第76話 思わぬ事態
そうして拓実は大会の出演者や関係者に頭を下げ終えるとすぐ、呼び出された店へと直行した。昂っていた気持ちが一転、何が起きたのかと不安に胸を重くしながら……そしていざ店に到着してみて、目を剥いた。
「あー砂川さーん! こっちですこっちー!」
そうして手招く後輩達の中に、見慣れない人物がいたのである。
いや、見慣れないというのは語弊がある。拓実はその顔を知っている。五十代後半くらいの、精悍な顔立ちで、しかし取っ付きやすそうな雰囲気の……確か会社の総会で見掛けたような……と、そこでピンと来た。
「えっ、マ、マネージャー⁉ なんでここにマネージャーが……⁉」
拓実は素っ頓狂な声を出す。安価なチェーン居酒屋の座敷席に、何故かエリアマネージャーがいるのである。全く意味がわからないが、とりあえず即座に頭を下げる。
「お、お疲れ様です! 豊島区支店の砂川と申します! お待たせしまして申し訳ありません!」
と、堅苦しい拓実の言葉に、マネージャーは朗らかに笑って首を振った。
「いやいや、むしろ申し訳ないのはこっちの方だよ。用事があったのに悪いねぇ呼び出して! うちの甥っ子は言い出したら聞かないから」
「いえ、そんな――って、甥っ子?」
拓実はぱしぱしと目を瞬く。と、支店長の横に座る沢田が「はいはーい」と手を上げた。
「俺、実はそうなんスよ!」
「えっ、えぇ⁉ そうだったのか⁉」
余りの驚きに声つい声がひっくり返る。だってそんな情報、今まで一度も聴いた事がなかったのだ。
「ね、びっくりですよね。私らもさっき初めて聞きましたよ」
「二人とも全然似てないし、まさかって感じですよ」
「ほんと、言ってくれれば良かったのに……水臭い」
どうやら他の後輩達も知らなかったようで、沢田は非難の視線を向けられるのだが、彼は全く悪びれなかった。
「やー、だって偉い人の甥ですなんて知られてたら、どうしたってフラットに付き合えなくなるじゃないっスか。特別扱いされても気持ち悪いし?」
そう言ってのける沢田に対し、マネージャーも大きく頷く。
「ああ、特別扱いは良くない。因みにコネ入社というわけでもないよ。コイツが勝手に応募して、何も知らない人事がうっかり取ってしまったというだけで……ってまぁそんな事はどうでもいいか。とにかく砂川くん、座って座って」
「は、はい!」
思いがけない展開に拓実は立ち尽くしていたが、促されてようやく空いている席に着いた。そうして少し衝撃が抜けてくると、改めて思い出す。今、二班には何やら大変な事が起きているようだと。
「それであの、早速ですけど……狩谷さんに対して限界っていうのは……」
恐る恐る尋ねてみると、途端に沢田が表情を険しくした。
「その前に、まずこっちから質問があるんスわ。砂川さん。今日早退してから、狩谷さんと何かありました?」
「っ! あ、あぁ……」
やはりそれに関係する話か……拓実は少しばかり詰まりながらも首肯する。その内容について自分だけが皆に向けて話すのは、なんだかフェアじゃない気がして躊躇うが。
「それは具体的に、どういう事があったのかな?」
マネージャーに問われれば、黙っているわけにもいかなかった。拓実は姿勢を正し、今日の出来事を報告する。会社を早退した後、狩谷からの呼び出しがあった事。緊急かと思って駆け付けたところ、買い出しやごみ捨てを頼まれた事。狩谷には拓実の用事を邪魔しようという明確な意図があった事。逆らえばクビだと宣告された事。
そしてそれに耐えかね、狩谷への決別宣言をしてしまった事――……
「あの、自分は……今までは狩谷さんに従う事になんの疑問もありませんでした。狩谷さんは俺の入社を後押ししてくれたし、仕事のやり方も教えてくれて……だからこれからも、狩谷さんに付いて行くつもりでした。下の人間は上の人間に従うのが基本だって教わりましたし……そうしないと狩谷さん、不機嫌になっちゃうし……」
その結果、拓実は入社以来、自分の時間というものが取れなかった。仕事を終えた社員達が各々人生を謳歌する中、拓実は狩谷と残業するか、彼の飲みに付き合って。土日には、溜まった家事をこなすだけで精一杯。好きな事をする時間も気力も残らない。
「そんな生き方をずっと受け入れてきましたけど……でも、もう駄目になって。今回の事をきっかけに気付いたんです、自分がこれまでどれだけ無理をしてたのか。自分もやっぱり、好きな事にちゃんと時間を使いたい。それを邪魔する狩谷さんのやり方には、もうついていけなくて……」
そこまで言ってしまった後で、我に返る。マネージャーの前で仕事を蔑ろにするような発言はまずいだろうかと思ったのだ。拓実は慌てて「すみません」と頭を下げるが、マネージャーは「いやいや」と首を振った。そこへ援護射撃を寄越すのは沢田である。
「つかなんも謝る事ないっスよ、砂川さんが言ってるのって普通の事じゃないッスか。自分の人生、好きな事の為に時間使って当然ッス! なのに狩谷の奴、あんな事して……」
「あんな事?」
拓実は怪訝に問い掛ける。と、集まった面々は一様に視線を落とした。どう説明しようかと考えているようだ。するとその中で、三宅がスマホを差し出してくる。
「これ、見てください」
言われるまま、拓実は画面を覗き込み――それから「えっ」と声を漏らした。そこに表示されていたのはSNSの画面なのだが、そこになんと、拓実の名前が書き込まれている。フルネームが、中傷と共に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます