第一章 忘れられた町

 県境を示す表示が流れていく。最寄りのインターを降りて朝霧町へ続く山間の道に入るころには日付はとうに変わっていた。真夜中の山道はそれだけで恐怖心を呼び起こす。ハンドルを握る手に知らず汗が滲んでいた。

 道は次第に白く煙り、霧が満ち始めている。この季節にしては珍しい。霧の季節はもう少し先のはずだ。……だが霧は次第に濃くなっていき、窓を這い上がるように広がっていく。智樹は慎重に車を進めた。ただでさえ街灯もないような暗い山道。霧で道を見失っては無事では済まない。

 しかし——町まであと少しというところでいよいよ1m先も見えない程に霧が濃くなり、智樹は車を止めた。霧の奥を見るように視線をやるが、何も見えない。しばらくそのまま霧を見つめて、諦めて車を降りた。ここからなら町までは歩いても1時間もかからない。念のため車のヘッドライトで先を照らし、やはり何も見えないことに落胆しつつ車のキーを抜いて視線を戻したとき、智樹は驚愕の表情を浮かべた。先ほどまでなかったはずの鳥居が浮かび上がっている。鳥居は石でできており、扁額の文字は読めない。その奥は霧さえもない完全な闇だった。その闇に恐怖を覚える。

「なっ……」

言葉を飲み込みしばらく固まっていると、現れた時と同様ふっとそれは消える。……しばらく動けなかった。現実とは思えない。幻覚だろうか、それにしても何故?考えても答えは出ない。衝撃から立ち直ると、意を決して町へと歩き始める。少し歩いて、不安になり振り返ると停めておいた車はもう見えなくなっていた。霧の揺らめきが自分を誘い込んでいるように思えた。智樹は町へと歩を進め、その姿はあっという間に夜闇と霧に包まれて消えた。


 闇と霧の中、智樹の歩く足音だけが響いている。まるで世界そのものから切り離されてしまったような感覚さえしてくる。霧は変わらず智樹にまとわりつくように流れていくが、風の音も木々のざわめきすらも聞こえない。それでも黙々と——注意深く——歩いていると霧の向こうに町の入り口を示すかのような信号の明滅が見えた。その黄色の点滅に安堵し、足を向ける。そうするうちにぼんやりと町の輪郭が霧の中に浮かび上がってくる。そしてその入り口に立ったところで、智樹は再び足を止めた。

 何かが、違う。決定的に何かが違っている。そう感じた。

「明るい……?」

 まず気付いた違和感はそれだ。時刻は深夜。先ほどまで闇と霧に視界を閉ざされていたはずなのに、ここでは重たい曇り空のような色をしている。智樹は自分の時計を確認した。車の中で見た時間からさして経っておらず、深夜であることは間違いない。空を見上げると変わらず霧で満ちている。まるで霧自体が鈍く地上を照らしているようだった。

 あたりに人の気配はない。深夜であればそれも当然だろう。しかしこの状況では——。

「何だってんだよ、これ」

 立ち並ぶ家々の窓は暗く閉ざされ、明かりもなく、ただ霧に包まれて静まり返っている。

「とにかく家に——」

 言い聞かせるようにつぶやくと、智樹は記憶のまま実家への道を辿る。途中、人の一人も、明かりのついた窓の一つも見つけられない。

 背後から何者かに見られているような気がする。振り返って確認しようかとも思ったが言いようのない恐怖がこみあげて足を止めることすら出来なかった。


 智樹の実家は町の入り口から10分ほど歩いた場所にある。実家が近くなるにつれ、自然と歩く速度が上がっていった。そうして帰り着いた家は記憶のままだった——しかし、ここも窓は黒く閉ざされたまま。

 普段通りにインターホンを鳴らして帰宅を告げるが反応はない。二度、三度と鳴らすが結果は同じだった。どうしようかと玄関扉を軽く引くと、扉はあっさりと開き、智樹を迎え入れた。記憶のままの姿。年末には帰らなかったから一年半ぶりになるはずだった。

「ただいま」

 声をかけながら薄暗い玄関を上がり、まず居間へ向かう。しかし誰もいない。台所も同じだった。

「父さん、母さん?」

 返事はない。二階にも誰の気配もないのを感じつつ、まさかと思い、かつての自室へと入った。当然のように誰もいない。もう一度両親の携帯にかけようとスマホを見て——圏外だった。どこにも繋がらない。

 混乱しつつ居間に戻る。室内は記憶のまま、だが人だけが居ない。

 ——いや、記憶のまま?記憶との差異、違和感。ここも何かが違う。智樹は手にしたスマホを無造作に放り投げ、室内を見回した。妙だ。すべてが妙に古びているように見える。居間に置かれた重厚な座卓、壁に掛けられたカレンダーは年月は合っているのに全体的に煤け、端が乾いて反り返っている。まるで現在を閉じ込めて数年先に放り投げたかのような有様に思えた。大きく開かれた窓から侵入する鈍い明かりが室内を灰色に染め、現実感を喪わせる。

 灰色の室内をぐるりと見回す。まるで現実感がない。しかし、一周するところで何かが智樹の視界をよぎり、動きを止めた。居間におかれた飾り棚。父のコレクションや母の手芸作品が飾られている、その一角。すべて灰色に染まる中、それだけが色を保っている。手に取るとそれは白い背表紙に金色のラインのアルバムだった。智樹も何度か見たことがある。子供の頃の写真を収めた一冊だ。何の気なしにぱらぱらとめくると、一枚の写真が目についた。子供が二人写っている。一人は子供のころの自分。もう一人は白いワンピースを着た少女。年上だろうか、自分より少し背が高いその姿に智樹は首を傾げた。見覚えがない。しかし、どこか妙な懐かしさと苦しさを覚える。思い当たる人物がいないか記憶を探ったその時。

『——ともき!にげて!』

 記憶の奥底から叫び声が響いてくる。同時に激しい頭痛が襲い掛かり、智樹は逃れるように家を飛び出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る