アンイマジナリーフレンド

天井 萌花

あなたの夢

 幼い頃、私には誰より大切な友達がいた。


 家が近所で保育園の頃から一緒の、綺麗な目をした男の子。

 さらさらの黒髪を持った、柔らかい声の子。

 ファンタジックな本や映画が好きで、将来は大魔法使いになる! なんて言っていた、夢見がちな子。

 いつも魔法のように私を笑顔にしてくれた、人を喜ばせるのが好きな優しい子。


 一方の私は現実主義の冷めた子供で、の夢をしょっちゅう否定していた。

 魔法で人を幸せにしたいと言われれば、他の方法を探せと言う。

 新しいものを作るの! と言われれば、発明家にでもなれと言う。

 魔法は絶対にあると主張すると、よく口論のようになっていたっけ。


 今思えば、何故そんな私と仲良くしてくれていたのか不思議だ。

 私がなら、すぐに嫌気がさして離れただろう。


 それでもは私といるのが楽しいと言って、いつも一緒にいてくれた。

 一緒に映画を見たり、本を貸しあったり、絵を描いたり。

 毎日一緒に遊ぶ時間が、どうしようもなく楽しかった。


 何度同じことをしても、飽きなど来なかった。

 と一緒なら、どんなことでも初めてのように彩度を持って輝いたから。


 魔法なんて存在しない。は魔法使いになれない。

 頑なにそう言っていた一方で――私の心は、の一挙一動を魔法のようだと捉えていた。


 何気ない事を、かけがえのない出来事にしてくれる。

 ふとした瞬間にときめかせてくれる。


 映画のように派手ではない。けれど綺麗な魔法が使える、私だけの魔法使い。



『僕、明日魔法使いになるんだー』

 

 小学3年生になったばかりのある日。

 私だけの魔法使いは、内緒話のように耳打ちしてきた。


『え? 明日?』


『うん、明日』


 目を合わせると、は嬉しそうにはにかんだ。

 その笑顔はすごく嬉しそうで、黒目がちな瞳がキラキラと輝いていて。

 ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。


『なれるわけないでしょう?』


 “明日”と近い日時を定めていたことに、違和感を覚えなかったわけではない。

 けれど私はいつも通りの妄想の延長にある夢語りだと思い、冷たく返した。

 私にとっては、もう魔法使いだったけれど。

 それがの言う、の望む姿でないことも、その姿にはなれないことも、私はちゃんと知っていたからだ。


『昨日大魔法使いが家に来て、なれるって言ったんだよ』


『何それ、どうやってなるの?』


 私が聞くと、はぱあっと顔を明るくする。

 内緒話だったことも忘れ、嬉しそうに大きな声で大魔法使いについて語っていく。

 まるで見てきたように話す内容も、あの日の私は全部の妄想だと思っていた。


『――みんなの記憶から僕が消えた時、なれるんだって』


 長い話の最後、は少し弱まった声でそう言った。

 大好きな魔法使いを、夢を語っているはずなのに――は何故か、悲しそうな顔をしていた。


 まだ子供だった私には、その顔の意味も。

 夢語りには、ただ「素敵だね」と返してあげるだけでいいこともわからなくて――。


『……じゃあ、やっぱりなれないわね』


 と、素っ気なく言っただけだった。


『……ううん、なるよ。絶対なる。そしたら、君の願いも叶えてあげるから』


 いつもなら、そんなことないよーと軽い調子で言うだけなのに。

 何故かきっぱりとした口調、はっきりとした声でそう返された。


 強い声とは裏腹に眉尻は下がり、ますます悲しそうな顔をしていて。

 私は何と返せばいいか、わからなくなっていた。



 その翌日から、はいなくなってしまった。

 教室からの席が消えたのだ。

 名簿にも、当番表にも名前がない。

 クラスメイトに聞いても、そんな子知らないと言う。

 母も、父もの家に子供はいないと言う。


 いくら探しても、誰に聞いても、の存在は証明できなくて――私の記憶の中にしか、足跡はついていなかった。

 を見つけ出すことは不可能だと理解したと同時に、そこでようやく、あの顔の意味も理解した。


 口には出せないさよならを、堪えていた顔だったのだ。

 別れの言葉は告げられない。

 告げられないから私は、別れを感じられなかった。

 けれどにとっては最後の私との時間で、だからあんな顔をしていたのだ。


 心を曇らせていた謎が1つ溶けても、すっきりすることはなく。

 口から出たのは大きな溜息だけだった。


 ようやくを理解できたのに、嬉しくない。

 私はの気持ちを理解したが、は私の気持ちをわかってはいないだろうから。


 別れの言葉も言えず、想いも伝えられず。

 夢を叶えようとしているに、気の利いた言葉もかけられなかった。

 それがどれほど悔しいか、はわかっていないだろう。


 夢に一直線で、時々周りが見えなくなる子だ。そうに決まっている。

 一方で思いやりがあって、私のことをよく見てくれている子だったから――。

 ――もしもわかっているのなら、もう一度私に会いにくるはずだ。


 **


 勿論、が私に会いにくることなど一度もなく。

 私はを探すことも、待つことも辞めた。


 8年待っても音沙汰なし。

 私以外誰も、どこものことを知らない。


 もう、私の妄想だったんじゃないかと思えてきたりもした。

 幼い頃は誰にでもいるという、空想上のお友達。

 私は人より長くそれに浸っていて、始めから、あんな友達いなかったんじゃないかって。


 なのに……記憶の隅に追いやっても尚、との思い出は一番星のように輝き、私の心を照らしている。

 眩い光が、私の心を支える明かりが偽物だとは、高校生になった今でも到底思えなかった。


 輪郭がぼんやりと滲み、無理矢理造形して、歪む。

 そんなことを繰り返すうちに、流石に少しずつ薄れてきてはいるが。

 のことを忘れるなんて、私には無理だ。


「――こんにちは、元気ー?」


 だからは、まだ魔法使いにはなれていない。

 私の記憶から、消えていないのだから。


「……あのー、学校は関係者以外立ち入り禁止ですよ」


 つまり突如目の前に現れた不審者は、決してではない。

 どことなく似ている気がするが、違う。

 

「まあー普通はね?」


 放課後、いつも通りの教室に表れた、いつも通りでない存在。

 まるで空から降って来るように、突然天井から現れた男。

 それが机の上に寝転がったまま、視線だけで私を見ている。


「でも僕は例外、みたいな感じかなー」


 にっと白い歯を見せて笑うは、明らかに普通ではなかった。

 黒い大きなローブを羽織っていて、サラサラの黒い髪はオレンジの光に染められていない。

 少しずれた眼鏡の奥で光る綺麗な目には……くるくると何かが渦巻いている。


 そもそも普通の人なら4階建ての建物の3階、それも何もない所から落ちてきたりもしない。


「まあ、それは見るからにって感じですね」


 この男は、普通の人間ではないのだろう。

 らしくないことを言うが――それこそ、魔法使いかもしれない。

 魔法のような不思議な力のせいにしないと、一連の行動に説明がつかないのだから。


「冷静だね。流石だ」


 ふわりと舞ったカーテンが鬱陶しいのは、窓際の席数少ないデメリットだと思う。

 しかし男は触れていないかのように全く気にしていない。

 ……いや、カーテンが男を気にしていないのかもしれない。

 風で膨らんだカーテンが男に触れたかと思えば、そのまま動きを変えることなく自由に舞っている。


「流石ってなんですか」


 よっと身体を起こした男は、そのまま机の上に座る。

 まだ夏の匂いの残る風が、男の柔らかそうな髪を揺らした。

 そこ、私の席なんだけど。


「君は如何なる時も落ち着いてる子でしょ。……あ、でも少しは驚いたみたいだね?」


 ズレた眼鏡を直した男は、観察するように私を見てきた。

 まるで友人のような態度で、知ったような口をきく。

 一挙一動が一番星にべっとりと触れてくるようで、嫌になりそうだ。


「何でわかるんですか? 会ったこともない他人なのに」


「えー、そうなの?」


 男は少し寂しそうに眉を下げる。

 ズキッと胸が痛んだのに気付かないフリをして、小さく頷いた。


「そっか……まあ、細かいことは気にしないで。それより敬語やめない? 堅苦しいよー」


 今度は不満そうに眉を寄せる男だが、敬語はやめない。

 これくらいの距離感が、私にとっては丁度いいのだ。

 これ以上近づくと――記憶と現実が混ざり合って、輪郭を失ってしまう気がする。


「あなたが魔法使いだからですか?」


「ねえ敬語~……って、僕のこと魔法使いだって思ったんだ。意外だな」


 にやっと唇を吊り上げてもなお、渦を巻いた瞳は私を捉えている。

 瞳の奥には怪しい光が煌めいているように見えて――嫌でも引き込まれる。

 まるで心の内を見透かされているような、私の事は全て知られているような、変な気分だ。


「そりゃあ、学校なのに変な人が変な出てき方しましたから」


 ここまで非現実的な状況なら、諦めて魔法で片付けたくなるのも無理はないだろう。

 それに――目の前の男は、やっぱり私の記憶に残り続けると、どことなく似ている。

 非現実的な現象を、の言葉で説明してしまうのは必然だ。


「変って言い過ぎー。折角頑張って来たのにさ」


 敬語を辞めさせるのは諦めたのか、男ははあっと溜息を吐いた。

 すっと手をはらうその仕草。呆れたようなその表情。どれもに既視感がある。

 初めて会ったとは思えない懐かしさを覚えてしまう。


「どうしてここへ? わざわざ頑張ってまで来る所ですか」


 ぎゅっと目を閉じて、都合のいい視覚を落ち着かせる。


「君に会いに来たんだよ」


 優しい声が撫でる耳を塞ぎたくなる。

 どうしてこんなにも、私の記憶をなぞるのだろう。


「……何の用ですか?」


「話せば長くなるけど……簡潔にいこう。君の言う通り、僕は魔法使いなんだ」


 ――違う、この男はじゃない。

 だっては、魔法使いになれない。

 は、私の気持ちをわかってくれていない。


「……て言っても、まだ見習いだけどね」


「えっ、そうなの?」


 見習い、という言葉につい反応してしまう。

 その言葉は、私にとってどうしようもなく都合がよかった。

 すると男は私を見て嬉しそうに笑う。


「見習いだけど、将来は大魔法使いになるんだよ! そのために、君に会わないといけなかったんだ」


「私に?」


「そう、君に」


 私の顔をじっと見て、男は柔らかく微笑んだ。

 その笑顔にも見覚えがある。

 ああ、駄目だ。


「何で?」


 のんびりと話す男を急かすように本題を促す。

 私に用があるのならすぐに終わらせたい。

 でないと脳が麻痺して、考えることをやめてしまいそうだ。


「君の願いを叶えに来た、かな」


 天井を見上げて考えた男は――また真っ直ぐに私を見て言った。


 かちり、と音がした気がした。

 時計の針が時間を刻んだような音が。


「……何それ」


「あ、笑った」


 ついくすりとしてしまい、男が嬉しそうな顔をする。

 可愛い、なんて言って無邪気に笑う姿は、やっぱりに似ている。

 狂う調子を正すべく、慌てて表情を引き締めた。


「魔法使いはねー、魔法で願いを叶えるのが仕事なんだ。いっぱい願いを叶えて、俺は大魔法使いになりたい。今日のターゲットは君」


 仕事と言うわりには、かなり緩い雰囲気だ。

 男の言い分だと私は顧客ということになるが、まるで友人のように接してくる。

 もそういう子だった。


「でも、まだ見習いなんですよね」


「うん。魔法使いになるための“条件”が、まだ満たされてないんだ」


 ふっと、男の瞳が曇った。

 唇は相変わらず緩く弧を描いているのに、笑っているように見えない。

 

『――みんなの記憶から僕が消えた時、なれるんだって』


 あの日のの言葉が、ふわりと思考の真ん中に移動する。

 淡い期待が、だんだん色を濃くしていく。


「そのって――」


「まあ、今日で条件が満たされそうなんだけど!」


 私の言葉を遮って、男は上機嫌そうに身体を伸ばす。

 一方でその笑顔は引き攣っていて、少々違和感を覚えた。


「願いを叶えるって言っても、タダじゃないんだ。代償に、君には僕の願いを聞いてもらう」


「いえ、結構です。魔法で願いが叶うなんて思っていないので」


 は? と目を丸くした男が、さらに顔を引き攣らせる。

 魔法使いであることは信じたが、都合のいい魔法を信じたわけではない。


 突如教室に見知らぬ男が現れるという現象を説明するのには、魔法が簡単だと判断しただけ。

 私の願いが男の魔法で叶うとも思えなければ、得体のしれないものに託そうとも思えなかった。


 男は意味もなく眼鏡のフレームに触れ、じっと私を見る。

 暫くそうした後、納得したように頷いた。


「……なるほど。得体のしれないものを使うのは、流石に不安か……」


 やっぱり見透かされている気分になる……というか、本当に見透かしているのではないか?

 不安なんて一言も言っていなければ、顔に出してもいないはずなのに。


「じゃあ魔法じゃなくて魔道具はどうかな!?」


 んーと考え込んだ男が、再び表情を明るくする。

 嬉々として聞いてくるが、願いを叶えるのが仕事ではなかったのか。


「魔道具だって僕が作ったやつだから。実力のうちだよ、セーフセーフ」


 大魔法使いだけじゃなくて、大天才発明家にもなれるかもーなんて、男は楽観的に笑っている。

 声に出してない疑問に自然に答えられてしまった。


「魔道具を作るのも、魔法使いの仕事なんですか?」


「ううん、違うよ」


 すっと笑みを消した男が、小さく首を振った。

 さっきまでの軽い笑顔とはどこか違う、柔らかい笑みを浮かべる。


「僕が勝手にやってるだけ。昔“大切な人”が、魔法と発明は似てるって教えてくれてね。じゃあ魔法で発明したら最高じゃん! って」


「“大切な人”って、誰ですか?」


 男はじっと私を見て、首を横に振った。


「教えない。僕と君はあくまで他人なんでしょ? そうあることを望んでるのは、君だよね」


 見覚えのある笑顔に視線が吸い寄せられたが――男は眼鏡を外して、ぎゅっと目を閉じてしまった。


「この眼鏡も僕の魔道具なんだー。」


 眉間をぎゅっぎゅと手で押さえながら、片手に持った眼鏡をひらひらと振る。


「初めて作ったやつだから、出来が悪くて。効果は確かだけど、副作用ですぐに目が痛くなる」


「どんな効果なの?」


 大方心が読めるとか、そういったものだろう。

 きっと私のことがわかったのも、その眼鏡で私を見たからだ。

 ゆっくりと目を開いた男は薄く笑って――細めた目で私を見た。


「――真実が見える。これで周りを見れば、気が付いていなかったことや色んな道理を明らかにできるんだ」


 得意気な声を聞いて、またしても笑ってしまった。


「発明って、辞書で引いたの?」


「最初だったからねー。あれ、何でバレたんだろ」


 不思議そうに首を傾げるから、ますます面白い。

 は昔から、馬鹿真面目だった。

 まるで日食のように記憶と視界が、と目の前の男が重なる。


「あーあ……あなたが、他人だったらよかった」


「何のこと?」


 ふぅっと、長く細い息を吐いた。

 再び眼鏡をかけようとするの動きを、手を伸ばして制止する。

 そんなもので見なくても、私の気持ちくらいわかってほしい。


「じゃあ、私の願いは決めたわ。その眼鏡貸して」


 真っ直ぐに手を伸ばすと、男はきょとんとした顔をする。

 私の手と顔を交互に見て首を傾げた。


「そんなのでいいの?」


「ええ」


 いい。それでいい。

 その眼鏡で男を見れば、正体がわかるだろう。

 私は男の正体がわかれば――の存在を確認できれば、十分だ。


「もっと他に――」


「いいの」


 戸惑っているに、もう一度力強く言う。

 男はきっとその眼鏡で、既に私のを知ったのだ。

 だからこんなに驚いているのだろう。


 本当の願いを言うつもりは、ない。

 例えもう知られていたとしても、口に出そうとは思えない。


「だって――本当の願いは、あなたには叶えられないでしょ」


 男は驚いたように目を瞬かせてから、ふっと笑った。


「……眼鏡なんてかけなくても、見たいものは見えてるんじゃないか」


 大きく息を吐いた男は、小さな声で呟いた。

 その顔はどことなく寂しそうで――やめてよ、と思った。


「そうかもしれないわね。でも私は、全部が知りたいの」


「いいよ。それが君の願いなら」


 男は私の顔を見て諦めたように言った。

 畳んだ眼鏡が、私の前に差し出される。


「僕の願いは『君が僕を忘れてくれること』だよ。叶えてくれるなら、どうぞ使って?」


 眼鏡を受け取ろうとした手が……指先の触れる直前、止まった。


 ずるい。私の手は、ずっと伸ばしていたのに。

 そのまま私の手に、乗せてくれればよかったのに。

 逃げ道なんて、断ち切ってくれたらよかったのに。


 本当の願いを聞いてくれる気なんて最初からなかったはずなのに――どうして私に選択させるのか。


「……叶えてあげるわよ。最初から、そのつもりで出てきたんでしょ」


 やっぱりは、私の気持ちをわかってはいないのだろう。

 その怪しい眼鏡では見えなかったのか、見えても根本を理解することができなかったのか。

 きっと私の言葉など1つも必要としていなくて――今も夢に向かって、努力を続けているのだろう。


 震える身体に鞭を打つつもりで、男から眼鏡をひったくった。

 触れてみても、近くで見ても、ただの眼鏡に見える。


 身体の中から緊張を逃がすべく、もう一度ふっと息を吐いた。

 それでもまだ恐怖のようなものが残って、私の動きの邪魔をする。


「無理しなくていいんだよ」


「別に、無理なんてしてない」


 じっと見守ってくる男から目を逸らして、ゆっくりと眼鏡をかけた。

 度は入っていないようで気持ち悪くはならなかった。

 覚悟を決めて、一気に顔を上げる。


 男のことが見えなくなったら。男が映らなかったらどうしよう、と、少し思った。

 けれど私の視界はちゃんとレンズ越しに、苦い顔をした男を捉えてくれた。

 じっと見つめれば見つめるほど――のことが頭に入ってくる。

 

 夢中で見つめていると、途中で私が知っていることばかりになって。

 飽きて外した眼鏡を、すぐにに返した。


「もういいの?」


「目が痛くなってきたのよ」


 は眼鏡をかけようとはせず、ローブの中にしまい込んだ。

 柔らかく、けれど寂しそうな笑顔は、あの日と同じ。


「そっか。じゃあ、今日の僕の仕事は終わりってことで。案外簡単な願い事で、拍子抜けしちゃったなー」


 はまたぐっと身体を伸ばすと、ようやく机から降りて立ち上がった。

 解散の空気になるが、惜しくなんてない。

 私は席を立って、鞄を肩にかける。


「……私、あなたが好きだった」


「……ん?」


 私を見上げたは、驚いたように目を丸くする。

 さっき、私はの気持ちを見てしまった。だって同じように私の気持ちを見たはずだ。

 知っていた癖に、どうしてそんな顔をするんだが。


「勘違いしないで。忘れる前に言っておこうと思っただけ」


 告白なんてものじゃない。ただ、言いたかったから言っただけ。

 あの時の悔しさを忘れるための、通過儀礼。


「今度は、ちゃんと言えるわね。あなたの夢、応援してる」


 には言えない言葉だって、私には言える。

 私はを忘れなくてはいけないが――は、私を忘れなくてもいいのだから。


「ありがとう――さよなら」


 私の分までには覚えていてもらわなくてはいけない。


 あの頃のは、私にだけ効果のある魔法が使えた。

 だから今の私にも、にだけ効果のある魔法が使えるはずだ。

 2人の思い出の最後を飾るような――綺麗な魔法が。


 呆然と私を見るに背を向けて、教室を出る。


「……僕が魔法で幸せにしたかったのは、君だった」


 そのままドアを閉めようとすると、ぽつり、とそんな呟きが聞こえた。

 つい振り返りそうになってしまって、ぎゅっと唇を噛む。


「どうすれば、君を幸せにできるかな!?」


 子供のような、不安そうな声が背中に当たった。

 私の“本当の願い”を聞いてくれたら――またあの頃のように一緒にいてくれたら、私は幸せだろう。

 でも――それは違う。


 私はもう、自分の意見だけを押し付けられるほど子供じゃないのだから。


「……あなたが大魔法使いになったら、私も幸せよ」


 どんな嘘みたいな話も『素敵だね』と言ってあげられる。叶うはずないと思っていたあなたの夢を応援できる。

 あなたの幸せを、真っ直ぐに願ってあげられる。


 声が震えている気がした。これ以上は何も話すまいと、口を閉じた。


「――ありがとう。僕も君が好きだよ、ずっと」


 柔らかくて優しい声が背中に触れた。


 折角、さよならを我慢したんじゃなかったのか。

 折角、別れの言葉なしで許してあげたのに。


 ――最後の最後に、とっておきの魔法をかけてくるなんて。


 そんなこと、さっき眼鏡で見てしまったのに。

 声に出して言われると、振り返りたくなってしまう。

 また教室に入って、あなたに触れたくなってしまう。


「……そ」


 やっとの思いで絞り出した一文字。

 押し隠した自分勝手な想いは、どれほど溢れていたのだろうか。

 はどこまで、私をわかってくれただろうか。


 みっともなく声をあげて泣いてしまう前に。

 がまた眼鏡をかけて、私の姿を見てしまう前に。

 未練を断ち切るように――ピシャッと大きな音を立てて、ドアを閉めた。



 さよなら、私だけの魔法使い。

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