第2話
(1)
自分が何処の国で生まれ、暮らしていたのか。
少女はまったく覚えていなかった。
これも断片でしかないが、一番古い記憶は大勢の女子供と共に、武装した集団に囲まれ、険しい山越えをさせられたこと。山をひとつ、またひとつと越える度に人が減っていったこと。
山越えに耐えられず倒れ、病や怪我で死を迎える者。足手まといだと置き去りにされる者。途中で抵抗し、殺される者。
山をいくつも越えたのち、皆の身柄は複数の人買いの手へと渡り、各所へバラバラに売り払われていった。
少女が行き着いた先は南条家に仕える忍び一族の元だった。
頭領の血族以外の忍びは
数々の修練はまさに生き地獄。
殺された方がどれだけましだったか。
共に売られてきた子供たちは、修行を積む過程で半分以上が命を落とした。その中には脱走を図り、粛清を受けた者も。
『乱よ。お主の美貌はよく斬れる名刀のごとく冷たく鋭い。背筋が凍りつくような美しさじゃ。その美貌を存分に使いこなせ』
初潮が訪れると同時に色事の修練も積んだ。
おかげさまで、この国でも遊び女演じ日銭を稼ぐのも訳がなかった。
尾形家軍師であるこの男を身体で落とし、隙をついて命を奪う。
千載一遇の好機に少女、もとい乱は恵まれ──
五合徳利片手に大階段を上がっていく伊織の背中についていく。階段の左右、五、六段ごとにたたずむ見張りの兵が二人を見送る。
たとえ見張りがいようとも、この段階で行動を起こすべきだった。
やがて、だだ広い境内に辿り着く。伊織は、張り巡らされた陣幕の中ではなく外で立ち止まった。
人目を避けるべく、かがり火の光が遠く、見張りからも外れた場所。この辺りで、乱の警戒心は一気に跳ね上がった。
「息ひとつ切れておらぬとは流石じゃ。だが甘いの」
しまった。
この大階段は心の臓破りで有名だったのに。
嘘でも息を切らす振りをしなければならなかった!
乱は身を翻し、小袖の裾を腰巻ごと自ら割り、素足を内腿まで剥きだす。
「甘いと言っておろうが」
衝撃と共に夜闇と地面が反転し、五合徳利が派手に割れる音がした。
「筋は良い。詰めの甘さがなければ。のう、南条の刺客」
柔らかな長髪が額に、頬に落ちてくる。
どこか軽薄な雰囲気ゆえ感じなかったが、組み伏せられて初めてこの男の体格の良さを思い知らされた。
「おっと!そうはさせんよ」
舌を噛みきろうとして、親指を口に突っ込まれる。
あらん限りの殺気を込めて睨みつけ、ぎりぎり噛みしめる。血の味が口内に広がり始めても、乱を見下ろす伊織は眉を一向に顰めたりしない。
騒ぎを聞きつけた複数人の足音が近づく中、乱は獣のように深く呻くしかなかった。
(2)
「其方の、儂ら三人へ向けた殺気が駄々洩れておった。他はごまかせても、儂らにはお見通しでな。まあ、ほぼほぼ勘で察しただけだがのう」
「…………」
「何にせよ其方は運が良い!樹や周、いいや、他の者であれば即あの場で叩っ斬られたであろうに。で、なぜ儂だったんじゃ?」
薄暗く、湿った土と埃臭い鐘楼の台座の中、階段の段差に腰を下ろし、扇子を仰ぐ伊織が乱へと問いかける。当然乱は口を開かない。
「当ててやろうか?あの中で儂が一番弱いと踏んだからだろう?」
「ふぉんなほほひょり、なひぇ」
「おお、すまぬすまぬ。そんなものいつまでもつけられていては話すに話せんな」
後ろ手に縛られ、敷物もなく座らされ、脛から冷気が全身に上がってくるも、怒りでそれどころじゃない。なぜこの男が捕らえた刺客と二人きり、軽い調子で尋問などしている。それこそ雑兵に任せればいいものを……、などと考えいると、猿轡代わりの布が外された。
「なんで、あんた自らあたしの監視をする?部下にでも任せればいいのに」
「うん、惜しい。其方、まだ十五、六か?そこまで若い娘はちょーっと儂の好みではないの」
「貴様、何の話をしている。質問に答えろ」
「だが、他の者はどうじゃろな。敵方の
「なめるな。そんなの慣れた。でなきゃ、遊び女に紛れて潜り込むか」
「……本当に鼻っ柱の強い娘じゃ」
伊織は目を丸くし、ぱちん、ぱちん、音を立てて扇子を開閉させ、神妙な顔で黙ってしまった。扇子を握るのは左手。右手の親指は血の滲んだ白布が巻かれていた。。
いつまで居座る気だ、こいつ。
実際に口にしかけた時、軍師はぱちん!と一際大きな音で扇子を閉じた。
「其方、南条へ戻りたいか?」
「いきなり何を言い出すかと思えば……」
「戻りたいか戻りたくないかのみ答えぬか」
悪戯小僧めいた表情、声音は変わらないのに、強烈な圧を感じた。
珍しく乱はたじろぎ、数瞬言葉を詰まらせる。
「課せられた責務を果たせなかった。戻ったところで粛清される」
やっとのことで口にした言葉は諦観に満ちていた。
「我らの陣地で知り得た情報を持ち帰ったとしてもか?」
「貴様、それでも尾形の者か?」
「わはははは」
「笑ってごまかすな。あたしは忍び一族の血族じゃない。乱取りの果てに買われたガキさ。一族と違って替えなどいくらでもきく」
「ならば、戻る必要などないな」
「始末するならさっさと……、いっ!」
ぴしり、扇子で鼻先を軽く打たれた。
「最後まで話を聴け?よいか?儂は其方のような勝ち気できつい女子が嫌いではない。むしろ好ましく思う。儂らには及ばぬが腕も立つ。そこで、じゃ。其方、儂の愛妾にならぬか?」
名案得たり、とばかりに、きらきらと目を輝かせる伊織に、乱はひどく拍子抜け。一、二拍間を置いたのち、言われた意味を正しく理解し、怒りが込み上げた。
「はあ?誰が貴様の妾になどなるか。若すぎて好みじゃないと、ついさっき言ったばかりではないか?」
「待て待て。まだ話はある」
「聞きたくない。斬るなら斬れ」
「まあまあ、続きを聞かぬか。其方の命を繋ぐためじゃ。愛妾ということにしておけば、誰も手出しはせぬ」
『ということにしておけば』だと?
「つまり、あくまで名目上の妾、か」
「形だけの白い関係じゃ。この戦が終わった後は儂の屋敷に来てもらうが、下女代わりに働いてくれるだけでかまわぬ。ちょうど人手が足りなくてのう、困っておったー……。ではでは、今夜から其方は儂の物ということで!」
「……は、はあっ?!勝手に決めるな!!というか、触るなっ!」
「触るも何も拘束を解いてるだけ~」
鼻唄でも歌い出しそうな様子で、軍師は乱の縄をするすると解いていく。
いざとなれば乱を取り押さえるくらい訳ないとはいえ、無防備にも程がある。
「おお、そうじゃそうじゃ。今更じゃが、其方、名は何と申す?」
「……乱。乱世の乱だ」
「ほーお、識字も多少できるのか。どこで教えられた」
「知らん。忘れた」
「まあ良い。乱とは南条の忍に名付けられものだろう?そのような不吉な名など捨ててしまえ。儂が新たに授けてやろう」
そうして、乱は伊織の形だけの愛妾となり、『氷室』と新しく名付けられたのだった。
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