第32話 課題は山積み



 ダンスジャンクに参加すると決めて以来、拓実の日々は多忙を極めた。仕事とダンスを両立させなければいけないのだから慌ただしくて当然だが、どちらにも大きな課題があるのだから尚更だ。


 仕事の課題とは言わずもがな、狩谷の留守を預かりつつ業績を上げるという事である。班長代理として班員達を取り纏めつつ、注文数を増やす為の営業もしなければ。その為に常に頭はフル回転。遠くにも近くにも目配りしつつ、効率を考え続けなければいけないのだから気が抜けない。


 そしてダンスはダンスで、体力作りという課題があった。

 会社勤めを始めてからは毎日毎日忙しく、運動の時間なんて全くもって取れなかった。お陰様で現役の頃と比べ、圧倒的にスタミナが足りないのだ。


 この不甲斐ない身体を鍛え直すには、スタジオ練習で清史の指導を受けるだけでは不十分。もっともっと積極的に、体力を取り戻すべく努めなければ。

 だがやはり勤め人には、自由になる時間が実に少ない。通勤に一時間程掛かる拓実では早朝に走り込みをするのも厳しいし、夜だって、さすがに毎日定時上がりというわけにはいかない。それ故に、安定して体力作りの時間を取る事が難しい。

 ではどうすれば、仕事と体力作りの両方をこなせるか……拓実はこれに頭を悩ませ、そして一つの結論を導いた。こうなったら、同時にやればいいのだと。


 そうして拓実は清史に相談し、多くのアイディアをもらってきた。デスクワーク中に少し足を浮かせるだとか、腿の間で強くクッションを挟み込むだとか。倉庫作業はできる限りつま先立ちになり、運転中は――うん、さすがに何もできないが、車を降りたら移動は全て駆け足で。膝に負担を掛け過ぎないよう気を付けつつ、着実に鍛錬を積んでいく。


 仕事をするだけでも大変なのに、加えてそんな事まで行っていれば、帰る時にはくたくただ。が、どうにも不思議な事があった。

 それは少し前よりも、胃が痛まなくなっているという事である。

 こんなにも身体に鞭を打ち、その上仕事でもダンスでも成果を出さなければというプレッシャーを背負っていれば、ストレスで盛大に胃が痛んでもおかしくない。だが拓実の胃は前に比べ、随分と大人しくなっている。これは、やはり。


――ダンスが特効薬になってるのかも……?


 そんな考えを裏付けるように、この日も疲れ果てて会社を出たが、イヤホンを耳に嵌め音楽を流すと途端にワッと気力が湧いた。曲に合わせて頭の中、どんな振り付けが合うだろうかと考え出すと、アドレナリンが噴き出して疲れが飛ぶのだ。


 因みにこの、“音楽を聞きながら振り付けを考える”というのは、物心付いた頃からの癖だった。意識しての事ではなく、音楽が耳に入ると自然にそうしてしまうのだ。

 この癖は引退してからもずっと抜けず、今のように熱心にではないものの、拓実はしょっちゅう頭の中で踊っていた。そのお陰もあってか、身体の錆び付きに比べ、即興で振りを引き出す能力は衰えていない。今もイヤホンから流れ出すR&Bに合わせ、振りのアイディアが溢れてくる。すると疲労は押し流され、代わりにやる気が満ちて来る。


 と、疲れを飛ばす程にアドレナリンが出てくるのは、その果てに大会があるからだ。拓実にとってダンスとは、誰かに観てもらってこそなのである。

 ちゃんとその場が用意されている、スタジオで一人で踊って終わりじゃない……その事実が拓実をどこまでも高揚させた。観る人をわくわくさせるにはどうするか、それを念頭に置いて振り付けを練る作業が、この上なく楽しいのだ。


――って、本番の事考えると楽しいばっかりじゃないんだけど……

 そう考え、拓実は浮かれそうな自分を戒める。何しろ自分は決勝まで温存され、高まりきった期待の中で会場を沸かせなければならないのだ。

 これまでは余り深く考えてこなかったが、冷静になるとその構成はとんでもなくハードルが高かった。何しろ春親と清史は本物の実力者だ。拓実はこの数日、勉強の為にと近年のバトル動画を見漁っていたのだが、全体的にハイレベルなダンサーの中でもあの二人は飛び抜けている。彼らならどんな相手が出て来ようと、きっと決勝まで辿り着ける。

 そしてそんな二人のチームメイトとして決勝にのみ登場する拓実には、恐ろしい程の期待が掛かるに違いない。


――それ、本当に俺なんかに務まるのか……? 春親くんや清史くんに比べて、圧倒的に見劣りするのに……もしかしたら物凄くブーイングされるかも……


 そんな考えに飲まれ掛け、拓実はハッとして頭を振った。

 駄目だ駄目だ、またネガティブになっているじゃないか。初めてのスタジオ練習にて怖じ気付き、散々あの二人に迷惑を掛けた。だというのにまた弱気になるようでは目も当てられない。


 拓実はあの初回練習の醜態を思い出す度、地底に潜りたいような気分になった。いい大人が、一度やると言ったにも関わらず逃げ腰になり、若者達の前で弱音をまき散らすなんて。時間が経つ程、自分の行動が如何に情けなかったかが身に染みる。

 だがあの時は本当に、踊る事が不安で不安で仕方が無かった。ダンスを離れ、会社勤めをする内に、自信の持ち方をすっかり忘れてしまったようだ。春親と清史の支えがなければ、あのままダンスを諦めてしまっていたに違いない。

 と、現在も拓実は自分のダンスに自信を取り戻し切ってはいない。想像よりはできていたと思うものの、春親と清史のレベルの高さには毎度圧倒されてばかりである。


 だが、怖じ気付きそうになる度に彼らの「解説」を思い出し、自らを奮い立たせた。そして只管、努力する。弱気が襲ってきた時は、それを跳ね返せるくらいに己を高めるしかないのである。


 だから、やれる事は全てやる。あらゆるジャンルの曲を聞き込み、それらにマッチする振りを脳内にストックしておく。それから新しい動きも習得し、狭くなった可動域もなんとかして……やる事は山積みだ。


 拓実は仕事の業績を上げる為に尽力しつつ、それ以外の時間をダンスの為に費やした。通勤電車の中で慎ましくアイソレーションしてみたり。つま先立ちのまま耐えてみたり。電車を降りてからは脳内ダンスをしつつ会社へ向かい、昼休みは振り付けの研究に精を出して――


 そうして日々磨いたものを、スタジオ練習にて確認する。鏡の前で動きながら、どれくらい身体が変わったか、浮かんでいたアイディアが実際に動いてみるとどうなのか、一つ一つ確かめていく。

 また、自分のダンスは必ず動画を撮って見返した。そうすると鏡よりも客観的に見られるので、修正点がわかりやすいのだ。

 一つ一つの動きを最も魅力的に見せるにはどうするか。肩を入れる? 腰を落とす? 目線はどこに置くのが効果的か――そんな事を細かく細かく詰めていく。


 そんな生活を三週間も続けると、徐々に変化が現れた。

 スタジオの鏡の前に立って己を見ると、なんと言うか。

 少しばかり、上手い奴の佇まいに近付いているような気がしてきたのだ。

 流れ出した音楽は忽ち身体へ染み渡る。メロディが、ビートが、自分と一つになっていく。軽く足を踏み込めば、流れるように四肢が動く。次に何をするべきか、考えるまでもなく反応する。


 あぁいいぞ、いい感じだ。


 曲に合わせ、実に滑らかに振りが出てくる。可動域もかなり広がり、思い描いた理想の姿に鏡の自分が重なり出す。スタミナだって付いてきて、ダイナミックに動いても以前より疲れない。拓実の身体は確実に現役時代に近付いている……が、まだまだ。

 現状に満足しそうな自分自身を、拓実は厳しく戒めた。


 自分はもっとできるはず。もっと上を目指せるはず。

 慢心するな。怠けるな。

 考え、磨け。

 試せ、試せ。


 絶えず胸の内に唱えながら、どこまでもストイックに己を高め――……そんなある日。

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