第11話 脱走した牛と騎士と魔女

「逃げろ、牛が脱走した!」


 別の方からもけたたましい声がした。


「う、牛……?」


 いつもおいしいミルクを分け与えてくれるあのおっとりした生き物のことだろうかと振り返った時、勢いよく走る一頭の黒い生き物の姿が目に入った。


 それは、牛……であることは間違いないと思うのだけど、想像は違う闘争心たっぷりの表情でこちらに向かって駆けてきていた。


「闘牛用の牛ですね」


 あちゃー、というようにジャドールは荷物を置く。


「行ってきますから、あなたは下がっていてください」


 穏やかに言うものの、その瞳はどんどん険しくなり、牛から視線を外すことはない。


「……」


 危ないですよ、といいたかったけど、駆け出した彼にはそう言えなかった。


 この街の人ではきっとどうにもならないだろう。


 どんどん悲鳴に変わる街の人たちがひとりでも多く避難できることを願うしかない。


 だけど、ジャドールだって無敵なわけではない。


 たしかに彼はとってもとっても強いけど、それは対するのが人であった場合である。


 何の対策もなしにあんな剣一本で何とかできるものではないことを知っているわたしはダメだとわかっていてもおろおろして気を抜いたら腰を抜かしそうだった。


 もっと力の強い魔女ならなにかできたのだろうけど……如何せん、わたしは魔女であることを拒否し、何年もこの力を使うことなく過ごしてきた。


 そのため、薬草を煎じたりなど、ほんの少し魔力しか使用することができなかった。


 遠隔操作でなにかできるなんて、夢のまた夢の話だった。


 どこを目指しているのか、牛は一気に距離をつめてくる。


 過ぎ去った位置には猛烈な砂埃を残して、それは勢いよく迫ってきていた。


 剣を抜き、立ちはだかるジャドールの背中が目に入った。


 近づいてくるとその恐怖はわかる。


(ど、どうしよう……)


 思った以上に大きくて、ジャドールを一瞬にして吹き飛ばしてしまいそうだった。


 ジャドールに怪我を負わせるなんて、絶対にあっちゃいけない。


 一瞬という時間の中で、必死に思考を巡らせる。


 近くに植えられた植物にとっさに触れたときだった。


(え!)


 シュルシュル……という音を立てて、ツルが伸び始めたのだ。


(助けてください!)


 心でそう唱えながら、そのツルに触れると、大きな音を立ててそれは迫りくる牛とジャドールの方に向かって伸びていく。


 ジャドールが構えた時だった。


 後ろから突如として伸びてきたツルが猛威を振るって飛び込んでくる牛の足に絡みついたのは。


 わたしはわたしで制御ができなくなったツルを必死でつかみ、地面に這いつくばっていた。


 倒れた拍子でメガネが粉々に砕けたから、また新しいものを買い直さないといけないなどと思いつつ、それどころではなかった。


 まるで生きているように容赦なく先に進んでいくツルをどうやっておさめたらいいのかわからなかったけど、ツルがジャドールに向かったとたん、ぞっとした。


 ぐっと掴んだけど間に合わず、わたしも引きずりる形になった。


 しっかり的を外すことなく牛に向かって伸びたものの、ジャドールに何かあったらと息を呑んだ。


 ものすごい音を立てて倒れ込む牛と、驚いたように振り返るジャドール。


「フローラっ!」


 きっと彼の視線の先には、みっともなくも転がった小さな魔女が見えたことだろう。


 本当に格好がつかないけど、駆け寄ってきてくれる彼が何ともなくてよかったと心から思う。


 両手でしっかりとつかんだ植物はいつの間にか動きを止めていて、わたしの前で足を止めたジャドールが切り離すように剣をそれに突き刺したのが見えた。


 わっと街の男たちがあちらこちらから一斉に現れ、倒れた牛を押さえかかる。


「ああ、フローラ! なんてこと……た、大変だ……」


 珍しく動揺した様子のジャドールに抱きかかえるように起こされ、久しぶりに激しく動いたわたしはいささか元気を失い、ぐったり彼にもたれかかる。


 摩擦を受けた両手は真っ赤になり、ところどころに血がにじんでいた。


 盛大に擦りむいた膝だってひりひりする。


「ふ、フローラ……」


 さらに騒ぎ立てる街の男たちの声が遠くなるくらい、こちらは不思議と静寂だった。


「あなたのポーションです。飲めますか?」


 どこからともなく小瓶を取りだしたジャドールにいつでも常備しているなんて、わたしよりも魔女らしいじゃない……などとのんきに思っていると、


「わたしが飲ませます」


 などと言ってせっかくの頼みの綱を自身の口に含もうとするからぎょっとする。


「ちょ、ちょちょちょちょちょちょ! ちょっと待って!」


 瞬時に脳内から霧が晴れ、意識がはっきりした。


「待って、待って! じ、自分で飲めますから!」


 慌てて飛び起きようとして痛みに顔をゆがめる。


 でも、口移しだなんて、冗談じゃない。


「両手が使えないから、瓶を口に当ててくれると助かります」


 それだったら飲めるから。


「それなら俺が……」


「あなた、口づけしたいだけじゃない」


「もちろんそうですよ! 許可がない限りあなたに触れられないのがもどかしいくらいです。もう完全に俺のものにしたい」


「なっ、何をどさくさに紛れて……」


 顔の蒸気が一気に上昇したのがわかる。


「あなたを傷をつけるなんて、もってのほかです」


 すみません、と彼は器用に瓶のふたを指で開け、わたしの唇に当てる。


 内心ほっとしながらゆっくりと中の液体を口に含み、瞳を閉じる。


 ごくり、と喉の奥を通過していくのがわかる。


 徐々に体が先ほどとは別の意味でぽかぽかと温かくなり始め、力が湧いてくるのを感じた。


 瞳を開いた時にはもう自分で起き上がれるようになっていて、心配そうにこちらを見つめていたジャドールに思いっきり抱きしめられていた。

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