第三章 祭祀の夜

 目の前に闇が広がっている。先導する子供の持つ蝋燭の明りだけが唯一のよりどころに思えた。供え物を乗せた箱のような三宝を捧げるように持ち、霧子は蝋燭の先導にしたがって闇の中を歩いていく。

 月のない暗い夜。星の明かりさえ見えない。そして、向かう先にも。

「きりちゃん」

 いつの間にか立ち止まってしまっていた霧子に、子供が声をかける。三つ下の幼馴染である彼は、今日は霧を神社の奥殿へと導く役目を仰せつかっていた。

「ともき、こんなに暗いけど、怖くない?」

「きりちゃんは、こわい?」

「……」

「ぼく、へいきだよ」

 子供——幼い智樹が胸を張って言う。その様子に霧子はくすりと笑い、再び歩を進める。蝋燭の灯りがかすかに照らす以外は、本当にどこもかしこも闇に包まれており、霧子はなるべくそれを見ないように蝋燭を持つ智樹の手元だけを見つめるように歩いていた。

 今日は町で年に一度行われるお祭りの日だった。お祭りでは選ばれた子供が神社の奥殿に祀られた神様へ供物を届ける儀式を行う。奥殿で行う儀式の手順は叔父である霧津神社の神主から教えられていた。

 今年の祭祀は10年ごとに行われる特別なものらしく、叔父の教えはとても厳しいものだった。儀式の手順をそれはもう何度も、繰り返し教えられ——どんな些細な失敗も許さないと言わんばかりの厳しさで。昼間の明るい時間に智樹を伴って儀式の練習もした。繰り返し、繰り返し。だから、時間が変わっただけでこの儀式はすでに霧子には慣れていたはずのことだった。それなのに。

(怖い、……それに、寒い……)

 季節は初秋とはいえまだ暑さの残る時期。寒いのは外気からくるものではなかった。奥殿へと向かう足が一歩一歩と重くなっていく。どうしてこれほどまでに恐怖を覚えるのか、霧子自身にもわからなかった。

 夏祭りで行われる祭祀は毎年行われているもので、去年は霧子の一つ上の少女が役目をこなした。後になって役目について教えてもらったが、「何もなかったよ。普通に奥殿までお供え物運んで、呪文みたいなの唱えて、戻ってきてそれだけ」というだけだった。だから霧子も今日までは簡単な役目だと思っていた。実際に夜中の奥殿へ向かうまでは。

「きりちゃん、怖い?」

 智樹が同じ質問をした。霧子は隠しても仕方ないと正直に答える。

「怖い」

「そっか」

 端的な霧子の返事に智樹は何かを考えるように地面を蹴る。そしてぱっと顔を上げて霧子に言う。

「じゃあきりちゃんはここにいていいよ」

「どういうこと?」

「ぼくがきりちゃんのかわりにお供えしてくる。そしたらきりちゃんはあそこまでいかなくていいでしょ?」

 智樹はまるでいい考えを思いついたと誇らしげに言う。その提案は霧子にもとても魅力的に思えたが、しかし。

『いいね?儀式は必ず霧子の手でしなければならない。儀式を少しでも間違えたりすると神様が怒ってしまうからね』

 叔父から何度も言い含められた注意を思い出し躊躇する。その様子にしびれを切らしたのか、智樹は蝋燭立てを霧子に押し付けるとその手から三宝を奪い取り

「きりちゃんはそこにいて!」

 と奥殿へ駆け去ってしまう。

 ……闇がさらに濃くなった気がした。周囲の闇が押し寄せてくるような錯覚に襲われ、霧子は立ち尽くす。背後で枝の軋むような音がしたような気がして、恐る恐る振り返るがそこには何もいない。ただ闇が広がるだけだった。震える手で蝋燭を握りしめ、暗闇を見つめ続けた。心の中で叔父の言葉が何度も繰り返される。……儀式を少しでも間違えたりすると神様が怒ってしまう。

 やがて、軽く駆ける足音が霧子の耳に届く。智樹が戻ってきたのだ。その表情はいたずらが成功した子供そのものに見える。実際その通りだろう。しかし、霧子はその瞬間、胸の奥に得体の知れない冷たさを感じた。空気がひどく冷えている。まるで、何かが近づいてきているような——

「ただいま!」

 その声が響いた次の瞬間、突然周囲の空気が凍りつくような冷たさに包まれた。霧子が息を飲んだその刹那、闇の中から何かが這い寄ってくるような音が聞こえ、気配に気付いた智樹が凍り付いたようにその場に立ち止まった。

「ともき!」

 ああ、やっぱり叔父の言いつけを守らなければならなかったのだと霧子は後悔する。

(わたしが儀式を破ったから、神様が怒ったんだ)

 霧子の声に智樹は我に返り霧子へと駆け寄る。

「きりちゃん、なにかいる!」

 闇の中の気配はすでにそこかしこから感じられた。霧子は智樹の手を引き拝殿へと向かう道を引き返す。蝋燭の火が風に煽られて強く揺れ、智樹の不安げな表情を照らし出す。

 奥殿と拝殿はそれほど離れてはいない。少し走ればすぐに拝殿が見えてくるはずだった。そこには叔父や霧子と智樹の両親などの大人がいるはずだった。なのに。

「なんでっ!?」

 拝殿と奥殿をつなぐ小道の入り口には誰もいない。それどころか来た時には煌々と灯されていた拝殿の灯りもすべて消えており、不気味な闇に包まれていた。

 背後の闇からは獲物を狙う獣のような気配が追ってきている。

 霧子は智樹の手を引いたまま神社の出口へ向かう。外に出ればだれかいるはずだ。そう思い鳥居にたどり着いたところで。ふ、と蝋燭の火が消え、あたりは完全な闇に包まれる。鳥居の向こうに見えるはずの町の明かりも一切なく、そこには闇があるだけだった。

 ぬとり、と何か湿ったような音がした。

「きりちゃん……」

 異様な空気を感じ取り、智樹が霧子にしがみつく。その背に手を添えながら、霧子はゆっくりと背後へ振り返った。

 そこには、闇が居た。闇だけを凝縮したような漆黒の闇。闇がその一端を伸ばし霧子と智樹へ襲い掛かる。

「かみさま、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 霧子はその存在が叔父のいう神だと思った。神の怒った姿だと認識し、ひたすらに謝る。智樹は恐怖で声を出すことすら出来ないようだった。

 霧子の声に反応したのか、闇が二人を呑み込もうと広がった。吸い込まれる。呑み込まれる。とっさに、霧子は智樹の手を振り払いその背を鳥居の向こうに押し出す。闇の向こうにはいつも通りの町が広がっていることを祈って。

「きりちゃん!?」

「ともき!にげて!!」

 その言葉を最後に、霧子は襲い来る闇に呑み込まれ、意識が消失した。


 * * *


「きりちゃん!!」

 智樹は神社へ向かって霧子を呼ぶ。しかし、そこには何もなかった。背後から差す光に振り返ると、そこにはいつも通りの町の景色が広がっていた。

「智樹!!」

 智樹を呼ぶ両親の声。逃げられたのだと、その時になってようやく智樹は理解した。霧子を呑み込んだ暗闇から。

 智樹と霧子は一晩中行方不明になっていたらしい。涙を流して智樹を抱きしめる両親の肩越しに霧子の叔父だという神主の表情がひどく青ざめているのを見たところで、智樹は意識を手放した。

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