第2話 春

ように、厚底を履くのをやめろと怒られてからというもの、家族と出かける時以外はぺったんこの靴を履く。

僕は瑞樹と穂純より背が低いけど、メンバーの中では一番背が高い。

僕はオードトワレという音楽グループで作詞をしている。

今日は新しく出すアルバムの話し合い。

昨日の雨で花びらはもう落ちていて、靴裏にくっついた桜がぺったんこになっていた。

話し合いも小一時間で終わり、ビルを出ると、ぬるい風が吹いた。


「偉いぞ、葉瑠」

「なにが?」

「今日は厚底じゃない」

「誰かさんのプライドのためでしょ?元から身長負けてるんだからいいじゃん」

莉胡りこにはわかんねえよ。背が高いやつが厚底なんて履かなくていいだろ」

「あーあ、私が背低いこと触れたね」

「まあまあ、今日はみんなでカフェにでも行くんでしょ?こんな所で喧嘩してる暇あるの?」


真紘まひろがそういって、二人の腕を引いて歩いた。

学生の頃は二人がこんなふうに言い合うことなんてなかったから、僕は嬉しくてつい止めずに見てしまう。

三時のカフェは平日と言えど少し混んでいて、注文したものが来るまで時間がかかった。


「葉瑠、半分こしよ」

「うん」


莉瑚が頼んだパフェの半分が今日の僕の昼ご飯。

僕の周りにはもう「それだけでいいの?」ときいてくる人はいない。

莉胡が半分食べるのを待っていると、真紘が真面目な顔で話を切り出した。


「三人とも、聞いてもらってもいい?」

「なに?彼女と別れた?」

「違う。彼女とはラブラブ」

「それで?」

「三人の昔のことを映画にしていいかって話が来てるんだけど」


僕らは顔を見合わせた。

ここ一年近くテレビや演技の仕事はしているけど、自分たちの映画となると初めてで想像が難しい。


「それは、私たちが本人役をするの?それとも子役とかを使うの?子役を使うんだったらあんなこと映画でもさせられないから」


なんて返そうか悩んでいると、莉胡がきっぱり言った。

全くの同感だった。


「まだちゃんと詰めてはないからわからないけど、そうだね。それは二人も一緒?」

「うん…」


袖がグラスの水滴で濡れて、僕はこっそり手を膝の上にしまった。

この雰囲気に流されて、僕らの間の会話が全くなくなってしまった。


「ね、葉瑠ごめん、忘れてた、パフェ」

「めっちゃ溶けてるじゃん」

「ごめん」


莉胡に言われて僕も笑いながら言うと、空気がほぐれたのか、また世間話が始まった。

燿の彼女が最近冷たいこと、コンビニの店員さんに話しかけられたこと、最近読んだ面白かった本。

しばらく経って、燿がカツサンドを食べ終わるのを待っていた時だった。


「みんなに出会えてよかった」

「…なあに?どうしたの?莉胡」

「ううん、なんか、思った。…もういい?」

「恥ずかしがるなら言うなよ」

「はー?いいじゃーん」


莉胡は机に伏せて、少し遠い目をしながら「昔のこと、さっきので思い出しちゃった」と言った。

カフェのエアコンが除湿になっているせいか、鳥肌が立った。

思い出すのは、姉のこと、八年前に亡くなった、姉さんのことだった。

僕は姉さんが亡くなってから、五年近くは立ち直れずにいた。


____不安ってさ、夜の渦だと思ってる。


ある夜、僕のPTSDが落ち着いたくらいで瑞樹がそう言った。


____夜?渦?

____うん、いつもね、弓を引く時考えてるんだけど、夜を重ねる毎に渦が強くなっていって、いつか飲み込まれちゃうんだよね。

____えっと、ん?

____もうちょっと、頼ってくれていいよってこと。葉瑠が夜の渦に飲み込まれる前に。


あの時はよくわからなかったけど、今になったら少しわかる、と思う。

姉さんは渦に飲み込まれちゃったんだと思う。

そう思わないと、僕は一生をかけて駄目になって往く気がした。

店を出ると、店先の花が風に乗せて香りを鼻まで持ってきた。

植木鉢はきちんと管理されているのだろう、外側には一切の泥がついておらず、内側の土は均等に湿っていた。


「いいね、花は。僕も何か育てようかな」

「駄目だよ、葉瑠。絶対枯らしちゃう」

「ううん、莉胡でも育てられてるから大丈夫。ポ、ポイン、なんだっけ」

「ポイセンチアね?てか聞き流さないよ?」


「主に育ててるのは私じゃなくて彼氏だし」と莉胡は向こうを向いて言った。

空は春の水色をしていた。


「写真撮ろー?」

「僕持ってきたよ!」


僕は以前莉胡に買わされた、キャラクターのぬいぐるみをバッグから取り出した。

一緒に写真を撮ったり、ぬいぐるみの写真を撮ったりするために作られたらしい。


「え、カメラ持ってる!かわいい」

「でしょ?燿も持ってる?」

「持ってまーす。偉い?」

「偉い!偉い偉い偉ーい!」


移動をしながら大量に写真を撮って、莉胡が撮った写真を「おどとわ♡」と書かれたフォルダに入れた。

莉胡は「いいね、顔いいね、みんなかわわかっこだわ」と謎の言葉を発しながらSNSに載せた。

通知が来て、返信欄にはすぐに大勢の反応が付いた。

隣に居るはずの燿が『隣で「みんなかわわかっこだね」って言ってる』と返信した。


「じゃあね」

「うん。明日ゲーム実況配信あるの忘れないでね」

「絶対燿忘れまーす、遅れまーす」

「はい、遅れませーん、起きれまーす」

「ふふ」

「何笑ってんだよ葉瑠」

「ううん、なんでもなーい」


家に帰ると、先に帰っていた瑞樹が緋居を抱えて頭を撫でていた。


「あ、葉瑠、おかえり。緋居、葉瑠帰ってきたぞ」


緋居はもっと瑞樹の肩に顔を埋めた。

瑞樹が困り顔で僕を見た。

この顔は瑞樹もまだ涙の理由を聞いていない時の顔だ。

僕は急いで穂純に「帰ってくる時セブンのシュークリーム!頼んだ!」と送った。

「ごめん、今日遅くなりそう、、、ほんとごめん、どうかした?」と来て僕は頭を抱えた。

泣き疲れて眠りかけている緋居を叩き起こしてお風呂に入れ、そのままベッドに連れていった。

お風呂に入って目が冴えたのか、緋居はベッドの手前で「寝れない」と呟いた。

嫌なことがあった日は悪い夢を見るらしく、緋居は寝るのに消極的だった。


「おいで、お姫様」

「…それやだ」


そう言いながらも僕の横に寝転んで、腕に頭を乗せてきた。


「明日、ドーナツ焼いてドライブでも行く?」

「本当?やった、葉瑠の焼きドーナツ大好き。でも、配信じゃないの?」

「配信は夜だよ。それに気にしなくていいんだよ、僕のことは。緋居のことが一番大事なんだから」

「仕事よりも?」

「当たり前でしょ。僕は仕事がめちゃくちゃになってでも緋居を守るよ」


開いた窓から入る風が心地よくて、僕まで寝てしまいそうだった。

緋居の肩が一定のリズムで上下し始め、寝息が聞こえてからもしばらく背中を叩き続けていると、玄関から穂純が帰ってくる音がした。

遅くまで仕事していたから、相当疲れているだろうと思い、早めにご飯を出すために僕は急いでリビングに向かった。

リビングでは、穂純がソファに座っている瑞樹の足の間に体を挟み込んで抱きついていた。


「何してんの?大丈夫?疲れた?」

「うん、瑞樹吸い」

「ふふ、いいね。ご飯作るからちょっと待ってね」


豚丼に入れる用のニラを切っていると、後ろから穂純が抱きついてきた。


「もう瑞樹はいいの?」

「うん。邪魔だからどっかいけって言われた」

「酷い男だね。僕ならそんな思いさせないのに」


みりんを取ろうと下を向くと、穂純の左手の薬指に付けられたシルバーの指輪が見えた。

「みんなで付けたくて買っちゃった」と穂純が買ってきたものだった。

ダイニングテーブルに一人分のご飯を出し、向かいに座った。

瑞樹はお風呂に入るようで、洗濯物を漁ってそのまま脱衣所へ行った。


「マイペースだね、瑞樹は。葉瑠も一緒に入ってきていいよ」

「一人で食べるのは気が滅入るでしょ」


美味しそうに食べてくれる穂純を見ながら、いつ緋居の話を切り出そうか迷っていると、穂純から「大丈夫だった?」と訊かれた。

シュークリームから緋居のことだと察していたらしい。


「うん、緋居がね」


僕は今日の緋居のことを一連、穂純に相談した。

穂純は食べていた手を止め、「うーん」と鼻を触った。


「明日、休んでもいいよって言ってるけど、どうだろう、大丈夫かな…」

「一日くらい大丈夫だよ。行きたくない時は行かないのが一番」


仕事でも不登校の子どもの対応をしているのだろう。

自分の子どももいるのに他人の子どもに世話を焼く、相変わらず大変な人だと思った。


「葉瑠?お風呂入ろ?」

「あ、うん、ごめん意識飛んでた」


お風呂上がりに、莉胡と曲についての電話をしようと外に出ると、桜の花びらが降ってきた。

夜空の月と薄ピンクが映えて、僕は心のメモに写した。

瑞樹に言ったら、掃除が大変なんて言うだろう。

まったく、風情がない人だ。

そんな淡白さが逆に心地いいと、僕も穂純もつい頼ってしまう。

煙草を吸っていると、穂純が僕の手から煙草を取り上げた。


「だめ」

「返せ」

「長生きする努力をして?」

「僕の家系は煙草吸っても長生きする」

「母親以上知らないだろ」


僕は笑いながら仕方なく煙草の火を消して、携帯灰皿に吸い殻を入れた。


「見て、桜」

「本当だ。まだ散ってしまってなかったんだね」

「これ見たら瑞樹なんて言うと思う?」

「桜って掃除大変じゃん」

「僕も思った」


二人でひとしきり笑って、穂純は「久しぶりにこんな笑った」と言った。


「お疲れ様」

「新学期はしんどいね」

「僕の吸っていいよ」

「葉瑠の煙草?それとも」

「煙草!」

「あはは、はー…。明日からまた頑張ろ」


穂純が伸びをしながら言った。

みんなまだ渦の途中なんだと思う。

だから抗って生きてる。


朝、少し早起きをして、焼きドーナツの生地を作っていると、穂純が起きてきた。

隣で寝ていたので、気配か足音で起きたのだろう。


「ごめんね、静かに歩いたつもりだったんだけど」

「ううん、俺が繊細すぎるだけ」

「そう。少しソファで寝とけば?起こすよ」

「中途半端に寝てもきついし、起きようかな」

「じゃー朝ご飯作るのお願いしていいですか?旦那様」

「もちろん」


穂純が茶碗にご飯をよそって、僕はオーブンに焼きドーナツの生地を入れた。


「行ってらっしゃい、穂純。ちゅーは?」

「んー……、ふふ、行ってきます」


穂純とのいつも通りの朝を終え、玄関から見送ったところで、僕は起きてこない瑞樹を起こしに行った。


「瑞樹」

「んーおはよぉ…」


普段雰囲気がしっかりしている瑞樹が朝はふにゃふにゃしていて、そこがかわいいと思う。

根はマイペースだから、しっかりしているのは雰囲気だけだけど。

恋と愛の違いは、僕の中でははっきりしている。

穂純に対する感情は愛だ。

でも、瑞樹に対しては恋。

どっちが上なんてのはない。

そんなことを、緋居の部屋に行く道中で考えた。


「緋居、起きる?」

「うー…何時に出る…?」

「緋居さんの準備ができたら行こうと思うけど」

「じゃあ起きる」


恋は「こうして欲しい」が一番最初に感情として出てくる。

でも愛は「こうされても構わない」だと思う。

だから穂純には煙草を取られても何も思わないけど瑞樹に取られると「なんで?」と思ってしまう。

勝手だと自覚はしている。

瑞樹が僕から煙草を取り上げない性格なことも理解している。

だから長い年月、うまくやれていたのかなと思う。


「行ってらっしゃい、瑞樹」

「行ってきます。なんかあったらLINEして」


瑞樹とは行ってらっしゃいのキスもない。

瑞樹はそういうことが苦手で一人ですることもたまにしかないらしい。

恋愛感情は湧くけど性的な情はあまり湧かない。

そんな人もいるか、と割り切ったのは中学二年生の夏。


「さ、緋居、出発するか!」

「わーい」


瑞樹の車に乗り、後部座席にドーナツを置いた。

助手席に緋居を座らせ、目的地をカーナビに入れて車を走らせた。

途中コンビニに寄り、緋居は抹茶オレを、僕はカフェモカをドリンクホルダーに刺した。

車内は特に交わされる会話もなく、静かな車を走らせ辿り着いたのは、僕が小中学生時代に気晴らしによく来ていた見晴らしのいい丘だった。

大きな木が一本生えていて、小学校では「あの木の下で告白すると別れない」なんて噂もあった。

僕が知っている限りのここで告白したカップルはことごとく別れていた。

それに比べて僕らは、穂純の部屋と、瑞樹と帰って迷子になった住宅街の中だったというのに、よく長続きしている。


「ここ、僕が小学生、中学生のときよく来てたんだよね。初めて瑞樹とキスしたのもここだったな」

「そんなこと教えなくていいから」

「あ、ドーナツ食べよーっと」


レジャーシートを広げて、二人だけのお花見を始めた。

桜の木の下でコンビニで一緒に買っていたおにぎりとチキンとお菓子を広げた。


「昨日さ、先生が話してるの、聞いちゃって」

「うん」

「私の家は、だから、葉瑠たちのことなんだけど、普通じゃないからよく見ておかないといけないって」

「…そう」

「なんか悔しかった。私はみんなと同じように暮らしていて、それは葉瑠たちが頑張ってくれたからなのに、まだこんなこと言われなきゃいけないんだって思った。それで、泣いちゃった」


緋居は小さな声で「泣いちゃって、ごめんなさい」と言った。

こういう時に欲しい言葉をすぐにかけられる瑞樹が羨ましいと思ってしまう。

僕は考え抜いてしか話せない。


「僕は」


緋居は大事な話の時に時間がかかってしまう僕のことを知っていてか、長い時間待ってくれていた。

風が吹いた。

ここには僕たちしかいなかった。


「僕は、普通を僕たちで作っていけばいいと、思ってる」


他人に伝えようとして口に出す言葉は醜い。

無理に心に届けなくても、必ず誰かが拾ってくれる。

だから、今の言葉を僕は後悔した。


「僕たちの『普通』は、それぞれ、ある日、緩やかに崩れていって、流されて、掴めなくなって、今があるから」


僕はたくさんのことを思い出した。

違法な営業所で働いていたことがバレて、初めて姉さんにビンタされた春の夜。

瑞樹からベッドの上で「こういうこと、苦手で」と言われた夏祭り後。

穂純が、初めて僕の前で泣きながら「好きになってごめん」と言った立秋。

初めて緋居を自分の娘なのだと感じた冬の朝。


「世間一般の普通はもう僕たちにはないけど、僕たちの普通はまだ作ってる途中」

「周りの目を気にするなってこと?」

「端的に言ったらそういうこと。周りの目とか、世間体とか、もうそんなのに心を動かされる僕たちじゃないよ」


また、風が吹いた。

二人の間を抜けて、遠いところにドーナツの匂いを届けに行くのだろう。

緋居の心弛びと僕の決意もどこか遠くに届いたらいいと思った。

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