相対的アイデンティティ
若葉たぬき
相対的アイデンティティ
カフェに向かう友人に小さく会釈して帰路に着く。
SNSかなんかで有名になったらしくて、馬鹿みたいな量の生クリームが乗ったパンケーキが食べられるカフェだ。
2500円なんて値段なのに、ベルトコンベアみたいに人が流れていく。
その価値はあるのだろうか。外国で修行したパティシエが一流の素材を厳選して作った代物なのだろうか。
中身なんてなんでも良くて、可愛いだけの巷の噂を流布する。
そんな人間の数珠繋ぎで出来たハリボテのトレンドだなんて感じるのは、きっと性格が悪いからだろう。
それにお花の匂いがしそうなふわふわの女の子が沢山いて、大学時代から履いているスキニージーンズ姿の私が存在していい場所じゃないと感じる。
キキは、そういう流行りにすごく敏感だ。
何かと私を誘ってどこかに連れて行こうとする。
「わー、キラキラ」
アイシャドウパレットを手にとって、キキが嬉しそうに目を光らせる。
「綺麗だね、どこの?」
「フラワーノーズ。こことか見て、ちょーかわいくない?ねぇ」
中の細部にまで豪華な飾り付けがされているパレットは、照明の光を反射して煌々と輝く。
「可愛い。名前も可愛いね、初めて聞いたよ」
女性ウケが良さそうなパレットの模様から、忘れかけていたジェンダーロールをしっかり刷り込まれてしまった。
「やっぱり可愛いよねぇ!」
とキキが白い歯を見せた。
彼女の笑顔はとても可愛い。
私が持っていない宝石のような、屈託のない笑顔。整った顔立ち。
色白で細い脚、狭い肩、誰しもが守ってあげたい、なんて思うだろう。
彼女のそういうところが好きで、そういうところが少し妬ましい。
私は身長が高くて負けず嫌いで、女として生きていくための武器を与えられなかった。
けれど取りに行こうともしなかった。
自分の才能と努力で、性別の垣根を超えて活躍してやろうと意気込んでいたからだ。
10代の頃は根拠のない自信に満ちていて、それに身を預ける恐怖がなかった。
弘法は環境も選ばなかっただろう!と訳の分からない言い訳で親と自分を説得して、三流大学の芸術科に入学した。
4年間真剣に取り組んだつもりだったが大した結果が出ることはなく、今はネットカフェの正社員になって小さなアパートで暮らしている。
得たものはありふれた進路と一人の友人、高い勉強代だ。
「ここ!ヒナちゃんほんとにいいの?」
お目当てのカフェの前でキキが寂しそうな顔をして聞いてくる。
「うん。仕事前に急いで食べちゃうのも勿体無いしね」
「そっかー、夜勤大変だよねぇ、頑張ってね」
「ありがとう、久しぶりに話せて楽しかったよ」
「私もだよ!定期的に顔見せてよ!心配なんだからね」
大丈夫だよ、と笑顔で別れを告げた。
本当は今日、仕事なんてない。
心のどこかでは、キキと一緒にパンケーキを食べればよかったんじゃないかと思っている。
こんなモヤモヤは隅っこに降り積もって、大きな山になって、時々自分はつまらない人間なんだと思い出させてくる。
私はいつもキキの影に隠れているような気がして仕方がない。
女らしくなくても私は強いから生きていけるという虚勢を、キキの側にいることでやっと言葉にできているのではないか。
それってものすごくダサくて、弱い。
強くならないと。
いつもより強く玄関の戸を開けたら、壁に掛けていた学生時代の絵が落下した。
弱っている時にふと思い出すのはいつも両親の言葉だ。
私が絵で食べていくと息巻いていた時も、「接客業が向いてるんじゃない?」とホテルの仕事を勧めてきた。
両親にとってそれは安定した仕事で、私が女性らしく生きるための道だったのだろう。
でもその優しさが棘として心に刺さったままなのは、そこに含まれた無意識の期待と枠に嵌められた感覚があったからだ。
私はその反骨心からネットカフェで働くと決めた。
両親が望んだ仕事ではなく、自分の意思で選んだ仕事だ。
ネットカフェの薄暗い照明の中で黙々と働くことには、ある種の満足感があった。
容姿や性格なんかどうでも良くて、歯車として見られていることに安心する。
ただその感覚すら本当に正しいのかどうか、最近になって疑問に思うようになった。
キキのような輝かしい人生を送る友人と比べると、私は何を手に入れたのだろうかと考えてしまう。
女性としての愛らしさ、可愛いさを持ったキキが持っていないところ。
女なのに強そうなところ、可愛げがないところ、根暗なところ。
ネガティブな側面だけど、私はキキが持っていないところを持っているんだ。
これが私のアイデンティティなんだって。
本当、情けないな。
絵を拾って壁に掛けようと思ったけどやっぱりやめて、クローゼットの隅っこに投げ捨てた。
弱っている。
先日キキと遊びに行ってから、行先を知らないモヤモヤたちが心の中で暴れている。
制服に着替えようと思ったけど、ロッカーに頭がくっついたまま離れない。
タイムカードを押したから自分は給料を泥棒しているんだ、と嫌な感情で頭が満たされていく。
「あっ!すみません、気づきませんでした」
いつのまにか同僚の倉吉くんが、開けたドアを慌てて閉めようとしていた。
従業員の部屋が一つしかないうちの職場は、前の人が着替えて出てきたら交代で中に入っていく。
私が電気もつけずにぼーっとしてたせいで、中に人がいると気が付かなかったのだ。
嫌な思いをさせてしまったなと申し訳なくなる。
「大丈夫だよ、まだ着替えてないもん」
「ほんとだ、ゴッホ…」
何を言ってるんだ、と思ったが自分が星月夜のプリントTシャツを着ていることに気が付いて少し恥ずかしくなった。
「芸科だったんだ、昔買ったやつねこれ」
「絵、描けるんですか。すごいですね。大学でちゃんと勉強してるんですね。僕も小説書いてるんですよ。大学は行ってないんですけど」
そうなんだ、と相槌をうつ前に彼がハッとした顔で続ける。
「いやすみません変なこと言っちゃって。ごゆっくりお着替えください」
倉吉くんが丁寧な口調でゆっくりとドアを閉めた。
客相手みたいな口調がおかしくて笑ってしまった。
客室の掃除が終わって戻ってくると、少し暇そうにした倉吉くんがいたから声をかけてみた。
「さっきは変なとこ見せちゃってごめんね」
「え、変なとこって?」
「ロッカーに頭ぶつけてぼーっとしてたでしょ」
「そうなんですか、そこまで見てませんでした。石川さんがいたって思ってすぐに目を逸らしたんです。わざとじゃないよって」
あ、ほんとにわざとじゃないんですよと付け加える倉吉くんに、わかってるよと返した。
「今日僕上がるの10時なんですよ、石川さんは?」
「私も10時だよ。」
「よかったら帰りちょっとだけ話せませんか。急いでたら、全然いいんですけど」
「大丈夫だよ、なんにもないし」
「本当ですか!ありがとうございます」
よーしと小さく呟くと、倉吉くんは注文の入ったトルコライスをてきぱきと調理し始めた。
何が目的なのだろうかと少しばかりの不安が頭をよぎる。
学生時代からモテてこなかった私は、わざわざ時間を作ってもらってまで異性と話したことがない。
でももう23歳なんだ、と緊張の虫を溶かすみたいにホールをぐるぐるとモップがけした。
「ごめんね遅くなって」
先に着替え終わった倉吉くんは店前のベンチで背筋を伸ばせて座っていた。
「あ、全然待ってないです。ありがとうございます」
「もしかして、緊張してる?」
「すみません。女の子とあんまり話したことなくて」
可愛い顔してるのに、と心の中で思う。
「倉吉くんはいくつだっけ。こんなにちゃんと話すの初めてだよね」
「21の年です。高校卒業してからここの正社員になって、先月くらいに堺の店舗から引っ越してきました」
「じゃあ先輩だね」
とんでもない、とパタパタ手を振る倉吉くんを見て、実家のチワワが尻尾を振っていたのを思い出した。
「更衣室で、急に自分のこと話してしまってごめんなさい」
倉吉くんが遠くを見ながら、虚な目で呟いた。
「人と話すこと、そんなに得意じゃなくて。石川さんが絵を描いてるって聞いたら、クリエイター仲間だって、嬉しくなっちゃったんです」
嬉しい反面、私はその気持ちにあまり共感できないでいた。
きっと私が倉吉くんなら、ふーんそうなんだ程度で聞き流してしまう。
それくらい他人に対してあまり関心がないし、深掘りして変なプレッシャーを与えるのも申し訳ないなと感じてしまう。
「女っぽくないTシャツ着てたから、恥ずかしくて咄嗟に言っちゃった」
「素敵な服だと思いましたけどね」
気を使ってなさそうな顔をした倉吉くんを横目にして、少し安心する。
「大学卒業してから絵を描いてるって人に言ったの初めてかも」
「え、なんでですか」
「描いてるというか、描いてたって感じだし。才能がなかったから、今もここでこうして働いてるわけだし」
言い終わると同時にハッとした。
この言葉は同時に、倉吉くんを傷つけてしまうのではないかと焦った。
「ごめん、倉吉くんに対して言ったつもりは全くないからね」
「あぁ。全然」
本当に杞憂ですよ、といった表情で彼は続ける。
「楽しいなら今も書けばいいじゃないですか、僕はそうしてます」
「なんかあんまり楽しいって感じたことがないかも」
「じゃあなんで絵の大学に入ったんですか?」
胸がドキッとした。
鼓動を収めるためみたいに、脳みそが頑張って働いているのがわかる。
「何も無かったから、かな。クラスのみんなよりちょびっとだけ絵が上手だったの。色彩感覚が鋭いねって美術の先生が褒めてくれて、絵が上手いことが私の唯一の武器だった」
倉吉くんは静かに私の顔を見つめて話を聞いてくれて、時折目線をすっと空に逸らした。
「でも絵の大学に入ったら、当たり前だけどみんな絵が上手いからさ。自分が特別な人間ではないって思いしらされたよ。大学に入って学びになったのは、いかに自分が空っぽの人間だったかって知れたこと」
自分でも意外なほど言葉がスルスル溢れ出す。
それはネガティブな言葉ばかりで、今すぐ止めて消えてしまいたかった。
よく知りもしない年上の女が急に震え声で自分語りを始める姿なんて、みっともなくて見せられるものじゃない。
自分勝手な汚い涙が静かにアスファルトに吸い込まれていく。
「全然、全然です。」
倉吉くんがピタッとその場で足を止めた。
下を向いていた私も遅れて顔を上げて振り返る。
「僕は小説を書いてるんですけど、人より頭も悪いです。大学に入って文学を学ぶことだって、頑張ればできたけど、しなかったんですよ」
私が泣いてるせいか、倉吉くんも少し感情的な声でそう言った。
「どうして?」
「才能がないって、わかっちゃうのが怖かったんです。大学に入って同じ志を持った友達と切磋琢磨して。その中で自分だけが落ちこぼれになるのが、めちゃくちゃ怖かったんです。それならいっそ、可能性の中で生きてた方が楽だなって思っちゃったんです。それを今でも、少しだけど、ずっと長く後悔してる。」
倉吉くんの目にもうっすら涙が浮かんでることに気づいて、私の感情はどこか手の届かない遠くへ行ってしまったように感じた。
「だから、石川さんはすごいんです。自分のやりたいことを精一杯勉強して、向き合って。挑戦したんです」
「違うよ」
目をゴシゴシ両手で擦って、頭に散らばった言葉を少しずつパズルみたいに並べていく。
「私は女らしくないから。声も綺麗じゃないし、可愛い顔も性格もしてないし。だから悔しくて、性別なんて関係なくて自分自身を見てもらえる世界に飛び込みたいと思った。それがたまたま、一番近くにあった絵だっただけだよ」
少しずつ頭から熱が引いていくのを感じていたけれど、モヤモヤたちが沢山飛び出していくのは止められなかった。
「でも絵で結果が出せなかったから、空っぽになった。親は接客業をしなさいって。それが女らしくて良い仕事だからって。けど、そのレールを歩きたくないって一心で、ネットカフェに就職して。どうだこれは自分の選んだ道だぞって虚勢を張ることが私の精一杯。この幼稚な反骨心が今の私。これで全部」
くだらないことを口走ってしまった。
ドン引きしていっそ走って逃げてくれないかなって思った。
でも倉吉くんは何も言わずに、静かにその場で佇んでいた。
「ごめんね、大きな声で話しちゃって。私方向間違えてたから戻るね」
ちんけな嘘をついて反対方向に歩き出そうとしたら、倉吉くんがやっと口を開いた。
「強いです、かっこいい」
細い腕が小刻みに震えている。
「みんなそんなに立派に生きてない。石川さんは自分の人生に真剣に向き合ってるこそ、やるせなさがあるんだと思います。それでも自分の意思で生きてきて、その強さこそが石川さんなんだと思います」
ありがとう、精一杯の笑顔を見せて来た道を独りで歩き出す。
「石川さんが休憩室でうなだれてたのは、今までと違って惰性で生きてるからじゃあないんですか。現実を知ってそれを受け入れて、諦めるだけが生き方じゃない。だってそんなの、楽しくない」
倉吉くんの声は大きくなっていて、足早にその場を離れた。
何様なんだ。偉そうに。
今日初めて話したのに何を人の人生観について語ってるんだ。
あぁ、私が最初に話したんだった。聞かれたこと以上にペラペラと。
進んだ距離に比例して、自己嫌悪の気持ちがどんどん大きくなる。
きっと倉吉くんは優しい子なんだ。
大して知らない他人のためにあそこまで熱を持って話してくれる。
私にはない長所だ。
偏屈な性格が、純粋な優しさにさらされて丸くなった気がした。
その温もりを感じたまま、ベッドに飛び込んで死んだように眠った。
数日後、倉吉くんとバイトが重なった日に話しかけた。
帰り際、彼が休憩室を出てくるのを待っていた。
なんだかストーカーのようで嫌だったけど、仕事中は軽く会釈をしただけで碌に話せなかったから仕方がない。
「この前は、ごめん」
ドアから出た倉吉くんは少し驚きながらも、優しく笑いかけてくれた。
「あっ石川さん。謝らなくて良いですよ、何も気にしてません」
一緒に店を出ると、彼は私の持っている大きなトートバッグに目をやった。
「何か持って来たんですか、それ」
「うん」
私はトートバッグからキャンバスを取り出した。
「あ!」
泣きながら帰った翌日から無性に絵が描きたくなって、彼のシフトに合わせて急いで仕上げた荒削りな作品。
こんな身勝手な行動、自分なら絶対にしない。
でも彼なら嫌な顔をせずにみてくれる気がした。
「ヒヨコですか、めっちゃ可愛いですね」
卵から産まれたばかりの小さな雛の絵。
彼の中の私が石川さんじゃなかったら、恥ずかしくて死んでしまうところだ。
というかそれなら流石にこんな絵は描かないけど。
芸術は自己陶酔するくらいがきっと良いんだ、と思い込みながら頑張って描いた。
私は自分の正直な気持ちを誰かにぶつけたことなんてなかった。
吐き出された方も困るし、根本的な解決にならないならその必要もないと思っていた。
でも倉吉くんにぶつけさせてもらったおかげで随分と気分が楽になった。申し訳ないけど。
初めての経験をしたから、殻を破った自分の絵。
我ながら月並みで安っぽい表現だ。
「ヒナさんですから、お揃いですね。素敵な絵です」
「あれ、なんで名前」
「店長、ヒナちゃんって呼んでるじゃないですか」
しまった。
穴を掘ってそこに隠れたい。
「たまたまだよ!かなりたまたま!」
焦りがバレバレなのか倉吉くんが笑ってる。
恥ずかしくて咄嗟にスマホを取り出して下を向いた。
『CCカフェあんまり美味しくなかった>< 今度はここのお店、行きませんか!?』
キキから送られて来た写真は、馬鹿みたいにチョコレートがかかったチョコクレープ。
懲りないなと思いながら、なんだか気分が良かったから二つ返事でOKしてしまった。
甘すぎて歯が溶けてしまっても、今なら笑って許せる気がする。
相対的アイデンティティ 若葉たぬき @haruki-daigaku
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