第55話 引退なんてさせたくない


 ◆◇◆


 新宿駅にて拓実と手を振り解散すると、清史と春親は山手線の混雑したホームを連れ立って歩いた。夜の新宿駅は混み合うが、汗を掻いた後の人混みは煩わしい為、少しでも空いている場所を目指して歩く。そうして電車待ちの位置を決めてから、暫くすると、


「……やっぱどうにもなんねぇのかなぁ」


 隣で春親が唐突に口を開いた。主語も何もない呟きだが、清史はその意味するところをしっかりと汲み取り、その上で呆れて息を吐く。

「お前、まだ言ってんのかよ……てっきり納得したのかと思ったのに」

「そりゃ、あの場であれ以上色々言っても、タック困らせるだけだから我慢しただけ。納得なんてしてねぇわ」

 春親は口を尖らせて答えるが、この相棒が我慢をしたという事実に清史は驚かされた。何しろ春親はいつだってマイペースで、自分の感情に正直に生きていたからだ。

 しかしそんな彼でも、あれ以上拓実を困らせるべきではないと思ったのだろう。明日の大会を良い形で迎える為にも、不毛な話し合いを続けるのは如何なものかと。そんな大人な判断ができるようになったのかと、ずっと彼のフォロー役を担ってきた清史は感動を覚えてしまう。


 が、その我慢も限界を迎えたらしい。清史と二人になったのをいい事に、春親は憤懣やるかたなしという様子で訴える。

「だってさぁ、やっぱどう考えても勿体ねぇじゃん、タックがまたダンスから離れるなんて……あの人って才能の塊だもん。それに今もダンスが好きだって、堪らなく好きだって、見てればわかる。それなのにやめるのが正解だなんてどうしても思えねぇの俺は!」

「そりゃぁ俺だってそうだけど……」

 清史はそう返したものの、スタジオで話した時のように割り切った言葉を続ける事はできなかった。清史もまた、拓実の前では物分かりのいい振りをしたのだ。本心では春親同様、拓実が引退する事に大きな疑問を感じている……が。


「まぁでも、俺らにはタックの事情はわからねぇからな。どういう職場で、どういう事情の中で働いてんのか……さっき聞いた限りだと、相当複雑な感じだろ。微妙な立場っつか……上司も厳しいみてぇだし」

 結局はそう言うより他にない。他人の事情に――特に家庭や仕事の事に口を出すのは御法度だとわかるからだ。

 だが春親は勢いを落とさず、「つか、それなんだけど」と言葉を続ける。


「タックってさ、なんかちょっと……洗脳? されてる気しない?」

「洗脳ぉ?」


 その非日常的な物騒な言葉に清史は顔を顰めたが、しかし冷静に考えた後で、「あー……」と同意の声が漏れた。先程の拓実の事を思い返すと、妙に納得してしまったのだ。


「それ、わかる気がするな……詳しい状況知らねぇから確かな事は言えねぇけど、話聞いてる印象だと、タックは上司に従順過ぎる感じがする。私生活との切り分けができてねぇっつか……んでそれを当然だと思ってるっつか……」

「ね、だよね?」

 春親は正にそれが言いたいというようにこくこく大きく頷いた。


「それにさ、覚えてる? 初めてスタジオ練した時さ、タック、自分の事全然駄目って言ってたじゃん。上司に使えないって言われてるって……でも一緒にやってればそんな事ないってわかる。あの人って真面目だし、どうすれば上手くなれるかってめっちゃ考えて工夫もしてる。俺らみたいな年下相手にも偉ぶらないし、レスだって俺に比べてすげぇ早い……そういうのって、人間力高いって言うんじゃねぇの? 仕事も普通にできるだろって思うんだけど」

「あー、だよな……」


 春親の言う通りだ。これまでの二カ月で共に過ごした拓実というのは、努力家で常識人で、人当たりだって良い。とても上司から使えないと言われるような人物には思えないが……


「なのにタック、なんであんなに自分の事悪く言ったんだろ。あれって謙遜ってレベルじゃなかったよね? 昔はあんな卑屈な事言う感じじゃなかったのに……その辺も俺的には、洗脳っぽく感じんだけど」

 一体どうしてそんな事になっているのか。

 眉間に深い皺を刻む春親に、清史は少し考えてから。

「まぁアレだな……プロになるって夢が断たれて、面接も落ちまくって、自尊心ボロボロの状態に付け込まれたって事かもな。そういう時に拾われたから、その上司ってのが絶対の存在になってんだろ。傍から見てるといいようにされてるとしか思えねぇけど、危ういところを助けてくれた恩人だからって、タックは全部受け入れてる……」


 話している内、電車が滑り込んできた。その中に乗り込んでからも、二人は夢中で話を続ける。

「思うにその上司って奴、相当支配的なんじゃねぇかな。だから部下は長続きしなかったし、現状残ってる奴らからも反発されてる。でもタックだけはついてくるから、こいつだけは従順で居させようって自尊心削ぎにかかってんじゃねぇかな。本当は駄目社員じゃねぇのに、自信なくさせて自分に従うようにって……」

「っ、それだ!」

 春親は電車内にも関わらず、大きな声で同意した。

「マジそれ、きっとそういう事だわ! つぅかそうとしか思えねぇ! その上司っての、ただのモラハラ野郎じゃん! あー腹立つ!」

 春親は怒りのぶつけどころを求めてか、ぐしゃぐしゃと自らの髪を掻き回す。

「タックは上司をガッカリさせたくないとか言ってたけど、それやっぱおかしいわ! その上司ってのが勝手にタックに背負わせ過ぎてるって話じゃん! その為にタックが人生犠牲にしてんの納得いかねぇって!」


 春親がヒートアップするのと同様、清史も激しく憤っていたのだが、ここで自分まで怒りに飲まれてはならないとわかっていた。春親の感情が爆発している時は誰かが抑えに回らなければ収集がつかないのだ。故に清史は努めて冷静に言ってやる。

「まぁ確かに腹立たしい話ではあるけど……でもこればっかりは、俺らが口出してとうこうなる話じゃねぇよ。タック自身がどうにかしたいって思わねぇと……俺らがその上司しめるわけにいかねぇんだし」

「え、いかないの?」

 春親はきょとんとして尋ねる。これに清史は間髪容れず「いかねぇよ馬鹿」と突っ込んだ。

「部外者が口出してもタックの立場が悪くなるだけし、下手したらクビになるかもしんねぇだろ。そうなったらお前責任取れんのか……って、お前がタック養うってのは無しだからな。とにかく俺らには、タックが望んでねぇ事をする権利はねぇんだよ」


 言おうとしているだろう事を先回りで封じると、春親は悔しさからか鼻の頭に皺を寄せた。だが、きっと春親もわかってはいるはずだ。ここで自分達が無茶をしてもなんの解決にもならないと。そんな事をしても、ただ拓実に迷惑を掛け、困らせるだけである。

 だがそうはわかっていても、やはり納得はできないようで。


「じゃぁ……俺らにできる事ってなんにもねぇの? タックがまた踊らなくなんのを、仕方ないって諦めなきゃいけねぇの?」

 春親はどうにも抑え切れないというように言い募る。

「だって、どう考えてもこのままでいいとは思えねぇじゃん。俺がタックに続けて欲しいから言ってるってだけじゃねぇよ、何よりタックにとって良い事だと思えねぇ……だって、会ったばっかの頃のタックってめちゃくちゃ窶れ切ってたし!」


 言われて清史も思い出す。二カ月前の拓実からは、昔のような溌剌とした雰囲気が一切感じられなかったと。歳を重ねたからというだけでは説明が付かない程、纏う空気は何処か暗く、顔色だって悪く、まるで別人のようだった。

 だがそんな彼が、ダンスを再会してからは水を得た魚のように、どんどんと笑顔を増やしていった。絶対王者の頃のような明るさや懐っこさも戻ってきた。つまり、ダンスを封じ仕事のみに打ち込む日々が、拓実の本来の人間性を奪っていたという事だ。


「ね、要するにさ? タックにとってダンスって、なくちゃならないモンなわけ!それが無いと死んじゃうような、すげぇ大事なモンなんだよ!」

 そんなものを易々と手放して良いものか。手放そうとする彼を、ただ見ているだけで良いものか。自分達は拓実にダンスの楽しさを教えてもらい、お陰で人生がぐっと鮮やかになったというのに――……


 春親は歯痒くて堪らないというように、ゴツゴツと額に拳を打ち当てる。その様子を暫し無言で見詰めていた清史だが、逡巡し、やがてぽつりと。


「まぁ……もし俺らにできる事があるとすれば、何がなんでも明日の決勝に行く事じゃねぇの。やっぱ大会でバトルすんのって特別だし……その場に立てばタックだって、やめらんねぇって思うかも……」

 そう言ってはみたものの、勝算は少ないと考えた。無論、決勝まで駒を進める事については心配ないが、拓実が職場での振る舞いを変える事は相当に難しいと思うからだ。


 春親と違い、人間関係の調整役に回る事の多かった清史にはよくよくわかる。集団の中、誰かが立ち位置を変えようとすれば、その誰かは居場所を失うのが普通なのだ。はたまたそれをきっかけに、全体が瓦解する事だってある。それについて大人な拓実はわかっているはず。その上で行動に移すのは、かなりの覚悟が必要である。

 更に上下関係が絡んでいるとなれば余計に話は複雑だ。上から圧迫されている中での自己主張は容易じゃない。その結果被る不利益を考えたら、現状が苦しくとも、波風立てずに耐え忍ぶ人がほとんどではないだろうか。

 それでもダンスという喜びの為に、拓実が上司を突っ撥ねて奮起する可能性なんて――……清史はそう考え、やるせない気持ちになったのだが。


「そっか……そっかそっか! なぁんだ、そんな簡単な事かぁ!」


 春親は楽観的に言ってのけた。

「俺らが決勝いくのなんて確実だし、キヨの言う通りデカいステージでバトルすれば、楽し過ぎて洗脳どころじゃなくなるわ! なんだ、俺すげぇ心配しちゃったじゃん!」

 そう言って先程までの張り詰めた空気をすっかり霧散させるので、清史は大いに呆れてしまった。どうしてそんなにも良い方に考えられるのか。実際拓実が考えを変える可能性なんて極僅かでしかないだろうに。


 だが、いくら言ってやっても、春親に緊張感は戻らなかった。完全に、拓実が明日以降もダンスを続けていくものと信じ切ってしまったらしい。


――これでいざタックに引退するって聞かされたら、コイツどんだけ荒れるだろ……


 想像すると、夏だというのに肌が粟立つ。春親は基本的にのんびりとしているが、感情が振り切ると手が付けられない。

 特に拓実の事となると歯止めが効かなくなるというのはこの二カ月でよくわかった。その拓実が本当に引退を決めたらば、一体何が起きるやら。そしてそれを宥めるのもやはり自分の役目だろうから、覚悟を決めておかなければ。それを思うと、今からうんざりとしてしまう清史だが。


 しかしそんな悲観的な気分の中、少しだけ考える。

――でもマジで、タックが引退を撤回してくれたら……

 他の何を振り切ってでも、ダンスこそ人生だと言ってくれたら。


 そんな希望を抱いてしまうのは仕方のない事だった。清史からしても、拓実のダンスが観られなくなるというのは、大きな喪失に違いないのだ。


――だったら俺も、希望くらい持っとくか。


 ダンスジャンクは人生を変える大チャンス。これをきっかけに、清史は自らの人生を切り拓くつもりでいる。だから元々全力で挑むつもりではいたのだが。

 そこにもう一つ、拓実というモチベーションを加えてみる。

 拓実がこれからも踊り続けていたくなるような、そんな景色を見せてやりたい。

 その為にも、明日は絶対の全力で踊り切ろうと、固く決意するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る