氷解

青月クロエ

第1話 

※短編「行雲流水のごとく」と同世界のお話ですが、未読でも問題ないと思います。

時系列は行雲流水より七、八年前です。 






 降ったり止んだりを繰り返す時雨で肌寒さがいや増していく。申し訳程度に張られた陣幕では晩秋の夜露と寒さは凌げない。

 昼間の戦闘での昂ぶりを発散させるため、胴丸と具足のみ着用する雑兵たちは陣屋へ訪れた遊び女たちと戯れ、上役から差し入れられた酒に酔いしれている。酒と汗と白粉の臭いが混ざり合い、陽気に馬鹿話を語らう男たちへ、いい気なものだと少女は内心でせせら笑う。


「辛気くせー顔で酌すんなよ。酒がまずくなる」

「あいすみませぬ。ちょっと寒かったのでつい」


 少女は何食わぬ顔で今し方酌をした男へ、ありったけの愛想笑いを見せる。

 たったそれだけで男は「そ、そうか。そりゃあ悪かった。たしかに少し寒いものな。領主様がいらっしゃる陣中ならもうちっとばかり暖かいんだろうけどよ」と逆に少女を気遣ってきた。


 やはり尾形領の者は人が好い。

 少女が属する南条領とは大分違う。

 否、南条の者とてお人好しは沢山いるだろう。ただ、少なくとも少女が関わってきた南条の者には優しき者など皆無だった。


 他の遊び女たちに紛れて五合徳利抱えて陣中を回る。

 夜気の冷え込みは益々厳しさを増し、二枚重ねとはいえ夏物の小袖を着てきてしまったことを悔いた。素足に剥き出しのくるぶしがぷるり、震える。

 最も、この戦が始まるふた月ほど前から尾形領へ潜入、情報収集に勤しむこと第一で着物に頓着する余裕などなかった。むしろ季節に合わない着物を着たきりでいる方が、遊び女の真似事という、少女のこの国での生計たっきに信憑性も増すというもの。おかげでまんまと戦場の本陣まで潜入できた。できたはいいけれど。


 酔っぱらった男たちに肩を抱かれ、酒臭い息に辟易しながら、右斜めの方向を見上げる。そこはだだ広い境内を持つ寺であり、現在は領主であり総大将の尾形紫月しづき及び、彼の側近たちのための陣幕だ。

 その寺の大階段を下り、檀家に当たる民家周辺が今現在少女のいる下級武士たちの陣幕。近いと言えば近い。しかし、ここの陣幕を出るのはある程度容易いが、総大将たちのいる陣幕へ紛れ込むのは至難だ。

 だが、少女に課せられた命は総大将・尾形紫月の打ち討りではなく──



「おら!おつかれさんなっ。おまえらに新しい酒持ってきてやったぜ」


 乱暴な口調と共に幕が開かれる。


 中に入ってきたのは、黒備えの甲冑を纏う大柄な男だった。

 雑に括ったぼさぼさに伸びた固い髪、伸び放題の不精髭、野性味ある鋭い目つきだけを見たら、武士というより野盗の方が雰囲気が近しい。年の頃は二十後半か三十の間か。その雰囲気で少女は彼が誰なのか見当がつく。


 尾形紫月の剣術と農民兵への軍事訓練指南役であり、此度の合戦で右翼の将を務めていたと聞く。名はたつき


「夜はまだ長いしね。さっき渡した分だけじゃあ、みなに行き渡ってないよね?」


 右翼の将を務めた男の後ろから、ひょこり、彼より少し背の低い男が姿を見せる。

 黒は黒でも薄墨色の甲冑をまとう彼は線が細く、艶々と輝く黒髪に滑らかな頬、糸のように細い眉目を弓なりにして笑う様が女性的だ。樹より少し若く見えるが、実は三十を超すか越さないかとか。少女はこの男にも見当がつく。


 尾形領内一の薬師であり、此度の合戦で中央軍鉄砲小隊の長を務めていたと聞く。名はあまね



 領主側近二名直々の振る舞い酒に誰もが二人に平伏し、喧々早々としていた陣中の空気がさっと変わる。空気に当てられた遊び女たちも男たちにつられて居住まいをただす。少女もまた、空気に当てられ……、た振りで平伏しつつ、逡巡する。


 少女に課せられた命は、陣中の彼らの閨に潜り込み、樹か周、どちらかの命を奪うこと。


 しかし、樹は意外と身持ちが固く朴念仁の上、領内外屈指の剣豪だと噂で散々耳にした。少女に命を下した者も『あ奴に狙いを定めた場合、生きて帰ることを決して望むな』とまでのたまった。


 少女とて命は惜しい。

 ならば、生きて無事帰還できる可能性のある方を選びたい。


 女子おなご好きで、確実に樹より弱いであろう周の方が命を狙いやすい。こうして姿を見せてくれるとは僥倖。


「今宵はいつにも増して綺麗どころが多いねぇ」


 更に少女にとって状況が好転した。

 徳利の一つを手に、周が少女たちのいる輪の中へ自ら入ってきたのだ。


「周っ!てめっ、なにしれっと混ざってんだ?!」

「別に少しぐらいかまわないでしょ。樹も混ざったら?それとも恥ずかしい?」

「んな訳ねーわ!っざけんなよ?!」


 樹をからかう周と、一軍の将にとても見えない樹の柄の悪さに、緊張感に満ちていた陣中の空気が再び和らいだ。


「前祝いだよ。た・だ・し、戦は有利な状況となっただけでまだ終わってないからね。羽目は外しすぎないようにね」

「その通り!」


 再び陣幕が、今度は勢いよく開かれたかと思うと、忙しない具足の音、歩く度刀がカチャカチャと鳴る音が闇にこだました。


「あっちの陣よりこっちの方が楽しそうじゃ。儂も混ぜてくれ」

「あー、うるっせーのが来た来た」

「なんじゃその言い草は?!みなに不足なく酒振舞ったのは誰だと思っておる?!」

「はいはい、かたじけないかたじけない」

「周まで?!」


 樹と周に軽くあしらわれ、不貞腐れながらもその男は輪の中に強引に座り込む。

 無造作な総髪に結った柔らかな髪、やんちゃそうな光を宿す三白眼、人懐こい笑みをたたえた唇から覗く八重歯。年も二人と変わらなさそうだ。


 彼がまとう濃紫に金糸があしらわれた陣羽織の家紋に、少女はハッとなる。

 僥倖に次ぐ僥倖で正直怖いくらいである。

 少女から一挙手一等足を凝視されてるのを知ってか知らずか。男三人は呑気に酒を酌み交わし始めた。


「どうせあっちの陣に好みの女子おなごがいなかったから来ただけでしょ」

「ははあ、ばれた?」

「おめーに好みも糞もあったのかよ。極端なガキか年増じゃなけりゃ何でもいけるかと思っ」

「さっきからやたらと絡んでくるのう」

「ああん?!てめっ、ベタに鶴翼鶴翼の陣展開しやがって!周の小隊中央に仕込んだ分、敵さん、兵の数が一番少ない俺んとこになだれ込んできやがったぞ!」

「樹の隊は精鋭揃い。必ず持ち堪えると信じて、な?」

「それは信頼じゃねぇよ!ぶん投げてるだけだっつの!!そういうとこだかんな、伊織!!」


 今にも陣羽織の男こと伊織の胸倉掴みかねない樹を、見兼ねた周が宥めにかかる。

 他の兵はというと、この三人の応酬に慣れてるのか、何事もなく酒宴を続けていた。


「さあて、あまり飲んでも明日に響く。儂はお暇しよう」

「おう、行け行け」

「そうじゃ!そこの娘!」


 伊織は人懐こい笑みを保ったまま、少女を手招きした。


「もう一杯だけ、あちらの陣で飲もうかと思うて。其方そなた、酌を頼まれてくれんかの」


 今宵は本当に僥倖が過ぎる。


 まさか、樹と周以上の獲物が──、尾形紫月の乳兄弟であり、全軍を指揮する軍師・伊織の懐へ入り込もうとは。


 少女が、表向きには楚々と、内心で使命に燃えつつ、首肯したのは言うまでもなかった。


























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