夜の暗さを知る者たちは

夕凪 倫

第1話 春三日月

そういえば、姉さんが死んだのもこんな日、昨日の雨で散った桜がアスファルトにこびり付いて踏まれた日だった。

雨の次の日はみんな水溜まりを踏まないように下を向いて歩く。

だから、散った桜にばかり目がいって、まだ花びらが残っていることに気づかない。

僕はもう、あれから九年も経っているのに、まだ水溜まりを避けている。

休日に早く目が覚め、ベランダで下着姿で煙草を吸いながら葉瑠はるはそう思った。

日の出は随分早くなった。

部屋の中では瑞樹みずき穂純ほすみが一週間分の寝溜めをしようとアラームをかけずに寝ている。

葉瑠がカーテンを開けたせいで光が差し込み、瑞樹はそれがうざったらしそうに羽毛布団を頭から被った。

目線を外に戻して二本目、吸い終わって三本目を取り出すと、後ろから煙草を取られ、葉瑠は思わず振り向いた。


「もー、葉瑠も若くないんだから」

「ふん、穂純より若いもん」

「三歳しか変わんないでしょ」


言い返せなくなり、黙って三本目をしまいこむと、穂純は「よし、いい子だ」と葉瑠の頭を撫でた。

仕方が無いので朝食を作りにキッチンに向かう。


「今日は何も無いの?」

「うん、今日は完全オフ。だから昨日したんじゃん」

「そうだっけ。覚えてないや」

「ジジイ」

「黙れ」


とりあえずとお湯を沸かして、コーヒーを作りながら話していると、パタパタとスリッパで階段を降りる音が聞こえた。


「おはよう緋居ひお

「おはよう」

「ええ、ここで寝るの?せめてリビングで寝な?」

「んーん、寝ない」

「葉瑠の料理見るんだもんね」

「ん、そう」

「えー、朝何にするか決めてないんだけど」

「じゃあホットケーキ!ホットケーキがいい!」

「いいと思いまーす」


小学生の真似をする穂純をはいはい、と適当にあしらって、葉瑠はホットケーキミックスを取り出した。

テレビでは知っている芸能人が罰ゲームを受けていた。

一人二枚ずつ、計八枚を皿に盛り付け、冷蔵庫内のジャムやチョコソースを出していると瑞樹が降りてきた。


「おはよう瑞樹。最下位だよ」

「うん、いいよ。おはよう」

「緋居は三位でしょ」

「銅メダルだもん」

「母数の小ささが問題だな」


今日は全員予定がなく、そういう休日は久しぶりだった。

気持ちの良い晴天だから、シーツを洗って夏用に替えてしまおう。

葉瑠がそう言い、緋居は自分の部屋から雪の結晶が描かれたシーツを抱えて持ってきた。

前は見えていないが、感覚で歩いてきたらしかった。

洗濯機は平日に回す時と同じ「おいそぎ」で、脱水までを頼んだ。

午前中は緋居の宿題と瑞樹の勉強、穂純の丸つけ作業を葉瑠は眺めて過ごした。

その間にも頭の中では次の曲の改善点やら、次の次の曲のことやら、テレビの出演のこと、食事ロケのことなど、たくさんのことが巡っていた。

十一時半になり、葉瑠はぐぐ、と伸びをして、昼食のことを考え始めた。


「穂純、飲む?」

「んー、もう飲んじゃおっかな。葉瑠は?」

「穂純が飲むなら飲もうかな」

「じゃあ飲もう」


冷蔵庫にある缶ビールを吟味していると、一つの酒が目に入った。

供えなきゃ、忘れてた、と思い、急いで簡易的な仏壇もどきにそれを置いた。


「ああ、忘れてたね。そのまま入れちゃった」

「ま、冷やした方が姉さんも喜ぶよ」


当時姉の由希ゆきが愛していた酒はいつの間にかラベルを変え、値段を変え、今も変わらず同じ陳列棚に並んでいた。


____姉さん。


葉瑠は手を合わせながら心の中で話しかけた。


____もう僕も二十四だよ。


とうに由希の死んだ年齢を越してしまって、歳も記憶もかけ離れていくのが嫌だった。

緋居だって、出会ってから二倍の年齢になり、今年はつなしの会もある。


____もう大丈夫、多分。姉さんが居なくても、多分…。


それ以上は思考が悪い方向に行きそうで、葉瑠は目を開けて立ち上がった。

隣で手を合わせていた穂純も同じタイミングだったようで、供えたばかりの酒を持ち上げ「もらうね、由希」と写真に話しかけた。


今日は三日月夜で、宵の明星が出ていた。

寒いから部屋で煙草を吸おうとして怒られた葉瑠は、朝のようにベランダに出ていた。

昼のせいで、ずっと昔のことを思い出していた。


____あの時は僕の幸せも何ももう要らないと、姉さんが連れて行ってくれたらそれだけでいいと思っていたのに、今はただひたすらに緋居の幸せを願っている。


今夜が暗い日なのを確認して、葉瑠は二本目に火をつけた。

静かな夜だった。

街灯ははるか下にある道路を照らしていた。


____ねえ、姉さん。僕、随分大人になったんだよ。もう毎日姉さんのことを思って泣くこともなくなったよ……。でも、姉さんがいない季節が増えて、あなたのことを忘れて、幸せになるのが怖い。


いつか姉の死を乗り越えることができて、そしたら苦しかった姉を置いてひとり幸せになるのが怖くて、葉瑠はいつも考えすぎるのをやめるのだった。

でも、それではよくない。

お医者さんにだって、あまり気にしすぎないようにって言われてるのに。

それは姉の死をはやく乗り越えろと言っているのと同義だ。


「いいのかな、もう」

「いいよ」


カラカラとベランダの窓を開けて瑞樹が入ってきて、そのまま葉瑠に抱きついた。


「酒臭い」


酒に弱い瑞樹は穂純に無理に飲まされたらしく、全身が火照っていた。

猫のように頭をぐりぐり押し付けられ、葉瑠は頭を反対側に背けた。


「いいよ」

「何のことか分かんないでしょ」

「うん、でも、どうせ先輩のこと」


由希は穂純の同級生で、瑞樹のひとつ上の先輩だった。

当時から付き合っていた穂純と瑞樹の関係を庇ったことで由希はクラスで除け者にされ、元々ゲイであることがバレて腫れ物扱いだった穂純と行動を共にしていた。

家に帰っても親はおらず、弟の体を売って稼いだ金で電気もガスも水道も止められた団地の一角で奨学生から落ちないように勉強する生活。


「耐えられなかったんだろうね」

「さあな。もう誰も分かりやしない。俺たちはもがいて生きるしかないんだよ。先輩の遺した匂いに執着しながら」

「執着かあ…。瑞樹は今僕に粘着してるけどね」

「なんだと」


あの日、葉瑠が穂純と瑞樹と帰って玄関のドアを開けると姉の縊死体があったあの日。

テーブルの上には丁寧に茶封筒に入れられ、

「葉瑠」「穂純」「瑞樹」「母さん」と書かれた遺書たち。

混乱する頭を穂純に抱えられ、穂純と瑞樹の冷静さで警察も救急車もすぐに来た日。

あの日から、葉瑠の世界は丸ごと一変した。


「死んでも世界は変わらないなんて嘘だね。僕はえぐ変わった」

「そうだねえ。俺も変わったし、瑞樹も変わった。変わらないのはその人を知らない人間で、この世界のほとんどの人はその人を知らないから、世界が変わらなく見えるだけだろうね」


ベッドの上で葉瑠が言うと、穂純も賛同した。

寒がりな葉瑠は穂純と瑞樹の間に挟まり、体を小さくして寝るのがいつものスタイルだった。

瑞樹は眠っている。


「ね、穂純はどんなふうに変わったの」

「ん?まず俺の彼氏が二人に増えた」

「瑞樹もじゃん。僕はゼロから二に増えたけどさ」


穂純は眠そうに笑いながら「確かにね」と言った。

三日月の光はこの夜を照らすには不十分だった。


「葉瑠」

「んー?」

「俺はこの家は誰が欠けても成立しないと思ってる」

「うん、僕も」

「死なないでね」


葉瑠は目を見開いて、小さな声で「うん」と言った。

見透かされているのだ。

それは手放しの「生きろ」より優しくて、染み渡るような言葉だった。

その一言を、言えたら良かったのかもしれない。

でも、もし姉さんが生きていたなら、僕は二人とは今一緒にいないだろうし、ましてや緋居のことなんて知らないままだ。

そう思うと、姉の死を乗り越えられたような、肯定してしまったような、不安感に包まれて、また葉瑠は考えを放棄するのだった。


「とりあえず、自分の選択に後悔だけはしたくないよね」


葉瑠は穂純の胸の中で、自分に言い聞かせるように呟いた。

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