第64話 狩谷の要望

 ◆◇◆


――時間を数時間巻き戻す。


 会社を早退した拓実は狩谷の家へと向かったが、その道中、心臓がずっとバクバクと鳴っていた。一体狩谷に何が起きているのだろう。こんな風に呼び付けられるのは初めてだが、という事は今、過去にない重大な問題が彼の身に起きているのでは。本格的な仕事復帰を控えているとは言え、まだ全快というわけじゃないのだろう。そんなところへ不測の事態が起きていたら……


 最初の連絡以降狩谷からの返事がない事が、拓実の不安を増幅させた。とにかく彼の家に行き、状況を確かめなければ……嗚呼駄目だ、こうしている間にも悪い想像が膨らんで、どうにも心臓が落ち着かない。


 と、拓実の鼓動がうるさいのは、狩谷を案じてというだけじゃなかった。もしも彼に物凄く悪い事が起きていたら――それ自体も恐ろしいが、その場合、ダンスジャンクへの参加だってできなくなる。そう思うと指先がキンと冷たくなる。


 だって自分が居なければ、Snatchの決勝が成り立たない。ダンスジャンクのルールとして、決勝はチーム全員が一ターンずつ踊らなければいけないのだ。

 きっと春親と清史の実力があれば、決勝まで勝ち上がる。が、折角勝ち上がったところで自分がその場に居なければ、彼らはきっと失格に――いや、そんな事にさせてたまるか。


 それにこの二カ月……いや、ダンスを辞めてからの九年間、自分はこの機会を夢見ていた。再び人前で思い切り踊る機会を。

 人生の内、もうこれが最後でいいのに。

 今夜踊る事さえできれば、ちゃんと未練を捨てられるのに。

 それが叶わないかもしれないなんて、そんなのアリか?

 今日のステージが無事に終われば、後の人生は仕事に捧げて全然いいのに――……と、そこまで思考したところで。


「――……っ」


 またしても呼吸が苦しくなった。喉の奥が強張って、なんだか酸素が取り込み辛い。

 先程から襲ってくるこの感覚はなんなのだ? 緊張の為かと思ったが、今はそんな事考えていないし……そこで拓実はハッとする。


――もしかして、身体が抵抗しているのか?

――ダンスとの決別を前にして、嫌だ嫌だと訴えているのかも……


 一度そう考えると、心が一気に染められ掛かった。強い拒絶感に、全身がギュッと強張る。だってやっぱり、ダンスをやめたいわけなんて――……と、そんな思考を拓実は無理やり押し殺した。だってこれは、考えても仕方のない事だから。


 置かれた場所で咲きなさいという言葉がある。自分は今在る環境の中、求められた振る舞いをするべきだ。そうする事で給料をもらっている。そうする事で、社会に居場所を得ているのだから。


 大丈夫。ダンスを捨てたその生き方にも、人生の喜びはきっとある。例えば先日、松崎に業績を褒められた。あの時はかなりのやり甲斐を感じたじゃないか。今日、後輩達が仕事をカバーしてくれたのも嬉しかった。仕事に打ち込む人生だって悪くはない。そう、きっと悪くはない。


 拓実は自らに言い聞かせるが、しかしその踏ん切りを付ける為には、やはり最後に思い切り踊っておきたかった。そこにダンサーだって自分を全て置いてきたいのだ。だが、狩谷が置かれている状況によっては――……


 電車に揺られている間、思考はマイナス地点の中をぐるぐると回った。とにかく早く状況を確かめたくて、狩谷の家の最寄り駅に着いた途端、弾かれたようにホームへ飛び出す。帰宅ラッシュで混み合う駅を、人並みの合間を縫って駆け抜けて。その勢いを落とさないまま狩谷の家へと走り続ける。急激な運動に膝がズキリと痛んだが――どの道今日まで持てば良いのだ、構うものか。


 そうして辿り着いたマンションの一室でインターホンを押す。呼び出し音の余韻を聞く中、悪い予感が頭を過る。もしこの扉の向こうで、狩谷が倒れてしまっていたら……考えるとぞっとする。その場合はどうすればいいのだろう、まずマンションの管理人に連絡を取って、鍵を開けてもらうのか? それから必要に応じて救急車を呼んで、それから、それから……そんなシュミレーションをしていると。


 ガチャという音が鳴り、中からドアが開けられた。その瞬間、拓実は「あぁっ」と安堵を漏らす。良かった、狩谷は意識を失っているなどの最悪の状態ではなかったのだ……と、そこへ。


「おぉ、来たか砂川。とりあえず中入れよ」

――……うん?


 本来言うべき「大丈夫ですか」という言葉もつっかえてしまうような、強烈な違和感が襲ってきた。何しろ出迎えに立った狩谷は、足を庇ってはいるものの、特段体調が悪いようには見受けられなかったのだ。


――え、これって……?


 拓実は事態を飲み込めないまま、「お邪魔します」と靴を脱ぐ。上司に勧められたら断らない、これはもう身に染み過ぎたルールである。そうして狩谷に続きリビングに入るのだが、やはり聞かないわけにはいかなかった。


「あの、狩谷さん、一体何があったんですか? 助けてくれなんて仰るので、何があったのかと心配して……メッセージも返ってこないし……」

「ああ、返事寄越してたのか。悪いな、仕事してたから見てなかったわ……ってそれはいい、ともかく大問題が起きてんだよ」


 狩谷はソファにどっかりと腰を下ろす。そうして続いた台詞とは。

「困った事に箱ティッシュが切れそうなんだわ。お前、ちょっと買ってきてくれよ」

「…………はい?」

 思わずそんな声が漏れた。

 それに、瞬きも留まらない。


 だって……ティッシュ?


「えっ……と、あの……俺はてっきり、狩谷さんの体調に何か異変があったのかと思ったから来たんですけど……え、本当にそれだけですか?」

 俄かには信じられず、拓実は慎重に問い掛ける。すると狩谷は心外そうに。

「おい、それだけってなんだ。ティッシュが切れるって大問題だろうが。けど来週からの復帰の事を考えたら、今無理して動き回りたくねぇんだよ。で、今日はもうお前の仕事が終わってるって気付いたわけだ。だったら買い物頼めるなって」


 悪びれもなく語る狩谷に、拓実はなんと言って良いものやらわからなかった。だって、余りにも想像との温度差があり過ぎる。「助けて」なんて言われたら、深刻な事態だと思うじゃないか。だからこそダンスジャンクに遅れてまで駆け付けたのに……というか、早退申請をしているのだから、何か大事な用事があるとは考えなかったのだろうか。それを阻害してまで、こんな用事を頼むなんて……


 そんな憤りが湧き上がったが、しかしすぐにもう一人の自分が火消しに掛かった。落ち着け。落ち着け。普通ならこんな事で呼び出さないだろう、が、それでも狩谷がその選択をしたという事は、余程困っていたという事じゃないか。


 そう、そうだ。ティッシュは生活必需品。それが切れたら生活に支障が出る、ような気がする。もし何かアレルギーなどがあれば、ティッシュがないのは死活問題……だが、狩谷からアレルギーだなんて話、聞いた事があっただろうか……


 ――いや駄目だ、考えるな。重要なのは、狩谷が自分に助けを求めたという事実だけ。ならば部下として、手を貸さないわけにはいかない。

「わかりました。じゃぁすぐに行ってきます」

 拓実は短く告げると、すぐに部屋を出ようとした。コンビニはすぐそこにあったはずだし、早く用事を済ませてしまおうと――するとその背中へ、狩谷の声が掛けられる。

「あぁそうだ、ついでに晩飯も買ってきてくれ。十分くらい歩いたとこにスーパーがあるから」

「えっ」

 反射でそう言ってしまってから、拓実は慌てて口を押さえた。上司の指示に「えっ」はない……が、しかし目を瞬く。だって、十分先のスーパーまで行くとなれば、往復と買い物時間で三十分は潰れてしまう。ダンスジャンクへの到着が、著しく遅れてしまう。


「あの、狩谷さん、俺――」

 そう発言し掛けたのを、狩谷の「しっかし」という声が遮った。

「お前が来てくれて助かったわ。ここで無茶して、来週からの出社に影響が出たら困るからな。それにここんトコ、ほとんど出前かコンビニ飯だったから、決まりきったモンばっかで辟易してた。久々に違うモンが食えんのはすげぇ助かる」


――助かる。


 その台詞に、拓実は言うべき事が言えなくなった。何しろ狩谷という人がこんな風に感謝の言葉を述べるのは非常に珍しい事なのだ。彼は滅多に他人を褒めたり労ったり、まして感謝なんてしないのである。それ程までに怪我が堪えていたという事なのか……そう思うと使命感が湧き上がる。


 自分はこれまで、この人に散々世話になってきた。

 だから彼が弱っている今、少しでも恩を返さなければ。


 チラと時計に目をやれば、少なくとも自分の出番までにはまだかなりの猶予がある。

 春親や清史のバトルをゆっくりと観賞できないのは残念だが、しかし今は、狩谷の助けとならなければ。

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