのを拒んでいる自分がいる。同調するように頭痛は引かず、絶えず智樹を苛んでいた。それでも彼は歩みを止めない。まるで霧が彼を誘い込むかのように揺らめき、流れていていく。やがて神社の石鳥居の前に足を止めた。扁額は煤けており、ただでさえ薄暗い霧の中では書かれた文字までは見えない。少女——霧子はここに来れば何があったかわかると言った。しかし、周囲は息を潜めるように揺らめく人影以外誰もいない。ここまで来て引き返すわけにも行かず、智樹は覚悟を決め、鳥居の中へと一歩を踏み出す。
神社はさほど広くはなく、鳥居をくぐれば正面に拝殿、左手側には神主の住居を兼ねた社務所、右手に手水所があるだけの簡素な作りになっている。どこに行けば何がわかるというのか困惑してあたりをぐるりと見回すと、拝殿の前に揺らめく人影が見えた。町で見た霧で出来たような人影。だが、それは他の人影とは異なり社務所を示すように影を伸ばしている。智樹は人影が消えてしまわないよう、注意してそれに近づく。
「夜霧津の……荒ぶる神が……」
そう聞こえた
「失敗した……失敗した……あの子供が……」
二度ほど繰り返して人影はふっと消えてしまう。『夜霧津』はこの霧津神社に祀られている祭神の名前だ。子供のころに誰かから教えられた記憶がある。だが、荒ぶる神とは一体?それに、『失敗』と『子供』。心の奥深くに閉じ込めたものがあふれ出てくるような感覚を覚え、頭痛が一層強くなる。
「——っ」
思わずしゃがみこんだ智樹の頬にひやりと何かが触れたような気がした。冷たいけれど、どこか優しい気配に痛みがわずかに和らぐ。視線を上げると、そこには霧子が居た。
「大丈夫?」
心配そうにこちらを見下ろしている。
「……うん、大丈夫」
実際のところ万全とはいかなかったが反射的にそう答え、ゆっくりと立ち上がる。霧子の手が離れるのに、何とも言えない寂しさを覚える。霧子は先ほどまで人影がいた場所をじっと見つめていた。智樹もその視線を辿り、そして人影の示した先を見る。人影は社務所の建物を示していた。表札には「東野」と書かれていた。
「叔父さん」
霧子のつぶやく声が聞こえる。
玄関は引き戸になっており、引くと重々しく開いた。右手は社務所へ続いており、その他にも二階へ上がる階段やいくつかの扉がある。どこから何を探せばいいのか——。
「……こっち」
智樹が困惑していると、霧子は一瞬躊躇するような素振りを見せたが、そのまま家の奥へと進んでいく。一階奥、ちょうど社務所の隣にあたるその部屋は広く開かれた窓から拝殿の側面が見えるようになっていた。別な状況であれば景色を眺めて楽しむことが出来ただろうが、今はすべて霧の灰色に染め上げられ暗い雰囲気を纏っている。
その部屋の片隅、背の低い本棚に並んで配置された文机を霧子が差し示した。文机には数冊の手帳が無造作に放置されている。
「あれを読めば、何が起きたのか大体わかるはず」
「君は何か知らないのか」
「知っているけど……私が説明するのは難しい」
「なんで」
「理由があるの」
やり取りにもどかしさを感じながら手帳の一冊に手を伸ばす。それは、霧津神社の神主の日記であるらしかった。初めの数冊はなんということのない日常を記したものだった。様相が変わってくるのは今から約一年ほど前のものから。
『ここ最近、町に霧が出ることが増えたように思う。霧の季節には早い筈だが、そもそも霧の多い町だから気にすることもないと思うが、普段は外で元気に遊んでいる子供たちが霧を妙に怖がっているので妻がうちの集会所を子供たちの遊び場に解放した。家の中が賑やかだ』
『今日も霧。昼になっても晴れることはなく町一帯が曇っている。午後になり、氏子総代が訪ねてきた。今年の祭りについて相談。霧が心配だが予定通り実施で進める』
そこまで読み進め、次のページへめくったところで手が止まった。
『今年も祭祀は無事に終了。15年前のことを思い出す。代々の神職に伝わる警告は、10年毎の儀式の失敗を固く禁じるものだった。15年前のあの日、霧子は戻ってこなかった。儀式が失敗したかと思ったが、特に何事も起こらず今に至っている。私の考えすぎだったのか、先代の教えが大げさだったのか……』
閉じ込めたものが溢れ出てくるような感覚が蘇ってくる。15年前の、儀式?
(俺が9歳の頃——)
そのことはかすかに覚えている。町の祭りの大切な役に選ばれたのがその年だったはずだ。毎日学校帰りに神社に寄って役目について練習し、幼い智樹には手順の一つ一つが厳密に決められたその練習は酷く堅苦しく、つまらないものに感じていた。だが、それだけだったはず——いや。肝心の祭りの日のことがすっぽりと記憶にない。単に覚えていないだけだろうか?そう考えもしたが、何かが溢れてくる感覚は止まらない。
「15年前に、何があった?」
智樹の問いに霧子は答えない。仕方なく、日記の続きを読み進める。日記にはその後も町に霧が出ること、霧はどんどんと濃くなっていくこと、そして町の住民が少しずつ消失していく様子が記されていた。
『この霧は異常だ。町はすっかり霧に呑み込まれてしまい、電話も使えなくなった。何人かが外へ避難しようとしたが出られなかったという話も聞く。外に出られないとは一体どういうことだ?何が起こっている?』
『氏子総代の家を訪ねてみたが誰も居なかった。しかし、霧の中で人影を見たような気がする。誰か、近所の人だったのだろうか?声をかけてみたが返事はなかった』
『蔵の書物を調べてみた。やはりこの霧はあの時霧子が戻らなかったことに関係があるのではないか。そもそも何故霧子は戻らなかったのか。……先代の記録には何もなかった。もっと遡る必要があるのだろうか』
『蔵の書物をひっくり返し、ようやく見つけた。もともとこの地は夜霧津尊という神の治める土地だったらしい。そこへ人々が入り込み、住みついて神の怒りを買ってしまい夜霧津尊は夜ごと霧とともに現れて住民を闇に引きずり込んでいったという。
人々は神へ生贄を捧げることで許しを得、その地への定着を許された。……ほとんど神話のようなものだ。だが、それ以降、住人は儀式を行い、定期的に生贄を捧げることで夜霧津尊を鎮めていたらしい。それが現代にまで伝わっている。
先代からさんざんに言い含められた10年に一度の儀式はこのことを示しているのだろうか。しかし、私が聞いた中で儀式で人が生贄に捧げられた話などは聞いたことがない。時代が進むにつれ、儀式の手順が変化していったのか?』
『妻が消えた。町にはゆらゆらと揺れる人影のようなものが漂っている。住人の消失は続いている。もしかして、消えた人たちはあの人影になっているのだろうか。そうならば私の妻もあの中のどれかなのだろうか。そして、私もあの中の一つになるのだろうか』
『書物の内容と先代の言葉を信じるなら、この状況は、やはり15年前の儀式が失敗していたことを示しているのだろう。15年間、夜霧津尊は霧子を贄として鎮まっていたにすぎないのかもしれない。あの日をもう一度やり直すことが出来たなら。しかし、霧子はもう居ない。次の「霧」の子もまだ定まっていない。出来ることはもうない。私もこのまま、妻と同じところに行けることを祈るのみだ』
記録はそこで終わっていた。智樹が読み終えたのを見て取った霧子は、すい、と棚にある一冊の手帳を智樹に示した。
「次はそれ」
示された一冊の表紙にかかれた西暦は15年前のものだった。祭りの日の記録を探す。
『今日は霧津神社において重要な意味を持つ一日だった。先代からはこの日だけは絶対に失敗するなと何度も言い聞かされていた。実際、去年までは先代が取り仕切り、何も問題はなかった。しかし、今年は……私は失敗したのだろうか?
霧子は戻ってこなかった。通常ならば30分もかからないような儀式だというのに、1時間経っても霧子も先導役の子供も戻ってこなかった。不安になって奥殿へと探しに行ったが供物はきちんと捧げられていたがそこには誰もいなかった。それほど広い神社ではない。隅から隅まで探したが、二人とも見つからなかった。朝方、先導役の子供だけが突然戻ってきた。だが、霧子はどこにもいない。
その日一日、警察の協力で町中を捜索したが、痕跡さえ見つからず、結局霧子は行方不明として兄が捜索願を出した。』
ぎしり、と何かが軋むような音がした。心の奥底で、何かを押さえつけていたものが軋む音。再び頭痛が智樹を襲う。奥歯をかみしめて痛みに耐えながら、残りの文章を読み進める。
『私は本当に失敗したのだろうか?決して失敗してはならない儀式を。しかし、失敗したら何が起こるというのだろう。今のところ、奥殿にも拝殿にも、もちろんご神体にも何も異常はない。……儀式は、本当は成功していたのだろうか?』
最後まで読み終えたところで、押さえつけていたものが壊れる音が鳴ったような気がした。暗闇が智樹の脳裏に浮かび上がる。暗い森、蝋燭のか細い光、繋いだ幼い手、襲い掛かる闇、少女の叫び声——。フラッシュバックのように、次々と。
『ともき!にげて!!』
そして、最後に聞いた声。
「きりちゃん……?」
智樹は、呆然と霧子へ呼びかけていた。
* * *
覚えているのは、深い闇と幼馴染の手、それよりも小さい自分の手。どこまで走っても「くろいもの」は追いかけてきた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!)
智樹は声も出せず、心の中でずっと謝っていた。間違えてはいけないと教えられていた。必ず順番を守るようにと教えられていた。そして、奥殿では霧子を見守り何もしないようにと教えられていた。その全てを智樹は破っていた。だから、この結果は自分のせいだと理解していた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!)
心の中で謝り続ける。どこを見ても暗い闇しか見えない神社の中で、智樹は霧子に手を引かれて逃げていた。逃げて、逃げて、だけど追いつかれて——。
唐突に霧子が智樹の手を振り払って背中を突き飛ばした。
「きりちゃん!?」
何で——と声をあげると、霧子の姿はすでに半ば「くろいもの」に覆い隠されようとしている。驚きと恐怖に声も出せない智樹に、霧子は最後の力を振り絞るように、
「ともき!にげて!!」
そう叫んで、「くろいもの」に呑み込まれていった。
* * *
「思い出した?」
霧子の声がやさしく語りかける。
「……ぜんぶ、俺のせいだったんだ」
智樹の言葉に、霧子は首を横に振る。
「ううん。智樹は私を助けようとしてくれただけ。あなただけでも助かって私は本当にうれしかった。……なのに、またここに帰ってきてしまうなんて」
「たぶん、偶然じゃないんだ。俺がここに来たこと」
確信があった。町があの時に見た「くろいもの」が自分を呼んでいると。
「そう。神様——夜霧津尊が呼んでる」
霧子がその確信を肯定する。
「15年前、私たちは儀式に失敗した。そのせいで夜霧津尊は不完全な状態で眠りについて——1年前に目覚めてしまった」
「それで町が霧に呑み込まれて、地図からも消えて、——でも、なんで俺を?」
智樹の問いに霧子は答えない。そもそもが、正直言って信じられる話ではないだろう。しかし、それが現実だった。……ふと、智樹は一つの疑問に思い至った。
「君は一体何者なんだ?きりちゃん——霧子は15年前に行方不明になったままだ。そして君の姿はあの頃の霧子と変わらない。どういうことだ?」
当惑するような智樹の質問に霧子は辛そうな表情を一瞬浮かべ
「あの時、私はたしかに夜霧津尊に取り込まれ、食われてしまった。それは確か。だけど全部が食われたわけじゃなかったの。私たちは一晩中逃げ通して……追い詰められたころには夜明けが近かった。
夜霧津尊は夜闇の中で力を持つ神よ。なのに、儀式は夜明けまでに終わらなかった。だから——」
少し考えるように言葉を選び、間を開けた。まるで、どう表現すれば良いかわからないというように見える。そして「——不完全に食べ残されちゃったの」と、努めて軽い口調で霧子は言った。
「それで」
智樹は手元の日記に目線を落としながら問う。
「俺は何をすればいい?」
「儀式の完遂を。今度こそ儀式を成功させて夜霧津尊を鎮めれば町は元に戻るわ」
「本当に?」
「叔父さんの日記を信じるなら、可能性は高いわ」
どこまで信じられるかはわからない。しかし、他に手はないように思えた。
「わかった。……奥殿へ行こう」
言って、智樹は奥殿に通じる小道へと向かう。かつて恐怖を味わった場所へと。
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