第二章 霧の中の少女

 気が付けば町の中心部まで走ってきていた。五差路を中心に放射状に道が伸びている特徴的な地形で、商店街のような雰囲気を持っている。町は相変わらず霧に覆われてはいるが、まったく何も見えないほど濃いというわけではない。荒い息のまま周囲を見回したがやはり人の気配はない。自分がなぜここにいるのかさえ、もうわからなくなってきていた。自分は何のためにここにいる?

 力なくベンチに腰掛け頭を抱える。しばらくそうしていると、かすかな人の声が智樹の耳に届いた。——人がいる!弾かれたようにベンチから立ち上がり声のもとを探すと、霧の中にぼんやりと人の姿が見えた。

「あの、すみません!」

 その人物へ駆け寄りつつ声をかける。しかし——その人影は、彼がたどり着く前に霧の中にかき消えてしまい、智樹はその場に立ち尽くした。

「え……」

 人影のあった場所を見返してもそこにはもう誰もいなかった。勘違いだったのかとその場を離れようとすると、またかすかに人の声が聞こえ、同じ人影がそこに居た。その人物は何かをつぶやいている。反射的に人影に近づくとそれは再びかき消え——智樹は、三度目にようやくその人物のつぶやきを聞き取ることに成功した。

『どうして……どうしてこうなった……』

 別の方向からも声がする。

『怖い……怖い……怖い……怖い……』

 気付けばいくつかの人影が現れていた。人影はまるで霧で出来ているかのように不規則にゆらめき、漂っている。各々何かをつぶやいているがそのほとんどは混乱を示すばかりの意味のない言葉だけだった。そして、どの人影も一様に近づくと消えてしまう。

 諦めかけてその場を立ち去ろうとしたその時。

『逃げろ……逃げなさい……』

 そんな言葉が聞こえた。声のほうを向くと人影は智樹を見ているようだった。しかし、うつろな目は智樹の姿を映さない。

『霧が……すべてを吞み込んでしまう……』

 人影は同じ内容を延々と繰り返すだけだ。こちらから話しかけても反応はない。

「逃げろったって、何から」

 半ば憤然とそうつぶやいたところで、新たな声が智樹を呼んだ。

「智樹」

 人影たちの声とは違う、はっきりとした意思のある声。驚いて振り返るとそこには白いワンピースの少女が立っていた。中学生くらいだろうか。実家のアルバムで見た少女だった。これまでに遭遇した人影たちとは違うしっかりした輪郭。しかし、どこか存在感が薄いようにも感じる。

「君は」

 言いかけると、少女はそれを遮り咎めるような口調で詰め寄った。

「どうしてここに来たの」

 明確な答えはなかった。地図から町が消え、智樹はただ衝動的に町へと帰ってきただけだった。何かの衝動に突き動かされるように。答えようがない。仕方なく、智樹は少女へ質問を返すことにした。

「ここは何だ?どうしてこんなことに?」

 ひどく抽象的な質問になってしまったが、相手は意図を汲み取ってくれたようだ。

「見たままよ。霧が町を包み込んで、住人たちを呑み込んで——消えてしまった」

「消えたって——消えたって何だ。だって町はここにこうして」

「消えたのよ。存在が丸ごと。そして私たちは霧に閉じ込められている」

 そして「疑うなら町の入り口に戻ってみなさい」と言い、続けて先ほどと同じ質問を智樹に投げかけた。

「どうしてここに来たの。……あなたはここへ来るべきじゃなかった。逃げられたのに」

 後半の言葉は智樹に向けたものというより、独り言に近いように感じられた。

「逃げられた?」

 その言葉に引っかかるものを覚え、問い返したが答えはない。代わりに告げる。

「何が起きたのかを知りたいなら神社に行きなさい。そこに答えはあるわ」

 町で神社といえば一つしかない。智樹も子供のころによく遊び場にしていた霧津神社だ。そこに何かがあるのだろうか。ともかく、手がかりも指針もない以上少女の言葉に従うのが一番良さそうに思えた。

「わかった」

 そう答える智樹に、少女はどこか悲しげな表情を見せ、霧に紛れて消えていく。

「そういえば、君の名前は」

「霧子」

 慌てて問う声に少女——霧子の声が答える。

「奥殿には決して近づかないで。——今は、まだ」

 最後の一言を残して、霧子の姿は霧の中に完全に消えていった。

 霧津神社の奥殿。そこは年に一度の祭りの夜にだけ開かれる禁足地だった。それを思い出した智樹の脳裏に何かがフラッシュバックする。

 真夜中の神社。暗闇。暗く圧し掛かる森の木々。その奥から追ってくる闇。

 そのどれも、智樹の記憶にはないものだった。ない筈だった。しかし、フラッシュバックはやたらと鮮明で、現実感を伴って彼に襲い掛かってくる。

 再び、智樹を激しい頭痛が襲った。しかし、その痛みをやり過ごすように息を吐くと、智樹は霧津神社のほうへと歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る