第57話 狩谷からのSOS
この日は非常に恵まれていた。特にトラブルもミスもなく、得意先からの急ぎの注文も入らない。更には後輩達が積極的に拓実の仕事を肩代わりしてくれた為、事前に申請していた通り、拓実は定時の一時間前、十七時にパソコンの電源を落とす事ができた。
「じゃぁ、俺はこれで上がらせてもらいます。協力してくれてありがとう、お陰で物凄く助かった……! あ、もし何か緊急の用事があれば、メッセージを……」
「わかってますわかってます! いいから砂川さん、早く行ってくださいって!」
「そうですよ、後の事はお気になさらず、楽しんできてください!」
「今週もお疲れ様でした!」
後輩達はそう言って、さっさと拓実を帰そうとする。本当は彼らに不安のないように、もっとしっかり引き継ぎをしたかったのだが、それよりも早く退社する方が彼らにとっては良いらしい。皆の後押しを無駄にしない為にも、拓実は早々に事務所を出る。
そうして駅に向かって歩き出すと、いよいよ心臓が高鳴った。
――ああ、これからついに本番なんだ……!
それを思うと色々な感情の奔流が襲ってくる。不安もある、緊張もある。だが同時にわくわくもしていて――なんというか複雑だ。
だが一つ確実に言える事は、拓実は今とても、人生を鮮やかに感じているという事だ。
会場に向かうこの一歩一歩が、とても特別なものに思える。歩む程に“勤め人の自分”が剥がれ落ち、あの頃の、ダンスばかりに夢中だった自分へと還っていく。
――そうだ、今は本当に、ダンスの事だけ考えていい。
――それ以外は、全部置いていっていいんだ。
そう思うと、心も身体も何処までも軽くなった。まるでこのまま、足が宙を駆け始めてしまうのではというくらい――……と、そこで。
不意に、ポケットでスマホがブブッと振動した。
何かメッセージが届いたらしい。
――あれ、誰だろう。もしかして、会社で早速何か起きた? それか清史くんからの事務連絡か?
考えながら歩調を緩め、スマホの通知を確認し――
「っ!」
その瞬間に足が止まった。メッセージの送り主は予想外の人物――狩谷だったのである。
今日の業務に至るまで、狩谷は相変わらず妙であった。これまでは拓実の仕事内容についてしつこい程に確認し、その出来に何かしらの指導を加えていたのが、最近では向こうからの連絡はなく。そしてこちらが何を報告しようとも『了解』の一言しか寄越さないのだ。これについて拓実はずっと不可解に思っていたのだが……その狩谷からメッセ―ジとは、一体なんの用事だろう。
この時点でなんとなく、嫌な予感がした。だって拓実が今日早退予定である事は班の共有カレンダーに入力しているし、朝の内にメールでも報告している。つまり現在が既に拓実の業務時間外だという事は狩谷もわかっているはずだ。が、それでもメッセージを送ってくるとは、余程火急の用事だろう。もしや自分は、何か大きなミスでもしてしまっていただろうか……?
拓実は己の仕事内容を思い返しながらメッセージを確認する。と、そこに書かれていたのは、拓実のミスを糾弾する内容ではなかった。だが、拓実は凍り付く。
『動けなくて困ってる。助けてくれ』
「え――」
思わず小さな声が漏れた。瞬間で、身体が強張る。だって“助けてくれ”とは穏やかじゃない。どう考えても、狩谷が何か危機に陥っているという事じゃないか。
狩谷はずっと様子がおかしかったが、しかし来週からの職場復帰のスケジュールに変化はない。それ故もうほとんど怪我の具合は良いのだろうと考えていた。が、こんなメッセージを送ってくるとは、まだまだ状態が良くないのか。そもそも“動けない”とは、一体何があったんだ?
『狩谷さん、どうしたんですか?』
拓実は急いで返信する。とりあえずは状況の確認が必要だ。
だが待てど暮らせど狩谷からの返信はない。変化のないメッセージ画面に、じわじわと悪い想像が広がっていく。
もしや狩谷は、家の中で転倒でもしたのだろうか。その所為で動けない程、怪我の具合が悪化した? はたまた怪我とは関係なく、今日もそれなりに気温が高い為、熱中症を引き起こしたとか?
狩谷は現在一人暮らしだ。何かあった時に頼れる人間が側にいない。それに狩谷から助けを求められたのは初めての事である。つまりは余程切羽詰まった状況だという事ではないだろうか。ならば即座に狩谷の元へと向かうべきでは――
だが、拓実は決断を躊躇った。
今から狩谷の家に向かい、何かが起きていた場合に救急車を呼んだとしても、ダンスジャンクの出番には間に合うだろう。自分は決勝までは温存される予定の為、時間には猶予がある。
だがそれでも躊躇うのは、春親と清史のバトルを目に焼き付けたいという思いがある為である。
彼らが踊る様子を、練習ではもう何度も観てきた。だが、いざバトルとなれば、その迫力はきっと桁違いになるはずだ。彼らの雄姿が見られるのも、今日を楽しみにしていた理由の一つである。
狩谷の元へ行ったら、もしかしたら一回戦目には間に合わないかもしれない。できれば最初の試合から彼らを見守り、全力の声援を送りたいが――……
だがそんな逡巡の末、拓実はぶんぶんと頭を振った。
折角の機会である事はわかっている、が、もし今狩谷が苦しんでいるのなら、やはりそれは捨て置けない。もしかしたら拓実が想像しているよりもずっと危機的な状況に置かれているかもしれないのだし、とにかく助けてくれと言われた以上、部下として、いや人として、放ってはおけない。
拓実はそう心を決めると、駅に向かって駆け出した。
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