第69話 決別と解放
「……狩谷さん、俺は」
拓実は真っ直ぐに狩谷の顔を見て、口を開く。
「俺はもう、狩谷さんのやり方にはついて行けません」
静かな声音で、しかしきっぱりと言ってやると、狩谷はぽかんと口を開けた。まさか拓実がこんな事を言い出すなんて、夢にも思わなかったのだろう。
その驚きはみるみる内に怒りへと転じていく。彼はドス黒い顔で、鋭く睨み付けてくる。
「お前、何を……自分が何を言ってるかわかってんのか? 上司に向かってついて行けないって……そもそもお前、誰のおかげでうちの会社に入れたと思ってんだ! 俺がいなかったらお前なんて……」
「はい、重々承知の上です。俺は狩谷さんの後押しのお陰で入社できましたし、その後仕事を教えていただいた事にも感謝してます。だからこそこれまで狩谷さんのやり方に従ってきましたが……今回の事、俺にはどうしても許せません」
こんな風に、狩谷に対してノーを突き付けるのは初めてだ。それだけに、心臓がバクバクと鳴っている。やはりどうしたって、上に立つ人間に逆らうのには恐怖がある。
だが、さっきよりも息は吸える。拓実は大きく酸素を取り込み、言葉を続ける。
「今日の大会は俺にとって、すごく大事な、意味のあるものなんです。それに俺が行かないと、大事なチームメイトがプロになる為の機会を逃してしまう。それなのに横やりを入れるなんて、到底許せる事じゃありません」
そう告げる言葉を狩谷は鋭い目のままに聞いていたが、やがて馬鹿にしたようにハッと笑った。
「本当にお前は未熟だな砂川。一時の怒りに流されて上司に楯突こうなんて……なぁ、ダンスが食わせてくれるのか? プロになれるわけでもないのに、生活を支えてくれんのかよ。どう考えても仕事の方が大事だろうが。それにチームメイトってのも、二十歳そこそこの若造だろ。どういう経緯でチーム組んだのかは知らねぇし、お前の方には思い入れがあるのかもしれねぇけどな、絶対馬鹿にされてるぞ。いい歳こいて必死になってダンスなんかって――」
「それは絶対有り得ません」
拓実は迷い無く言い切った。
「彼らは絶対に俺の事を馬鹿にしません。貶めるような事も言いません。俺の努力も成果も、誰より認めてくれてます」
一瞬、「貴方と違って」と言いたい気持ちが湧き上がったが、口にしたら狩谷を更に怒らせてしまいそうなので、グッと堪える。そして改めて冷静に、話を続ける。
「だから俺も、彼らの為に行動したいと思うんです。それに、仕事は勿論大事ですけど、だからってダンスも捨てられない。俺にとってダンスは、そんなに軽いものじゃない。それを捨てろと言われても、従う事はできません。仕事上の指示ならいくらでも聞きますけど、私生活にまで踏み込まれるのはこれ以上許容できません」
明確な拒絶を告げ、床に置いていた鞄を取る。もう本当に、今出なければ間に合わないという時間だった。そうして背中を向けた拓実に、狩谷は「オイ!」と怒鳴り付ける。
「お前、上司にそこまで言ったままで出て行く気か? そんな事したらうちの職場で働けなくなるぞ!」
「っ⁉」
その言葉に、拓実は思わず足を止めて振り向いた。狩谷は勝ち誇ったように、ニヤリとした笑みを見せる。
「当然だろ、上司に楯突いて、なんの処分もないわけがねぇ。言っとくがな、転職を考えたって、お前なんか何処も雇ってくれねぇぞ。仕事もろくにできねぇし、ダンスなんかに現を抜かして社会に出遅れた人間なんだ。露頭に迷うのが嫌だったら、今すぐ俺に謝罪しろ。それで仕事だけに打ち込むと誓え! お前は俺の下くらいでしか働けねぇんだ!」
「――っ」
そこまで言われると、さすがに足が動かなかった。狩谷の言う通り、拓実も今の職場以外に働き口はないだろうと思っているのだ。
何せ、狩谷に散々使えないと言われ続けてきた上に、過去、就職活動で苦労したのが強烈なトラウマだ。自分のような人間は、今の職場を追い出されたら、また居場所を失くしてしまう。ここで狩谷に見放されたら、今度こそ人生が終わるかも……
なら、やはり謝るしかないのか。
ダンスをやめると誓い、狩谷の元で仕事のみに専念して生きていくしかないのか。
今日のダンスジャンクも諦めて、狩谷の元で……そんな考えが過ったが。
そこで頭に蘇る声があった。
それは二人の若者達、春親と清史の声である。
彼らはいつも、拓実の背中を押してくれた。大丈夫、タックならできると繰り返し伝えてくれた。その明るく熱のある声が、謝罪を思い留まらせる。
そして、それをきっかけに思い出す。今日の昼、自分は一体何を思った? 今の自分なら、どんな問題だって解決に導けるに違いないと、そう思っていたじゃないか。
だって自分はこの二カ月、ダンスの実力を取り戻し、後輩達とも協力し合い、一班の業績を追い抜いた。そうだ、自分は駄目なんかじゃない。狩谷の言葉を鵜呑みにする必要はない――……
拓実は自らにそう言い聞かせると、狭い気道から懸命に空気を取り込んで。
「……お言葉ですけど、転職くらいできますよ」
静かにそう打ち返した。これに狩谷は信じられないという顔をする。クビをチラつかせれば、拓実が態度を改めると信じ切っていたのだろう。
だが、もうそうは行かない。拓実は更に言葉を続ける。
「俺は、狩谷さんの言葉を信じて、ずっと自分が駄目な奴だと思ってきました。でも狩谷さんがいない中で仕事をして、気付いたんです。俺のやり方でも十分に業務は回せる、結果だって出せるって。まぁそれは後輩達の協力があったので、俺一人の力じゃないですけど……少なくとも問題を起こさずやれた。その上勤続九年です。それだけでも、信頼材料には十分なはずです。きっと他の勤め先だって見付けられます」
これは狩谷の嫌いそうな、思い上がりとも取れる発言だ。だが、それでも狩谷からの反論はない。きっと拓実の言っている事が間違っていないからだ。
つまり狩谷が拓実を駄目だと言い続けたのは、実力を評価しての事ではなかったのだ。彼はただ、拓実の自尊心を削ぎたかっただけなのだろう。彼は只管、周りを見下して生きている。拓実の事も、後輩達の事も、松崎の事も。そうして自分だけが優秀だという顔をしていたいのだ。そんな事にも気付かずに己を卑下していたと思うと、馬鹿馬鹿しさに泣けてくる。
何が優しい? 何が懐が深い? こんな相手の為に、人生の貴重な時間を無駄にし続けてきたなんて。
「とにかく俺は謝るつもりはありません。これで職を失う事になるなら仕方ない事だと受け入れます。後の処分は狩谷さんの好きなようにしてください。それじゃ」
――失礼します。
そう言い終わる前に、拓実の足はもう玄関へと向かっていた。スニーカーに足を突っ込み、そのままマンションの廊下を駆ける。
馬鹿みたいに心臓が鳴っていた。頭の中では数々の感情が飛び交って、目の前はチカチカと明滅する。
言ってしまった。
言ってしまった。
その所為で本当に、職を失うかもしれない……
それは間違いなく人生の大打撃で、これからどうしようという想いが襲う。
しかしいっそ可笑しいくらい、後悔の念は湧かなかった。むしろ視界が一気に開けたような、爽快な気分だ。狭くなっていた気道も一気に広がる。酸素が身体に流れ込む。
だって、これで解放だ。
これで自分の人生を取り戻せる。
そう思うと、視界がクリアになったようだ。目に映るもの全てが、ワントーン明るくなって飛び込んでくる。嗚呼そうか、世界ってこんな色をしていたっけ……拓実はそんな事を考えて、大いに自由を実感したが――そんな中でも足元は必死に駅を目指していた。
つい頭に血が上り、時間を取られ過ぎてしまった。今からダンスジャンクに向かって、到着は何時になる? 決勝には間に合うのか?……いや、何がなんでも間に合わなければ。仲間の為にも、自分の為にも。
拓実はそう自らに強く誓うと、ズキズキと痛む膝を励まして駅までの道を駆け抜けた。
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