第50話 春親・清史の推し語り
仕事について色々と思う所のある拓実だが、しかし狩谷の無関心な態度について、少し助かったところもあった。それというのは残業について、狩谷からなんの指示もない事だ。
実のところ、狩谷が復帰するとなれば、今までのような定時退社は難しくなるのではと思っていた。それ故に色々と考えを巡らせ、角が立たないように残業を断る言い訳を準備していたのである。
が、それはつまり、嘘を吐くという事だ。恩のある上司に嘘を吐くのは……と拓実はどうにも心苦しさを感じていたが、蓋を開けてみれば狩谷は拓実の退社時間になんの口も出さなかった。何故そんなにも無関心なのかは気になったが、これは非常に有り難い。
そうしてこの日も、ほぼ定時にタイムカードを押す。今日は春親、清史とのスタジオ練習だ。
打刻の音が鳴ると同時、頭のスイッチが切り替わる。仕事についての悩みや懸念が追い払われ、ダンスに対するわくわくで満ちる。これから思い切り踊れるのだと思うと嬉しくて……そしてそれと同じくらい、あの二人に会うのが楽しみで。
それは彼らから盗めるものが多いだとか、アドバイスを与え合い切磋琢磨できるからという理由もあるが、今では単純に彼らの顔を見る事自体が楽しみになっていた。三十を過ぎてそんな仲間ができるなんて、全く想像していなかったが……
そうして拓実は弾むような足取りで駅へ向かう。気持ちが逸っていた為か歩調も速く、いつもより一本早い電車に乗る事ができた。お陰でスタジオに到着したのも予約時間より十五分も早かったのだが――……それを喜ぶ事はできなかった。
何しろスタジオの待合スペースでは、こちらも早めに到着していた春親と清史が陣取って、拓実のバトル動画を観ながら只管に推し語りをしていたからである。
「やっぱさ、この掴みがもうエグ過ぎでしょ! ハイタッチきっかけでグンとギア上げてくるとか、マジどういう演出⁉ 一気に持ってかれんだけど!」
「それな、このぎこちないステップ! タックが踊れないわけねぇってわかってたけど、それでも正直ハラハラして……けど、そっからのギャップがマジでずりぃ!」
「こんなん惚れないわけないって! それにこれ、この動き! 厳つい振りからのヘッドロールのエロさ、めっちゃ痺れる!」
「なんで普段あんなに素朴なのに、踊るとこんな色気出んだよ⁉」
興奮した二人からは怒涛の感想が噴出し、拓実はなんとも居心地が悪かった。褒められるのは間違いなく嬉しい、が、褒められ過ぎるのは困ってしまう。どう反応していいかわからなくなるのだ。
「あのー二人とも……そろそろ勘弁してくれないか……」
拓実は動画の停止ボタンに手を伸ばす。が、若者達は「あ、今いいとこなんで」とその手を軽くあしらった。おいおい。キミらが尊敬するタック本人が止めたいと言っているのに、その態度はなんなんだ?
いつもは拓実の事をとても尊重してくれる二人だが、どうにも暴走する場面があるのは否めない。特に拓実のダンスの事となると、彼らはどうにも過激である。
「というか……そもそも動画なんていつの間に撮ってたんだ? キミら、バトルの間スマホ構えてなかったよな?」
拓実は当時の状況を思い出しつつ問い掛ける。すると春親が、画面に釘付けになったまま答えを寄越す。
「これは俺らが撮ったんじゃないよ。ジャッジの誰かが撮ってたみたいで、SNSに上がってたの。で、それがちょいちょいバズっててさ、俺らんトコにも回ってきた」
「えっ! じゃぁこれ、一般に公開されてるのか⁉」
拓実は思わず面食らう。まさか自分の許可していない動画がこんな風に出回るなんて……ネットリテラシーは一体どうなっているのだろう。
そう考えてゾッとしたが、しかし改めて見直せば画面は暗く、撮影者と拓実の間には距離もあり、はっきりと顔が判別できるようなシーンはなかった。きっと近しい知り合い以外、これが拓実だと気付く事はないだろう。ならばまぁいいかと気に留めない事にする。思い返せば現役時代も、勝手に動画を撮られて公開されるのは日常茶飯事だったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます