第五章 ダンスこそが人生

第56話 広がっていく視野

――あぁ、いよいよだ。

 拓実はパソコンのキーボードを叩きながら、心臓が騒ぐのを感じていた。どれだけ水を飲んでも飲んでも、すぐカラカラに口が渇く。気付くと膝が震えているし、何度も時計を見てしまう。

 まぁ落ち着かないのも無理はない。今夜、いよいよダンスジャンクの本番なのだ。


 この二カ月、ダンスに真剣に向き合ってきた。体力作りに全力を尽くし、寝る直前まで鏡の前で身体の使い方を研究した。自分の動きを動画に収めて、納得いくまで改善して。良かった動きは完全に身体が覚え込むまで何度も何度も反復して。

 それにバトルが少しでも有利になるよう、懐メロも最新ナンバーもアニソンも洋楽も万遍なく聞き漁り、どんな曲にでも反応できるようイメージを高めた。それからダンス動画も何百本と見漁って……


 そう、できる事は全てやった。一切妥協はしなかったし、実戦だって経験した。どう考えても準備は万端――な、はずなのに、不安は消えない。久々過ぎる大会を前に、どうしたってナーバスになる。


――でも、本番には全部捩じ伏せて踊らなきゃ。


 拓実はグッと奥歯を噛み締める。今までは春親と清史の足を引っ張るまいと考えていたが、今はその一歩先、彼らがプロになるという夢を自分も全力で後押ししたいと考えているのである。


 ダンサーが世に出る時、実力が物を言うのは当然だが、経歴が重要視されるシーンもきっと多い。「あのアワジ主催の大会で優勝」という経歴があれば、きっとかなりの箔が付く。この実績一つで、彼らがプロとしてスタートを切る際の搭載エンジンが絶対的に変わって来る。それは絶対逃せない。


――って、出会ってたった二カ月なのに、こんなにも思い入れが強くなるなんて……


 拓実は自らの熱の入り様に笑ってしまう。だがそれ程までに、彼らと共有した時間は輝かしかった。

 互いのダンスに刺激を受け合い、良い動きがあれば教え合って。体力の限界が訪れれば共にフロアに倒れ込む……そんな日々を、同じ情熱を燃やしながら重ねていれば、思い入れが強くなって当然だ。


 それに彼らは、いつも尊重してくれた。怖じ気付いて逃げ出し掛けたり、バトルを最後まで踊り切る事ができなかったり、振り返れば失態ばかりだった気がするが。それでも仲間として受け入れてくれた。

 そんな彼らの助けになりたい。もらった以上に報いたい。だから今夜、なんとしても勝ちたいのだ。春親と清史の将来の為、全身全霊を尽くしたい。


 そしてもう一つ、気合いを入れる理由がある。

 それは今日の大会が、春親と清史が道を拓くものであると同時に、拓実にとってはダンス人生の幕をもう一度降ろすものだからだ。


 九年前、膝を壊してプロになるのを諦めた。それ以降、社会人としての遅れを取り戻す為、必死に仕事に食らい付いた。そんな中で日常的にダンスをする余裕はなく、これからの人生、ダンスはたまの息抜き程度の存在になるのだろうと割り切ったが……そこに未練がなかったと言えば大嘘だ。


 何しろ拓実は、なんの心構えもないまま踊れなくなった。生きる意味そのものだったダンスを、突如奪われたのである。せめて最後にもう一度踊れたら。自分の積み重ねて来た全てをフィールドに置いて来る事ができたらと、そんな想いがずっと燻ぶり続けていた。


 そこへ今回、またとない機会が巡って来た。全力でダンスに没頭する、人生最後の機会である。ならばここに情熱を全てぶつけて燃やし切らねば。全ての未練を断ち切る為に……と、考えていると。


――っ、あれ……?


 拓実は不意に違和感を覚えた。なんだか気道が狭くなったというか、呼吸がし辛い感じがしたのだ。

 もしや緊張が過ぎているのだろうか。だとしたら、本番もガチガチになりかねない。


――大丈夫。大丈夫。

――色々と背負うものはある、けど、何より今日を楽しもう……


 拓実はそう言い聞かせ、自らを落ち着かせる。そうすると少しずつ呼吸はマシになったが、しかし完全に治りはしなかった。喉につっかえたような感覚が居座っている。


――これは……ちょっと困るなぁ……


 だがこれもブランクによる税のようなものかと納得した。九年ぶりに、しかも大きなステージに立とうというのだから、少しくらい調子を崩して当然だ。

 それに今は、この程度の事を気にしている場合でもない。拓実は改めて業務へと向き直る。早上がりの申請をしているとは言え、仕事を残していくわけにはいかないのだ。それにもしミスがあれば、最低限のリカバリーを行ってから上がらなければならないので、集中を欠くわけにはいかない。


 拓実は迅速かつ丁寧に、次々と仕事を片付けた。事務作業は確認を怠らず、配送はスピーディー且つ安全運転を心掛け、営業活動は今日ばかりは控えめにして。一つ一つ、確実にこなしていく。

 そうして午後のデスクワーク中、配送から戻った沢田が声を掛けてきた。


「砂川さん、お疲れ様っスー。進捗いい感じッスね! この調子なら予定通り、申請時間に上がれそうスか?」

「ああ、お陰様でな。このままトラブルが起きなければ問題はなさそうだ」

 そんな拓実の返答に、沢田はやけに嬉しそうな顔をした。

「そりゃ良かった! けどもしなんかトラブったら、こっちに振ってもらっていいんで!」

「へ?」


 その台詞に、思わず間抜けな声が出た。そして怪訝に後輩の顔を見詰める。

「沢田……お前、どうかしたのか? そんな事言い出すなんて……できる限り仕事の手を抜くのがお前だろ?」

「あー、まぁそうなんスけどぉ」

 拓実の若干失礼とも取れる見解を否定もせずに、沢田は言う。

「でも砂川さんが早退の申請取るとか、めっちゃ珍しいじゃないスか! しかも結構前から申請してたって事は、通院とかじゃなくて、楽しい予定って事っスよね? なら絶対時間通りに上がって欲しいんスよ」

「へ、なんで……」

「だって俺、有給とか早退の申請の度に砂川さんにアシストしてもらってたじゃないっスか! だからこういう時くらい恩返ししたいっつか!」

「へ……」

 これに拓実は唖然とした。驚きの為、息苦しさも意識の外に追いやられる。

 だってまさか、仕事は言われた事だけやっていればいいだろうというスタンスのこの後輩から、そんな言葉が聴けるなんて……いや、最近では拓実に付き合って営業活動も手伝ってくれるようにはなっていたが、でも、ここまで言ってくれるとは。


 衝撃の為に咄嗟にリアクションが取れずにいると、二班のデスク中から後輩達が割り込んできた。

「私らも何かあれば協力するので!」

「砂川さんもたまには羽目外してくださいよ」

「配送もなんなら俺が代わるので……」

「ね、来週からは狩谷さんも復帰してきちゃうし、その前に楽しんできてください!」

 最後のあからさま過ぎる台詞は言わずもがな沢田のもので、後輩達は一斉に彼を黙らせに掛かる。拓実も彼らと同じように、沢田の発言を注意しなければならなかったのだろうが……そこまで頭が回らなかった。狩谷には悪いが、ただ只管に、後輩達が気遣ってくれた事が嬉しくなってしまったのだ。


 だが面々が賑やかになり過ぎた為、拓実はハッと我に返り、場を静める為に咳払いした。それから皆に向かって笑顔を作り。


「えぇと……皆、気に掛けてもらってありがとう。正直とっても助かるよ。それじゃもし何かあったら、その時はよろしく頼むな」

 そう言うと、後輩達は一斉に頷いた。彼らの顔を見渡して、頼もしいなと考える。少し前まで彼らの事を、ちょっと厄介な自由人だと思っていたのに。


――そうか、この二カ月で俺が得たのは、ダンスに関する事だけじゃなかったんだ。


 狩谷が不在となった事で、後輩達を見る目についても随分と変化した。彼らは意外にも仕事ができ、狩谷の厳し過ぎる指導さえなければ、率先して動いてくれるとわかったのだ。


――今まで俺は、狩谷さんについて行こうとする余り、視野が狭くなってたのかも……


 思えばこれまでは何を判断するにしても、狩谷の見解が強く影響していた気がする。狩谷ならなんと言うか。狩谷は確かこう言っていたっけ。これは狩谷は嫌うだろう……そんな事ばかり考えていた。それ故に後輩達に対しても、狩谷の見立てを踏襲し、やる気の無い社員だと認識していた。


 だが、実態はそうじゃない。彼らは――まぁ残業こそ頑なにしないものの、ちゃんとやる気はあるのである。そしてそんなやり方でも、業務はちゃんと回せている。

 この事実を狩谷にも伝えられれば、二班の在り様も変化するのではないだろうか。それに後輩達がこんなにも自分に友好的なら、自分から彼らへ、狩谷への歩み寄りを働き掛ける事もできるかも……。すぐに成果は出ないだろうが、やるべき価値はきっとある。


――うん、そうだ。やればきっとなんとかなる。


 そう信じられるのは、この二カ月、ダンスと仕事を両立できた為だろう。今の拓実には、前よりずっと自信がある。己の能力を信じられる。今の自分なら、どんな問題だって解決に導いていけるに違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る